植物男子ベランダー 2

NHK BS

木曜23:15~

 

No.089_TVドラマ批評_01

 

 

 テレビドラマに限らず、ドラマというものの考え方が変わってきているのかもしれない。さらに極端なことを言えば、人生というか人の一生に対する考え方もまた、変わってきている可能性もある。すなわちそれは世界観が変化しているということであり、ならば宗教観が変わっているはずなのだが、どう変わっているかというと、そんな大仰さを否定する方向に、だ。

 

 つまるところ植物男子とは何事か、ということである。弁当男子といい、男子が男子たる所以をあえて無化する接頭辞を付けたがる。そうしたところで男子が男子でなくなるわけではなく、ただ男子がひねこびるだけである。ひねこびたなりを見せつけて恥じない。世も末とは言わないが、天下太平なのである。問題はその太平楽が繁栄でなく、衰退の果てに見えることだ。

 

 その原因の一つは、これがテレビ東京ではなく、NHK の BS プレミアムの番組だ、ということがあろう。テレビ東京であれば、ドラマ仕立ての情報番組になったはずのものが、BS プレミアムではそこまでいかない。いかないのは、そこまで貧してない、ということでもある。

 

 リッチで余裕の雰囲気で流されるドラマのないドラマは、情報優先であることが明白な深夜のテレ東番組より、我々を戸惑わせる。貧していることはすなわち余計なものをくっ付ける余裕がない、ということだ。その分、観る者を迷わせない、ということにもなる。

 

 迷いの代表格はだから、ドラマとは何だっけ、ということで、貧したドラマなら貧しているからでスルーしてしまう問いが、リッチな映像、撮影にもってこいの軒が斜に切られたベランダ、たっぷり聞かされる音楽の中で浮き彫りになる。少なくともテレビはいまだに最大の受動メディアであり、そうなるとテレビドラマというものについてはドラマのない環境映像になった、と捉えるべきなのか。

 

 確かに NHK で言えば朝の連ドラが絶好調で、ここにドラマチックなことが起きないとは言わないが、毎朝流れるそれが一つの環境として認知される度合い、慣れ親しまれる度合い、さらに執着される度合いに比例して話題になっていると言える。この「植物男子 ベランダー」も season2 を迎えるということは、環境映像として受け入れられている証しだろう。

 

 ドラマチックなものへは冷笑を浴びせるのみ、といった今日の風潮は、それなりに理由があると思う。何もかもが結局すぐに日常に埋没してゆくのみなら、ドラマチックなドラマは単なるインチキ、しかもあまり騙されてくれる者もいなくなったインチキに過ぎない。

 

 それが心の平安を生むなら、やはりそれも一つの宗教観に近いものではある。しかしなぜドラマ仕立てに、それもそのように作られたドラマ自身のパロディのような、極つまらないドラマ仕立てに成されるのか。ひねこびた男という存在がドラマの残滓のように考えさせる。

田山了一

 

 

 

 

 

ボタニカル・ライフ―植物生活 (新潮文庫)  自己流園芸ベランダ派 (河出文庫)

 

 

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