続続・言葉と骨董_No.038_01

 

 

 以前、鎌倉出土の漆器椀残闕李朝のお膳と漆器について二回書いたが、今回は東北ならではの漆器を取り上げたい。浄法寺塗(じょうほうじぬり)である。浄法寺は岩手県北部の、今の浄法寺町あたりで作られた漆器である。実物を見るといかにも古そうだが、それほど時代はない。江戸後期になって盛んに作られ、明治末頃にはいったん生産が途絶えたようだ。現在では地域産業活性化の目的もあって、また盛んに浄法寺塗が作られている。

 

 なお浄法寺エリアは国産漆の一大生産地である。漆は漆の木に傷を付け、そこから採れる樹液を集めて精製したものである。一本の木から採れる漆の量はほんのわずかであり、漆器生産が盛んになる明治中期から中国や東南アジアの漆が輸入されるようになった。ただ国宝や重要文化財に指定されている寺社仏閣などの修復には昔ながらの国産漆が使われている。浄法寺産の漆はそのかなりの部分をまかなっているのである。

 

 浄法寺エリアで漆器がたくさん作られたことからもわかるように、漆が入手できる地域では古代から盛んに漆器類が制作されてきた。日本では北海道網走から大分県あたりまで漆の木が自生しているので、全国で漆器が作られたわけである。その中でも長期に渡り、一定の作風で量産された漆器が○○塗と呼び慣らされてきた。津軽、秀衡、浄法寺、会津、高岡、輪島、木曽、飛彈、根来(紀州)、琉球塗などがその代表的なものである。もちろんお隣の朝鮮、中国でも盛んに漆器は作られた。タイ、ミャンマー、ベトナムなどの東南アジア諸国でも漆器製作は盛んである。

 

 ただ土で固めた大きな窯を作り、その近くに失敗作を捨てた広大なゴミ捨て場(物原(ものはら)と呼ぶ)を持つ焼き物窯と違い、漆器は生産拠点を特定しにくい。木材を椀やお盆の形に削る道具は持ち運びできるし、漆を乾かす(正確には漆は水[湿気]に含まれる酸素と結びついて個化する)場所((むろ)と呼ぶ)も民家などを活用できる。失敗作は焼いてしまえばいい。もちろん縄文時代から中世にかけての漆器工房は日本全国でいくつも発掘されている。しかしそれらの遺構が、現在○○塗と呼ばれている作品と直接結びつくわけではない。

 

 木地師や塗師といった漆器職人は、ずっと同じ場所で制作を続けたわけではないようである。依頼があれば移動して制作していた節がある。焼き物の世界でも信楽、伊賀には類似点があり、美濃の織部焼きと同じ作風の焼き物が唐津でも作られていることから、陶工が移動していたことがわかる。ただ土地ごとに土や釉薬の特性が大きく変わる焼き物では、作品の残存数から見ても陶工の移動は小規模だったと推測できる。しかし漆器の職人の移動はもっと大規模で頻繁だったようだ。それが日本全国で質の高い漆器が制作された要因になっている。

 

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【参考図版】金銀鈿荘唐大刀(でんそうからたち)(正倉院宝物 正倉院展図録より)

 

 発掘ではなく伝世(手から手へ大事に受け継がれて来た物)の漆器は、聖武天皇遺愛品が納められた正倉院御物が恐らく世界最古である。正倉院には約八百点の漆器があるが、金銀鈿荘唐大刀(でんそうからたち)はその中の優品である。『献物帳』(天平勝宝八年[七五六年])に「鞘上末金鏤作(まっきんるづくり)」と記載されていることから、八世紀前半に作られたと推定されている。写真からわかるように、鞘の部分にヤスリで卸した金粉を振りかけ、その上からまた漆をかけてそれを炭で研ぎ出している。後に盛んになる研出(とぎだし)蒔絵と呼ばれる技法である。正倉院蔵品で研出蒔絵が使われた例は金銀鈿荘唐大刀しかなく、呼び名に「唐」が付いているのでこの作品は唐時代の中国から将来(輸入)された可能性がある。

 

 ただ日本人と漆の付き合いは長い。漆は最初は頑丈な接着剤として使用されていたが、縄文時代草創期の約一万年前の遺跡から漆が出土している。七千から八千年前には既に列島で漆器が作られたことがわかっている。漆器の歴史は縄文土器よりも古いのである。漆器製作技術自体が大陸や半島経由で列島にもたらされた可能性はあるが、日本で独自に進化した技法も多い。日本の漆器技法は国内(列島内)で育まれたものに、ときおり渡来人などによってもたらされた大陸の技法を加味してできあがっていったようである。

 

 その証左に七世紀に律令国家が成立するのと同時に、早い時期から大和朝廷は漆を国家的に管理している。すでに漆器製作技術が確立され職人集団が形成されていたわけだ。良く知られているように朝廷は租・庸・調・出挙(すいこ)などの税を農民に課したが、その中に漆の貢進や漆器の納付が含まれている。朝廷自らも漆器の製作に乗り出しており、『令義解(りょうのぎげ)』では漆製品の管理部署である「漆部司(ぬりべのつかさ)」が置かれているのが確認できる。漆は寺社の装飾や仏像制作のほか食器などにも使われたが、漆器を使用できるのは十二階の冠位のうち五位以上と厳格に決められていた。古代国家では漆(漆器)は貴重品だったのである。

 

 平安から鎌倉時代も、国家的庇護を受けている寺社や高位の人しか漆器を使えなかったのは同じである。以前鎌倉出土の漆器椀残闕で書いたことだが、鎌倉では大量の漆器が出土したがそのほとんどに使用痕がなかった。そのため鎌倉漆器は祭祀などで使用し、その後破棄されたのではないかと推測されている。確実に伝世の鎌倉漆器と特定できる作品が残っていないこともそれを示唆している。もちろん人々は食器を使って食事をするようになっていたが、柿渋(渋柿の汁液を発酵熟成させた塗料)を塗った木器や素焼きの土器などを使っていたようだ。

 

 柿渋は防水・防腐・防虫剤として古くから使われていて、漆器の下塗りにも活用される。直接木地に塗って乾かせば頑丈な食器になったのである。ただ漆の堅牢さには遠く及ばない。出土の漆器を見ると、中の木は腐ってなくなっているのに漆の皮膜だけは色鮮やかだったりする。庶民が使っていた柿渋の塗り物は傷めば捨てられる生活用品であり、土の中で完全に腐ってしまうのであまり残っていない。

 

 近世室町時代以降になると、漆器がじょじょに生活の中に浸透してくる。高位の貴族だけでなく、武士や僧侶、それに豪商や富農も漆器を使うようになった。室町時代を代表する漆器の一つに根来塗(ねごろぬり)がある。紀州根来寺(現・和歌山県岩出市)の僧徒が寺で使用する什器を制作したのがその始まりだと言われる。実際、根来の優品は関西圏の大寺に伝わった物が多い。しかし折敷(おしき)と呼ばれる四角いお盆が今でもかなりの数残っている。折敷は食器を乗せるための食台で日用品である。この頃の根来エリアでは寺などで使う什器のほかに、一般富裕層向けの漆器を大量生産した複数の工房があったと推測される。

 

 漆器を産業として見ると、室町時代頃から、根来エリアで見られるような生産形態が確立されたようだ。貴人(権力者)の近くに侍って漆器を製作する職人たちと、地場産業として漆器を作る人々がゆるやかに分岐していったのである。どの職人の世界でもあることだが、もちろん腕のいい職人が貴人向け製品を作るために吸い上げられていったのだろう。なお根来の漆職人たちは、天正十三年(一五八二年)の豊臣秀吉による紀州攻略により根来の地を追われ、日本全国に散り散りになって漆器の技法を伝えたという伝承がある。

 

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【参考図版】秋草蒔絵歌書箪笥(高台寺蔵)

 

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【参考図版】初音蒔絵鏡台と内容品(徳川黎明会蔵)

 

 「秋草蒔絵歌書箪笥」は豊臣秀吉の正室・北政所が秀吉の菩提を弔うために、京都東山に建てた高台寺に伝わる作品の一つである。高台寺蒔絵という呼称は幕末頃からのものだが、高台寺には蒔絵で装飾した優れた漆作品が数多く伝わっている。「初音蒔絵鏡台と内容品」は徳川三代将軍家光の長女・千代姫が、尾張徳川家二代光友に嫁いだ際の御道具類(嫁入り道具)の一つである。『源氏物語』第二十三帖の『初音』の意匠で統一されているので「初音の調度」と呼ばれる。これらの作品は幸阿弥(こうあみ)家が制作したことがわかっている。

 

 幸阿弥家初代道長は足利家八代将軍義政に仕え、二代道清の頃から漆器製作を行うようになった。以来、天皇家や将軍家が使用する漆器類を数多く制作している。記録によれば徳川秀忠の五女・和子(東福門院)が後水尾天皇に入内した際の道具類を手がけ、後水尾天皇と東福門院の間にできた女一宮興子(おきこ)内親王が即位して、明正天皇になる際の御道具類も製作している。幸阿弥家が制作した漆器類は高台寺蒔絵と初音の調度のほかに、まとまったものとしては本田忠刻(ただとき)と千姫(豊臣秀頼の正室だった)の間にできた娘・勝姫が、備前岡山藩主池田光政の元に嫁した際の調度類が残っている。

 

 幸阿弥家は典型的な例だが、幕末に至るまで、天皇・貴族、将軍・大名家の側近くに侍って注文で漆器を製作する職人集団がいた。千利休が茶道を大成してから貴顕の間で陶器を中心にした茶道具が高値で取引されるようになるが、それは男たちの間での、いわば遊びの侘茶の世界のことである。催し事に使われる正式な御道具類は、昔ながらの雅な漆器が中心だった。武家だろうとハレの場では、天皇家平安貴族の様式を踏襲するのが日本の伝統だった。実際、初音の調度に焼き物はほとんど含まれていない。今でも産地のわからない精緻な漆器作品が数多く残っているが、それらは京や江戸などで注文制作された漆器だと思われる。漆器は木材と漆さえあれば、どこででも制作できたのである。

 

 また漆職人の、少なくともその頭領は、高い教養を持つ人々だったと考えられている。『伊勢物語』や『源氏物語』に精通していなければ貴顕の要望に応えられないのである。一方で江戸中期頃から庶民富裕層向けに漆器を製作する者たちが現れ、輪島や会津塗と呼ばれる地場産業を形成していったわけだが、彼らの教養程度が低かったとは言えない。能登地方でほんの少しだけ作られた合鹿椀などを除いて、雑器としての漆器はあまり作られていない。明治時代に至るまで漆器はずっと高級品だった。鄙の地で作られた漆器であろうと、その作品は京や江戸で作られた最高級品の漆器の影響を受けている。

 

 つまり江戸時代までの漆器の世界は、天皇家や将軍家御用達の最高級品を頂点とするピラミッド型のヒエラルキーを為していた。どの漆器の生産地でも最高級品の意匠を参考にしながら、それぞれの分に応じた作品を制作していたわけだ。漆器の絵(模様)が、焼き物などに比べて遙かにバリエーションに乏しい理由である。ただそれぞれの土地柄によって、自ずからその表現方法が変わってくるのが工芸品の面白いところである。

 

 輪島塗といった北陸地方の漆器は、黒漆の器体に金蒔絵を施すことが多い。豪華だが控え目で落ち着いた雰囲気である。また北陸漆器は堅牢な作りである。ところが同じ雪国でも、旧盛岡藩(現・岩手県)エリアで作られた漆器はだいぶ雰囲気が違う。漆器の質自体は輪島塗などに比べて大きく劣るが、その意匠はとても派手である。また浄法寺塗を中心とする岩手の漆器には、貴顕が使用する高級品から庶民用の日用品まである。江戸時代の漆器のヒエラルキーが、浄法寺塗に縮小して再現されているかのようなのだ。それらは当時の旧盛岡藩エリアの人々の精神性を反映している物(漆器)である。

鶴山裕司

(後編に続く)

 

 

 

 

■鶴山裕司詩集『国書』■ 

国書

 

 

 

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