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(おの)が身の』自画賛 与謝蕪村、円山応挙合筆 紙本墨画 一幅 江戸時代 18世紀 縦19・6×横26・8センチ

 

 

 『(おの)が身の』は応挙が犬の絵を描き、蕪村が句賛を添えた作品である。句は「(おの)が身の闇より(ほえ)()()の秋」である。蕪村自撰の『蕪村句集 秋之部』に、「丸山(円山)氏が黒き犬を(えがき)たるに讃せよと望みければ」という前書き付きでこの句が収録されている。蕪村は墨一色で描いた応挙の犬の絵を見て、「己が身の闇より吼て夜半の秋」の句を作ったわけである。練りに練った句ではなく、絵を見て詠んだ即興だろう。

 

 美術界では南画の大家だが、蕪村は一般的には優れた俳人として知られている。俳句は室町時代に(そう)()が創始したが、言語芸術にまで高めたのは言うまでもなく松尾芭蕉である。しかし長い長い俳句の歴史の中で、真に巨人と呼べる作家は少ない。江戸時代では元禄の芭蕉と天明時代の蕪村が二大巨頭である。俳句のように息の長い芸術で明治維新以降に芭蕉・蕪村に比肩できる作家を挙げるのは早急だが、少なくとも正岡子規を近・現代俳句の始祖と位置づけることはできる。子規は自分の俳句は「天明の蕪村に一歩を進めただけ」だと回想した。蕪村が子規派の基礎になったのである。

 

 蕪村俳句の大きな特徴は漢語の多用と視覚性である。応挙との合作に現れているように、蕪村には実際に見て作った鮮明なイメージの作品が多い。蕪村の絵と俳句は微妙に切り離されて論じられがちだが、そこには密接な関係がある。古来、戯画的な俳画に句賛を添えた作品を作った俳人は多い。蕪村もまた、たくさんの句賛付き俳画を残している。ただ蕪村の場合、それは俳人としての余技であると同時に画家の余技でもあった。

 

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『若葉図』自画賛 与謝蕪村筆 紙本墨画 一幅 江戸時代 18世紀 縦108・7×横27・4センチ 愛知県美術館(木村定三コレクション)

 

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『紫陽花にほととぎす図』自画賛 与謝蕪村筆 紙本墨画 一幅 江戸時代 18世紀 縦38・6×横64・3センチ 愛知県美術館(木村定三コレクション)

 

 『若葉図』の蕪村の句賛は「三千余吟第一の句/行春のあとをよごさぬ若葉かな」である。蕪村はしばしば連吟を行っており、「行春の」はその巻頭句のようだ。恐らく句が先だろうが、絵には三千余句を詠むのだという蕪村の静かな闘志が表現されている。ほぼ墨一色で描かれているが、画面左下に少しだけ淡い青が使われている。そのため見る人は、墨画の樹木にも木々の緑を感じ取るだろう。それは最初の一句の萌え出しの色でもある。つまり『若葉図』の絵と句賛の表現は拮抗している。『若葉図』は賛の意味まで理解しなければ正確に鑑賞できない。南画と同じ姿勢で描かれているのである。

 

 『紫陽花にほととぎす図』の賛は「岩くらの 狂女恋せよ ほとゝぎす」である。京都の岩倉にある大雲寺の不動滝は、精神に変調をきたした人たちのための治療場で、ホトトギスの名所でもあった。蕪村は岩倉の風景のみをさらりと描いた。大きく広がる余白はもちろん意図的である。「狂女」という恐ろしげな言葉とは裏腹に、蕪村は一心不乱の恋心を静謐な風景として表現したのだと言えよう。蕪村俳句には前後左右を断ち切り(省略して)、佳境のみを描く作品が多いのである。

 

鞘走(さやはし)友切丸(ともきりまる)やほとゝぎす

ほとゝぎす平安城を筋違(すじかひ)

子規棺(ほととぎすひつぎ)をつかむ雲間より

(すぎ)てなつかぬ鳥や杜鵑(ほととぎす)

ほとゝぎす(まつ)や都のそらだのめ

   大徳寺にて

時鳥(ほととぎす)絵になけ東四郎次郎(ひがししろうじろう)

岩倉(いはくら)の狂女恋せよ子規

稲葉殿(いなばどの)の御茶たぶ(よる)や時鳥

   箱根山を(こゆ)る日、みやこの友に申遣(まうしつかは)

わするなよほどは雲助ほとゝぎす

(うた)なくてきぬゞゝつらし時鳥

(『蕪村句集 巻之上 春之部』)

 

 蕪村自撰の『蕪村句集 巻之上 春之部』に収録された、「ほととぎす」を含む句である。初句の「(とも)(きり)(まる)」は『曽我物語』に出てくる源氏重代作の宝刀である。連作句ではないが、鞘から名刀・友切丸を抜いた時の戦慄が、二句目の「ほとゝぎす平安城を(すじ)(かひ)に」に引き継がれている。刀の一閃のように、ほととぎすが平安城の空を斜めに横切るのである。いずれも情景が目に浮かぶような視覚的作品である。

 

 「子規棺(ほととぎすひつぎ)をつかむ雲間より」、「時鳥(ほととぎす)絵になけ(ひがし)()(ろう)()(ろう)」は現代俳句としても十分通用する。くちばしが赤いことから、ほととぎすは血を吐いて死ぬまで鳴くと言い伝えられてきた。生の充溢と死の暗い影が投影される鳥であり、だから結核になった正岡は子規を雅号に選んだのである。「時鳥絵になけ東四郎次郎」はペダンティックな作品でもある。四郎次郎は画家・狩野元信の初名だが、蕪村は大徳寺で元信の絵を見て、東の〝(しら)じろ〟とした空で〝()()()()〟のほととぎすは鳴けと言葉遊び混じりで詠んだのである。この句の「時鳥」が絵の中にしかいない鳥であるのは言うまでもない。

 

 「春(すぎ)てなつかぬ鳥や杜鵑(ほととぎす)」、「わするなよほどは雲助ほとゝぎす」は本歌取りの句である。「春過て」は『万葉集』の持統天皇の和歌「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣干したり天の香具山」を踏まえている。「わするなよ」は『伊勢物語』の「忘るなよほどは雲居になりぬとも空行く月のめぐり逢ふまで」が本歌である。ユーモアとは無縁の雅な平安和歌を俳句的諧謔精神で本歌取りした作品だが、蕪村が古典に精通した知識人であり、プレテキストを使って創作した作家だということがわかる。蕪村は言葉によって明らかにされた意味やイメージを前提にして、そこからさらに新たな意味・イメージを創出する方法を持っていた。

 

 俳句の世界で芭蕉が最大かつ最高の作家であるのは揺るがない。彼が俳句文学の基礎を作ったのであり、それは驚くべきことに三百年以上経った現在でも変わっていないのである。ただ正岡子規は、「芭蕉を虚心坦懐に読めば、名句と呼べる作品はほんのわずかである」と批判した。ジャーナリストでもあった子規らしいセンセーショナルな物言いだが、まったくの見当外れではない。ほとんどの芭蕉俳句は紀行文や手紙など、俳句が生み出された背景がわかる「説明文」を伴っている。散文の内容が俳句を引き立たせているのである。芭蕉は偉大な俳人であると同時に優れた散文家でもあった。では芭蕉の文はどのような質のものだったのだろうか。

 

 「月日は百代(はくたい)過客(くわかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり」と芭蕉が『おくのほそ道』を書き出した時に、念頭にあったのは李白の詩である。これも子規が指摘していることだが、芭蕉以前の散文は和文と漢文に分かれていた。芭蕉はそれらを統合し、漢文的観念性を備えた新たな和文を創出した。ただ芭蕉没後の蕉門は芭蕉の散文をそれほど重視せず、晩年の細みや寂び、軽みといった俳句境地を重視して平明な句を好むようになっていった。しかし蕪村は平明俳句(月並俳句と呼ばれるようになる)には赴かず、俳句と文から構成される芭蕉文学を初めて総体的に捉えた作家である。

 

 蕪村俳句には散文がほとんど付随していない。芭蕉から蕪村の百年間で散文と俳句の分かれがあったと言ってもいいし、俳句が文学ジャンルとして確立されるのと同時に、必然的に散文要素が排除されたのだと言っても良い。ただ芭蕉文学では文と俳句に断絶していた漢語と和語(雅)の世界が、蕪村俳句では無理なく統合されている。「()()殿(どの)へ五六騎いそぐ()(わき)(かな)」(白川・鳥羽上皇の離宮に台風の中、五六騎の武者が[政変を告げるためにか]駆けてゆく)、「()()(うち)()(をと)なりしを(ころも)(がえ)」(お手討ちになるはずだった夫婦が[なんらかの理由で許されて]衣更えをしている)といった句に明らかなように、蕪村文学では一句の中に芭蕉的な散文要素が詰め込まれている。文を除外して俳句作品だけを読めば、芭蕉より蕪村の句の方が優れているという子規の評価は正しいのである。

 

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澱河曲(でんがきょく)』自画賛 与謝蕪村筆 紙本墨画淡彩 一幅 江戸時代 18世紀 縦17・8×横50・8センチ

 

 『澱河曲(でんがきょく)』(最終的に『澱河歌(でんがか)』と改題される)は蕪村作品の中では〝俳詩〟に分類される。まず図版掲載したような絵の賛として即興で制作され、その後、追加・改訂されて蕪村春興帖『夜半楽(やはんらく)』(安永六年[一七七七年])に収録された。

 

 学者(儒者兼漢詩人)と南画家を兼ねた江戸の文人は多いが、俳人で南画家だったのは蕪村だけである。ジャンルの垣根を越えられる才能を持つ人だったわけだが、それは文学にも当てはまる。蕪村は『澱河歌』のような漢詩と読み下し文から構成される作品を作り、長歌のような俳句的作品も試みた。そのため蕪村は明治維新以降の自由詩を先取りした詩人だと言われることもある。その是非は別にして、蕪村は俳句・短歌・漢籍(漢詩)を深く理解し、それらを自在に組み合わせて作品を作り出す能力を持つ詩人だった。

 

 澱河歌(でんがか) 三首

○春水浮梅花 南流菟合澱

 錦纜君勿解 急瀬舟如電

   春水(しゅんすい)梅花ヲ浮カベ 南流シテ()(でん)ニ合ス

   錦纜(きんらん)君解クコト(なか)レ 急瀬(きふらい)(でん)ノ如シ

○菟水合澱水 交流如一身

 舟中願同寝 長為浪花人

   菟水澱水ニ合シ 交流一身(いっしん)ノ如シ

   舟中願ハクハ(しん)(とも)ニシ 長ク浪花(なには)ノ人ト()ラン

○君は水上の梅のごとし(はな)水に

 (うかび)(さる)こと(すみや)カ也

 (せふ)江頭(かうとう)の柳のごとし(かげ)水に

 (しずみ)てしたがふことあたはず

(蕪村春興帖『夜半楽(やはんらく)』安永六年[一七七七年]所収)

 

 『澱河歌』は、写真掲載した扇面冒頭に蕪村が「伏見百花楼ニ遊ビテ浪花ニ帰ル人ヲ送ル。技ニ代ハリテ」と書いているように(この前書は『()(はん)(らく)』収録時には削除された)、大坂から京都伏見の百花楼に遊びに来た馴染み客を送る遊女の心を歌った詩である。「()」は宇治川で「(でん)」は淀川である。最初のパートでは、まだ「(きん)(らん)(錦のともづな)」を解かないでちょうだい、川の流れが速くて舟はすぐに行ってしまうんだからと歌っている。真ん中のパートでは「菟」(宇治川)と「澱」(淀川)の合流に男女交合を重ね合わせ、できればあなたと一緒に大坂に行きたいと歌う。最後のパートは遊女の独白である。あなたは去ってしまい、わたしは川岸の柳のように取り残され、影を水に沈めるばかりだと苦界=遊郭から逃れられない女の悲嘆を歌う。

 

 トップクラスの知識人だったが、蕪村は一種特権的立場にもいた。江戸時代に詩といえば漢詩を指すのであり、詩人とは漢詩人のことだった。蕪村は社会的立場としては、町人の遊び文化とみなされていた俳諧の宗匠だった。しかし彼は漢籍に精通しており、正統な南画を描く画家でもあった。漢詩形式の艶詩を書いた儒者は多いが、『澱河歌』のように、漢詩と読み下し文(和文)から構成される詩を書いた詩人は蕪村しかいない。世捨て人俳人である蕪村は、当時の俗(俳諧)と聖(漢詩)の世界を自在に行き来できたのである。蕪村の南画がもてはやされたのは、聖と俗を併せ持った彼の高い精神性を、当時の人々が的確に理解していたためだろう。

 

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『山水図屏風』 与謝蕪村筆 紙本銀地墨画淡彩 六曲一双 江戸時代 天明2年(1782年) (各)縦166・9×横363・7センチ

 

 江戸以前の日本では、最新思想はほぼすべて漢籍の形で入ってきた。東アジア共通の古代中国語をベースにした漢籍(ヨーロッパのラテン語になぞらえることができる)が新たな思想・感性を伝えたばかりでなく、現在のカタカナ外来語と同様に、新たな漢字熟語自体が、ほおっておけば沈滞しがちな日本語を活性化させてきたのである。もちろんこの新知識には図像(イメージ)が伴っていた。中国で流行した新たな絵画技法が、新思想のニュアンスを伝える役割を担っていたのである。

 

 ただ漢籍の受容にも濃淡があった。江戸時代を通して最も熱心に漢籍が受容されたのは元禄時代と幕末である。蕉門の宝井其角が「梅が香や隣は荻生惣右衛門」と詠んだように、元禄時代には中国古典典籍への回帰を模索する()(ぎゅう)()(らい)の古文辞学((けん)(えん)学派)が隆盛した。蕪村の天明時代は考証学派の台頭期だった。考証学派は徂徠の古文辞学よりも厳密な方法でテキスト校訂を行い、古典漢籍の神髄に迫ろうとした。また漢学熱の高まりに呼応するように本居宣長や賀茂真淵らによる国学も勃興した。それら表舞台の知は学者(儒者兼漢詩人)が担ったが、市井の芭蕉や蕪村もまた同時代の漢文化の影響を色濃く受けている。

 

 図版掲載した『山水図屏風』は蕪村晩年の作品だが、賛は中国元時代の『(れん)(じゅ)()(かく)』から採られている。中国の蛮州を流れる章水の風景を歌った詩だが、蕪村の絵は詩の内容そのままを表現している。この作品を見て、とてつもなく上手い画家が描いたのだと思う人はいるだろうが、若冲作品を見た時のように、一瞬で作家の個性を感じ取れる人はほとんどいないだろう。初見で蕪村作品だとわかるのはかなりの専門家だ。『山水図屏風』は作家の個性が直截に表現された作品ではないのである。極論を言えばそれは、文字で、知で構成された絵画である。ヨーロッパ的近・現代絵画とはまったく異なるセオリーで描かれた、東アジア独自の絵画である。

 

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夜色楼台図(やしょくろうだいず)』 国宝 与謝蕪村筆 紙本墨画淡彩 一幅 江戸時代 18世紀 縦28×横129・5センチ

 

 『夜色楼台図(やしょくろうだいず)』もまた文字と知から構成された作品である。冬の山と町並みを描いた作品であり、絵画史的には「雪景山水図」に分類される。「夜色楼台雪萬家」の画題は漢詩人・(はつ)(とり)(なん)(かく)の詩集『(こう)(りょう)(しゅう)』から採られたとも、中国・明代の()(はん)(りゅう)の詩に拠っているとも言われる。また絵は中国画にある峨々たる山水ではなく、明らかに日本の風景――恐らく東山を背景にした京都の町並みである。そのためこの絵は、同時代の(さか)()(ひゃく)(せん)や若冲らの先行作品の影響を受けているのではないかとも指摘されている。

 

 しかし『夜色楼台図』に、蕪村のオリジナリティと個性を感じ取る人は多いだろう。それもまた正しいのである。山水を中心とする南画は、二十世紀初頭まで続いた東アジアの知のパラダイムに立脚している。画家の個性はそこからわずかにはみ出す痕跡として読み解かれるのが常である。ただほとんど無限に積み重なった南画の歴史は驚くほど厚い。だからこそ、わずかであろうと従来の歴史からはみ出す作家の個性は強い魅力を放つのである。それは芭蕉以降の俳句で、ほぼ蕪村一人が驚くべき個性を放っているのと同じ現象である。

 

 幕末は近世と現代の精神性が交わり合う時代である。江戸期固有の文化が絶頂に達し、それと同時に明治維新後に開花する新たな精神も、この時代に育まれつつあった。若冲と蕪村はその両面を備えた作家だが、若冲芸術が奔放な現代性を表現することに傾いたのに対し、蕪村がそれまでの伝統に立脚しながら新たな表現地平を求めたのは確かだろう。それが同時代に同じ場所に住み、友人関係も重なっているにも関わらず、若冲と蕪村が疎遠で終わった理由かもしれない。

 

 わたしたちは若冲の絵を現代の視線で見ている。若冲作品は現代絵画と地続きであり、そこから様々な可能性を感じ取ることができる。それに対して蕪村の絵画は古ぼけてくすんで見える。過去の遺物のように見える。しかしよく目を凝らし、思考を巡らせれば蕪村の真の姿が見えてくるはずである。俳句が現在に至るまで日本文学の基層であるように、蕪村絵画の精神は日本人が描く絵画の底流を成している。ただ現代のわたしたちにとっては、若冲を理解するよりも蕪村を的確に理解する方が、遙かに困難なのは確かなことだろう。(了)

山本俊則

 

 

 

 

 

 

若冲百図: 生誕三百年記念 (別冊太陽 日本のこころ 227) 与謝蕪村 (別冊太陽 日本のこころ)