群像_No.012_01

 

 

 清水良典の「デビュー小説論」が連載第六回である。正直、文芸評論の迷走もついにここまで来たか、の感がある。それは必ずしも悪いことではない。何事も極点に到達すれば、見えてくるものはあるのだ。たとえば、もう先はない、ということであったとしても。

 

 今、文芸誌が当て込んでいる読者は、その文芸誌からのデビューを視野に入れている人々しかいない。それはまさに文芸誌が有料である、ということから起因している。無料ならば一般読者も皆無とは言えまいが、文芸誌の購入費用は、そのカルチャーへの参加費、会費に近いものだ。

 

 会費を取ることによって、カルチャーはますますクローズドなものへとなってゆく。書き手というものは、無意識に読者の視線を書くものへと取り込んでゆくから、一般読者が想定できない状態で書けば、必然的にクローズドなカルチャー内部の人々を思い浮かべながら書くことになるのだ。そこでの反響をいわばイメージのテコとして企画が生まれてくる。

 

 もちろん世の中には、有料であっても一般読者がいる雑誌がいくらでもある。それは正しく読者との間に取引きが成立しているのだ。そのコンテンツを与えることで、読者に何らかの利益があること。漠然としたイメージに対する憧れで、読者の財布の紐が緩むと当て込める時代はとうに過ぎ去った。読者は読者と呼ばれる前に一人のヒトであり、いまやヒトは皆、忙しいのだ。

 

 ヒトが皆、忙しくなったのは、情報爆発が起こっているせいである。ヒトが摂取する情報量は一昔前の十倍にもなっているという。ネット・リテラシー、金融リテラシーなどと呼ばれるものはすなわち情報のハンドリング能力を指す。有料、無料を問わず、ヒトは有用な情報を効率的に入手することに血道を上げはじめているのだ。それは文字通り「時が金」になりつつあるからでもある。

 

 「時が金」である以上、ヒトの時間を無駄にさせるものは忌み嫌われる。漠然とした文学的イメージ、権威なんだよ、尊敬してねという目配せは、いまや誰にも通用しない。デビューならデビューという取引きについて明文化する、その役割を文芸誌の文芸評論が担わされる。文学とは何なのか、という問いを本当のところ抱えていないなら、そういう御用を聞いても別にいいのだろう。

 

 従来的な有料コンテンツがこのようにして、自ら有料である理由付けを今更ながら探っていかねばならなくなっている一方で、無償のコンテンツによる情報爆発はさらに連鎖的に拡大している。忙しいヒトは、もはや無料の民放テレビすら観る時間がなくなりつつある。付き合う「時」が惜しいのだ。

 

 この無償の情報の爆発の中でも質が問われ、それだけがヒトの「時」を集めることができるようになっている。「時」を集めることはすなわちヒトの「気持ち」や「注意」を集めることだ。それが「金」に変わるのはまさしく時間の問題である。金を生むのは精神である、ということが露わになりつつある、とも言えるのだ。

谷輪洋一