美女と男子

NHK

火曜 22:00

No.092_TVドラマ批評_01

 

 

 なんとなくピリッとしないタイトルは、長丁場でテーマが拡散してゆくからだろうか。発端から見れば若い女性のビルディングス・ロマン(成長物語)なので、朝の連ドラっぽいところがある。芸能界が舞台になっているところは『あまちゃん』を思い出させるところもある。

 

 若い女性が成長するといっても『あまちゃん』のような女子高生ではなくて、子持ちのキャリアウーマンである。その歳になってもまだ未熟であることより、その成長が促されたり肯定されたりするところが現代ともいえるし、NHK 的な甘さだということかもしれない。視点を変えれば、今でも昔でも、そういう女は単に救いのないヤなオバさんでしかない。

 

 救ってあげねばと思わせるのは、仲間由紀恵の少女じみた美貌以外の何ものでもなく、その意味で映像的な説得力を駆使していることになろうか。IT 企業に勤める有能な野心家という設定だが、未成熟なのだから有能かどうかは眉唾だ。それが貧乏臭い芸能事務所に左遷される。上から目線が通用しない、人間関係がすべてのところで叩き直されるという話である。

 

 男でも女でも、こういった人物が主人公になり得るのは、本来的に愛すべきところがある、ということなのである。真っ直ぐだからこそ白黒つけたがり、自分を白だと思い込んでいる。間違いを認めれば、存外に本当に真っ直ぐになる可能性を感じさせる。子供にはよくいるが。

 

 成長物語の古典であるディケンズの『ディヴィット・コパフィールド』には、むしろ度しがたいヤな奴として、いつも下から窺うような目線でお世辞タラタラ、というのが登場する。上から目線は鼻っ柱をへし折ればいいから簡単なのだが、こういうのはたちが悪い。正体を知っている読者・視聴者はイライラする。このイライラさせる、というのが成長物語における “ 悪 ” の定義かもしれない。

 

 成長物語とは教育的配慮も伴っているだろう、到達目標を定めたエンタテインメントであって、それを阻むものが構造的に “ 悪しきもの ” ということになる。そこへ疑いを差し挟むことは、ジャンルの掟に抵触する。これは主人公の行く手を阻むものではなく、あくまで成長を阻むものである。主人公の敵役は、むしろ成長を促すライバルであり、“ 良きもの ” である。

 

 『あまちゃん』にも、このドラマにも、そういった意味でイライラさせる存在は見当たらない。出てくれば即、シリアスドラマになるからだ。どちらも若い女性で、周囲はその成長を結局のところは温かく見守っている。ディヴィット・コパフィールドと違い、女だからだ。

 

 男はときに、成長する前に叩き潰さなくてはならない。自分を殺しにくるようになってからでは遅いからだ。男の成長は命がけなのだ。女の成長ドラマでは、だからどんなフェーズにおいても深刻になる必要などない。そんなテーマがあると勘違いすると、リズムが乱れ、数字が落ちるだけである。

山際恭子

 

 

 

 

美女と男子 江(ごう)―姫たちの戦国〈上〉

 

 

 

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