東京撫子
テレビ東京
日曜 22:48~
短いサイレント・ドラマ、ということである。オシャレな、という惹句もつく。オシャレかどうかは措くとして、テレビでのサイレントというのはチャレンジングの部類に入るかもしれない。短くなければ、もとより保たないだろう。さほどテレビは空白や沈黙を怖れる。
とはいえ、音楽は流れているから、放送事故と間違われる心配はない。ただ登場人物たちがしゃべらないだけで、ところどころに白抜き文字のセリフ画面が入るだけだ。必要最小限の、状況を伝えるためのセリフだ。ではしかし、それがなければわからないだろうか。
テレビは保守的なメディアだ。空白や沈黙以上に、本当のところはチャレンジを忌避する。音楽を流すのみで、セリフ画面を入れなければ状況がわかりづらくなる、となれば入れないわけにはいかない。わからない、というクレームが来ることはわかりきっているし、クレームが来ればスポンサーは黙ってない。テレビの前にいるのは視聴者である以前に、スポンサーの潜在客である。
でも、あえて言えば、このセリフ画面で説明されるストーリーは、わからせなくてはいけないほどのものなのか。ならばなぜサイレントにしたのだろう。もちろん「東京撫子」はテレビ東京による女の子の物語であると同時に、『東京物語』を始めとする小津作品へのオマージュも匂うのだが。とすればやはり、沈黙は徹底して沈黙である瞬間も必要になる。
しかしテレビである。テレビは何であれ徹底するメディアではなく、折衷というのはオシャレにはならない。それでも、だからこそこれを観ていると、セリフとは何か、沈黙とは何かといったことが見えてくる。セリフは役者が個性をアピールするものであり、映像の説明である。排除すれば、多様な解釈の可能性のある映像が、生のままに残るはずだ。
そうならないのは、説明をセリフだけでない、別のものにも担わせているからだろう。役者の表情や立ち位置、撮影の仕方が説明を担わされ、むしろ窮屈な瞬間もある。セリフによって映像は解き放たれるという面もあるらしい。理解させねばならないとすれば、そうなる。
セリフによって解き放たれるのは、視聴者も同じである。セリフによって状況が何となく伝わってこないなら、我々はずっと画面を見守っていなくてはならない。それを可能にするには、よほど力のある映像を流し続けなくてはならない。何かしながらバックグラウンドミュージックのようにテレビの音声を聞いていて、一応観たつもりになるという従来的なテレビ視聴はセリフあってのものだ。
テレビ的な折衷案として、じっと観ていなくてもわかりきった物語にしておく、という方途はある。父と娘、対立と愛情といった物語は懐かしく古典的で、結末は観なくてもわかる。ただその情緒を思い出すだけの短いひと時を与える、ということはあっても別に悪くはない。
田山了一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■