危篤スルー
日本テレビ
木曜日 24:59~(放送終了)
佳作である。大きな病院の院長が危篤状態に陥る。豊かな人生をおくってきた者は豊かな死を迎えられる、という院長の常日頃からの見解が毎回冒頭に流れる。自分は当然、豊かな死を迎えられる、と信じる院長のモノローグが流れる。院長ははっきり意識があるのだが、周囲にはそれがわからない。横たわる院長の前で展開される悲喜劇、というコンセプトだ。
露わになるのは、院長が抱いていた自身の人生に対する誤解ということになるが、その多くが人間関係によるものだ。自身の人生が周囲の人間関係によって定義される、つまりはそう大物というわけでもない。しかしながら成功者然としている、という意味でも病院長という設定は理にかなっている。その彼にとっての豊かな人生とは豊かな死を迎えられることにあり、そう悪人の考えることではない。
だが院長のささやかな期待は、ことごとく打ち砕かれる。妻は遺言書と息子の継承にしか関心がない様子だし、腹心に至っては陰で息子を罵倒して自信を失わせ、病院の乗っ取りを画策する始末である。心のオアシスであった美人看護婦は、息子とも関係があったらしい。
対外的には、病院は不祥事で記者会見を開くはめに陥っている。救急車で運ばれてきた女の子の受け入れを拒否した直後、女性大臣を受け入れたと報道された件である。女の子は亡くなり、大臣は一命を取りとめた。院長の代理で、誰が会見に臨むかも問題ではある。
いったいに演劇的で、テレビっぽくはない。しかし演劇で院長のモノローグをどう被せるかを考えると、やはりフィルム(デジタルだが)に親和性がある。テレビっぽくないフィルムといえば映画だが、その大仰さはない。馬鹿ばかしい軽さはテレビのもので、しかし10回近くも連続するものではないし、そうかと言ってもちろんスペシャル企画にも程遠い。
この寄る辺のなさは、やはり深夜ドラマだと言うべきだろうか。そもそもテレビドラマは、営業的にもクールという制度で統御され、少なくともゴールデンではそのクールから外れる企画をわざわざ拵える理由はない。しかしそのことが、その外形が内容を規定するということもあろう。
3ヶ月という期間、視聴者がそれに寄り添い、次なる展開を期待するような企画となると、どうしても視聴者寄り、日常生活の情感をベースにしたものになる。コメディタッチとはいえ、死にかけた者の視点で長々と見せるというわけにいかないのだ。その視点で示されるのは結論であって、過程ではないからだ。
結局は誤解は解け、院長を含めた誰もがそう騒ぐほどの悪人ではないというハッピーエンドに落ち着く。この辺は1クール続く連続ドラマも同じだが、鼻白むような感じ、無理やり決着を付けた舞台裏が透けて見えるというのは避けられていて幸いだ。ハッピーエンドなのに後口が爽やかなのは結局、院長が死んでしまうからだ。すべてを彼が見聞きしていた可能性が登場人物たちに示されると同時に、視聴者には逆に、これまでの院長のモノローグが空耳だったようにも思われるのだ。
田山了一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■