No.020_文學界_01

 

 

 2015年の新年号から文學界は表紙や目次などのデザインを一新したようだ。少し軽く明るい印象の雑誌になったように思う。ただ目次で小説作品を「創作」と表記しているのは変わらない。この「創作」という文字は、いつの頃からか強い印象を与えるようになった。小説は当たり前だがフィクションである。フィクションだがあたかも本当の出来事であるかのように読者が小説世界に没入してくれるのが理想的だ。しかし大衆小説のようにプロットのない、つまり突飛な事件もオチもない作品が多く掲載される純文学誌では、なかなかそんな形で小説は読まれない。「創作」という文字が、最初から〝これは人工的な作り物ですよ〟と言っているように感じてしまうのだ。純文学誌に掲載される小説は、一般読者がイメージしている小説作品とは質が違うのである。

 

 「なんだよ、もっとはやく言やあいいのに」

 果たして父親はそう言った。

 「コツを教えてやるよ。ドラマだと思えばいいんだよ。くたらんチーム分けとか特訓とか、全部作り事だって。まともに受け取るからがっくりくるんだよ。やってる奴らだって、どうせテレビや漫画の真似してんだろ? ボールぶつけられたって、ああ俺は今迫真の演技したなあって思っとけばいいんだよ」

 創太は父親から目をそらした。それはもうやっている、と思ったのだ。自分が知りたいのはその先のことなのだと思った。こんなのは本当の自分じゃないと自分に言い聞かせて、それからどうなのるのか。作り事じゃない世界にはいつ行けるのか。それとも一生行けないのか。

(井上荒野「はやくうちに帰りたい」)

 

 鍋の油は十分高温になっていて、衣をまとったれんこんを菜箸で投入すると、勢いよく泡が出てきた。(中略)五個をいっぺんに揚げながら、最近知った一つの絵画を思い出していた。ワイエスの描いた、「クリスティーナの世界」。そこに描かれた風景を、私は見たことがないけど、見たことがあった。(中略)あの絵のように女はみんな一度は、安住の場所である我が家から追放され、這いながらまた目指す。実際にはいつもと同じように家に帰れて、家族が笑顔で迎えてくれたとしても、急に疎外感を感じ、私の居場所はここじゃない、いつか自分の居場所のある家庭を作りたい、と思う。そして再出発するのだが、でもそんなものは、どこを探しても見つからない。

(綿矢りさ「履歴のない女」)

 

 井上荒野氏と綿矢りさ氏の小説は、とてもよく似た精神風土を描いている。井上氏の「はやくうちに帰りたい」の主人公は中学生の男の子で、学校で軽いイジメにあっている。綿矢氏の「履歴のない女」の主人公は、仕事でもプライベートでもそれなりに充実した生活を送る新妻である。しかし彼らは共に現在の自分の居場所に不満と不安を感じている。だがどこへ行けばよいのかわからない。「作り事じゃない世界にはいつ行けるのか。それとも一生行けないのか」、「再出発するのだが、でもそんなものは、どこを探しても見つからない」とあるように、進むべき方向すらはっきりしないのである。

 

 このような不安な人間精神は、純文学と呼ばれる芸術形態を貫く基本的主題である。人間精神の奥底には常に表現し難い不安が渦巻いている。純文学はそのような根源的不安自体を描くために、できるだけ突飛な事件を排除し、物語の基本である起承転結の流れ(プロット)をも排除してひたすら主人公(人間)の内面を描いてきた。つまり純文学は内面描写小説である。内面はもちろん〝私〟のものであり、それゆえ純文学は私小説とほぼイコールである。各時代の優れた純文学作家たちは、それぞれの時代固有の状況を踏まえながら、根源的不安からの超克の方途を作品で表現してきたのである。

 

 しかし高度情報化社会の静かだがかつて経験したことのない激しい質的変化にさらされ、戦後文学に代わる新たな文学的パラダイムが求められている現在、純文学作家たちは不安な精神をなだめる術を持っていない。私の自我意識は糸が切れた凧のように漂い、かつ異様なほど肥大化している。インターネットのSNSなどによって、以前とは比較にならないほど人と人の交流は活発になったが、現実の接触は少ない。ネット社会の交流は衝突よりも、個々の人間にとって居心地よく都合のよい疑似社会を作り出しているのである。人はそれぞれが作り上げたヴァーチャル・ソサイエティで自我意識を思う存分肥大化できる。だが肥大化した自我意識を相対化する方途が見つからない。

 

 三百円と云っておけば、こうした場合は大抵二百円に引き下げて、手を打ってくれるものである。この本に関しては、貫太は実際に二百円での買い取りでいいのだった。

 ところがこの店主は、人が折角に熱弁をふるい、うらぶれた殊勝げな態度まで演じて口車に乗せてやろうとしているのに、それらを小うるさそうにフンフン聞いたあとには、

 「じゃあ、百円なら置いていってもいいですよ」

 との、無情な額を述べてくる。(中略)

 それだから、程なくして百円玉一枚きりを握って店の外に出てきた貫太は、

 「てめぇ、この乞食野郎! チリ交ぜまがいの、せこいバタ屋商売をしてやがるくせに、いっぱしの古本屋ヅラをしてんじゃねぇよ! どうせこんな場所での雑本売りじゃ、すぐと店を畳むことになるだろうぜ。借金かかえて首吊って死ね!」

 と怒鳴りつけ、絶対に向後この店には近付けない状況を確と作り上げ、走って逃げる。

(西村賢太「無銭横町」)

 

 「無銭横町」は西村賢太氏の北町貫太シリーズである。貫太は家賃滞納でアパートの引き渡しを二日後に控えている。大家から立ち退きの最後通牒を受けても貫太は働こうとしない。母親に金をせびり、にべなく断られるとポケットには数十円しかない。貫太の部屋にある金目のものは田中英光関連の書籍くらいである。貫太は田中英光という私小説作家の作品を愛好し、全集はもちろん初版本や作品初出掲載誌なども集めている。金がなくても英光の本を売るわけにはいかない。しかし耐え難い空腹が貫太を襲う。貫太は食事代にするために、部屋にあるたった一冊きりの英光以外の新刊文庫本を古本屋に売りに行くのである。

 

 一円でも高く文庫本を売るために店主に縷々哀願し、金を手にすると「いっぱしの古本屋ヅラをしてんじゃねぇよ!」、「借金かかえて首吊って死ね!」と罵倒する貫太の描写は私小説ならではのものである。中卒で定職を持たず、日雇い労働で稼ぐことすら嫌う貫太は社会の落伍者である。その一方で貫太は、世の中の人々がほとんど忘れかけた田中英光という作家を、自分だけが深く理解しているという特権意識を持っている。貫太の自我は一種のエリート意識で肥大化している。この自我意識は社会にぶつかるたびに手ひどく叩き潰される。しかし貫太はひるまない。自我意識の肥大化と相対化こそが人間の自我意識本来の姿であるかのように、飽くことなく自我意識を肥大化させ、社会に叩き潰され続けるのである。

 

 現在活躍している多くの純文学作家と同様に、人間の自我意識(内面)を書きながら、西村氏がそれを相対化できているのは私小説のパターンを踏襲しているからである。ただ西村氏がかつての私小説のパターンをなぞっているとは言えない。明治末以降、綿々と続く私小説作家たちの中で、西村氏ほど確信を持って自我意識の肥大化と相対化を描いた作家はいないのである。その意味で西村氏の私小説はメタ私小説である。独力で『田中英光私研究』や『藤澤清造全集』をまとめ上げた西村氏は、どんな研究者よりも日本の私小説の本質を理解している。作家たちが試行錯誤の末に見出した私小説の方法は、西村氏において明確に方法化されているのである。

 

 外階段の下の集合ポストを一寸覗くと、地方開催の古書即売展の目録が、一冊届けられている。(中略)

 〈嘘と少女 田中英光 真善美社 初版 八千円〉

 との記載があったのである。(中略)

 彼はまたもや宿を飛びだすと、官製ハガキを売っている酒屋に一目散に向かった。(中略)

 将来、何かの役に立つわけでもなかろうに、何故この私小説作家の人と作品にかような執着をいだくのか、自分のやっていることが何が何んだかサッパリわからなかった。

 しかし彼は、まるで目処のつかぬままである移室先費用のことも半ば意識的に忘れ去り、どこぞの隙間から忍び入る風の音と、夜の深々たる底冷えに薄ら寒そうに首をすくめながら、裸電球の下で布団に腹這い、一心不乱にハガキに文字を書き続けるのだった。

(同)

 

 「将来、何かの役に立つわけでもなかろうに、何故この私小説作家の人と作品にかような執着をいだくのか、自分のやっていることが何が何んだかサッパリわからなかった」という記述は反語である。西村氏が現在、作家として社会的認知を得ているからではない。社会から認められぬ作家で生涯を終えたとしても、彼は私小説の研究をやめなかっただろう。そこには私小説こそが文学の本質、つまり純文学だという西村氏の確信がある。もちろんこのような確信は相対的なものである。しかし作家が直観的真理として把握した確信だけが、優れた文学作品を生み出すのである。

 

 乱暴に言えば確信はどんなものでもよい。文学においてはその強度が試されるからである。文学という芸術形態において、核のない生成はあり得ないのだ。時代の雰囲気(アトモスフィア)を作品に取り入れ、その外皮を描くことで核を、思想的確信を模索する作品はほとんどの場合失敗する。だが書けなくなるのはもっと怖い。すべての作家は作品が書けず、メディアや読者から忘れ去られるのを最も恐れるだろう。しかし現代人として社会に拮抗できる思想を把握しないまま書き続けても、徐々に文学の世界からフェードアウトしてゆくだけのことである。確信を把握できない時には立ち止まってみるのも作家の本質的能力の一つである。

大篠夏彦

 

 

 

 

 

無銭横町 悪い恋人

 

 

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