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 雪子ちゃんは野生の雪だるまである。それからして、ある意味で虚をつかれる。野生のサルでもなく野生のリスでもなく、野生のイチゴですらない。野生の雪だるまである。いうまでもなく、雪だるまとは人が作るものだ。たいていは子供が。すなわち野生の雪だるまとはそれ自体、語義矛盾だ。

 

 語義矛盾そのものの雪子ちゃんが降ってきた場所は、しかしごく普通の、まっとうなところである。それは山の別荘地で、雪子ちゃんは年配の女性画家の隣人となった。彼女が、雪子ちゃんが降ってきたのを発見したのだ。ときどきやってくる、たるさんらとトランプをしたり、年越しのドライブをしたりして過ごす。穏やかな日々に、これといった事件が起きることはない。

 

 事件はないが、雪子ちゃんは近所の子供たちと知り合い、学校に行く。他の野生児の物語、たとえば『長靴下のピッピ』などと同様に、雪子ちゃんは学校をめずらしがるが、もちろんそこに馴染むことはない。特に算数の授業は、すべてが間違っているように思えて、みそっかすだ。それでも雪子ちゃんは学校で歓待されるし、『長靴下のピッピ』のように攻撃的に制度を破壊することはない。

 

 雪子ちゃんには親はいない。いや、いたのだが過去の存在である。親がいなければ誰も生まれないのだし、その教えも胸に刻んでいる。ただ、今の雪子ちゃんを保護し、規定する存在はない、ということだ。肝要なのはそこである。雪子ちゃんは本来的に孤独である。

 

 雪子ちゃんが描かれた絵の描線は、少しあやふやである。これもまた、肝要なことかもしれない。いったいに雪子ちゃんという存在について、狙いや主張といったものはないのだ。雪子ちゃんはただそこに、矛盾した存在としてある。矛盾しているからこそ孤独なのであり、社会的な居場所はない。

 

 雪子ちゃんが降ってきた土地の人々は常識的で、私たちと変わるところはない。ただ、野生の雪だるまという存在を当たり前のように受け容れているということの他は。熱いものは飲めず、けれども火の子を見るのが好きで、冷たいバターが好物の雪子ちゃんは型にはまらず、すなわち定義不能で、ディテールに至るまでリアルである。彼らはそのディテールを愛し、気遣い、隣人として遇する。つまり、そこにいる者として。

 

 そしてたぶん、強いて言えばに過ぎないのだが、雪子ちゃんとは、生粋の子供そのものの喩である。何にも紐付けられていない、矛盾した孤独な存在。降ってきた「生まれたて」の「新鮮な」雪子ちゃんは、だから当たり前のものとして受け容れられ、愛されている。

 

 そして物語は常に、そのような解釈や意味づけを裏切らなくては魅力がないのだ。生粋の子供の喩であるはずの雪子ちゃんだが、夏には冬眠する。それは子供ではなくて、雪だるまだからだ(しかも野生の)。その生態にしたがって越冬の準備をすると、思いっきり眠るのである。一生、夏というものを見ることなく。その姿はどこか死を思わせるように不安を掻き立て、同時にひどく逞ましくもあるのだ。

金井純

 

 

 

 

 

雪だるまの雪子ちゃん (新潮文庫) きらきらひかる (新潮文庫)