月刊俳句界_No.021_01

 

 

 今月号の「月刊俳句界」の特集は「あなたの俳句はなぜ佳作どまりなのか?」である。おお、なんと名作を詠むための秘儀が明かされているのかと期待したが、もちろんそうではなかった。編集部の説明には「投句をするからには、誰もが〝特選〟が欲しい。特選は、句の内容はもちろん、発想、モノの見方、一句の姿、調べ、それらがすべて整っていなければならないものだろう。そのためには、どういうことを心掛け、どういう鍛錬をすればいいのか?第一線で活躍する実力俳人にそのコツを聞いてみた」とある。要は俳句商業メディアや結社誌に投句して、投句欄で特選(一番高い評価)を得るためのコツの特集である。

 

 俳句の世界は実態として素人文芸倶楽部である。こじんまりした文芸サークルの寄せ集めで、百年くらいの間にほんの数人、奇跡のように文学の名に値する作家が生まれるジャンルである。結社誌と同人誌があるが、現実問題は主宰格の俳人がその他大勢の俳人たちを束ねているピラミッド型の組織だ。大組織になると跡目争いやナンバー2、3の離反(独立)なども起こる。跡目を狙うためにはなんやかんやいって主宰の仕事を肩代わりする滅私奉公が必要で、その見返りに編集委員などの肩書き等々をもらえたりする。それを嫌って結社を飛び出すおっちょこちょいは、俳壇の冷や飯食いになるのが相場である。ベンチャーなどそう簡単に成功するわけがない。我慢して最低でも平取締役になり、トップに立てなければ子会社の社長に納まる方が確実だ。まるで高度経済成長期のサラリーマン物語のようである。

 

 では結社が諸悪の根源かと言えばそうではない。俳句には集団的文学という特質(本質)が確実にある。優れた作家たちの集団的意識・無意識が混淆して優れた作品が生まれ出ることが多いのである。つまり文芸俳句も文学としての俳句も共に集団的営為を必要としているのだ。そのため俳句界には師弟の血脈というものが確実に存在する。それを御維新以降のヨーロッパ文学の論理で説明するのはとても難しい。〝ある俳句霊の継承〟が起こっているとしか言いようがないからである。ただ優れた師弟の血脈(俳句の継承)は文学に属する事象である。

 

 しかし〝座〟を必要とする俳句は、その発生期である室町時代から現代に至るまで、大勢として仲良しお遊びサークルとして推移してきた。幕末には月一回集まって景品を掛けて俳句の優劣を競い合う「月並俳句」が大流行した。月並は現在では「凡庸」の意味だが、幕末人にもちろんそんな意識はなかった。正岡子規あたりが月並俳句を激しく批判してから、本来の「月ごと」から「凡庸」の意味に転じたのである。子規派「ホトトギス」は結社制を取らなかったが子規主宰で高浜虚子が編集を担当する実質的結社だった。虚子以下、子規門が優れた俳人を輩出したのは周知の通りである。座(結社)は決して俳句にとって有害ではない。問題は〝文学としての座〟と〝文芸(習い事のお遊び)としての座〟のバランスをどう取るかである。

 

 「新潮社」の森重さんから「あなたの本を出したいのですが」という話があった。(中略)私は「童子」誌に、昭和六十二年の創刊から毎月書いている「桃子草子」をコピーして送った。(中略)二ヶ月後、厚いゲラの束が届いた。見ると、題名は『あなたの俳句はなぜ佳作どまりなのか』とある。(中略)「いまはノウハウ本の時代なんです。エッセーはよほどの人気作家のものでない限り売れないんですよ」という森重さんの説明に、私はひたすら感心するほかはなかった。

(「悲哀の中でも笑う精神」辻桃子)

 

 辻桃子氏は優れた俳人である。だから辻氏が自著の出版経緯を書いた文章は、ある種の反語でありイロニーなのかもしれない。人気作家のエセー集としてではなくノウハウ本として著書が編集され、編集者が考えたタイトルで出版されたわけだが、そのような形でも本を出し、俳句界に貢献すべきだとお考えになっているのだろう。

 

 「ノウハウ本」の時代だというのはその通りである。人気とお金が集まる職業の象徴だったミュージシャンたちはCDが売れずに喘いでいるが、ギターやベース、ドラム、ボーカルスクールなどは大盛況だ。生徒さんたちはノウハウを学びに来ているのである。もちろん心の片隅ではスターになることを夢見ているが、決して高望みしないのが彼らの心性である。ノウハウの開示はテクニックだけではスターになれないことを教えてくれる。アマチュアの内から〝業界の内実〟を知っているのである。逆に言えば開示されたノウハウを超える能力と精神力がある者だけがプロになれるということだ。他者に教えることのできるノウハウ(業界情報)など、全部解放しても大勢に影響はないのである。

 

 私には、「私」というちっぽけな個など大して興味はない。私やら人間やらなどより、一匹の天道虫や、蟻の群れや、一本の草花の方が、どんなに豊かに深く大地に根をはって生きていることか。これを生かして詠むことの方がずっと大問題だ。(中略)

 「連衆の有機性」とは、座と愛があるときにのみ機能する。そしてその質を維持するのは連衆の不断の努力しかない。江戸時代のような古くさい座の関係を、今生きている連衆がもう一度実践すること。これこそが真に新しい。

(同)

 

 まったくの正論で付け加える言葉はない。辻氏の結社では書かれている通りの事柄が実践されているのだろう。ただ俳壇の大勢は裏表がある。対外的には〝俳句文学〟を振りかざしながら、対内的には〝文芸サークル〟として機能している。俳人たちは、俳句界の実態を隠そう隠そうとしているように見えてしまうのだ。しかし今はノウハウの時代であり、情報化時代である。まずものすごく簡単な事柄から整理し、情報公開した方が俳句界は活性化するのではないかと思う。俳句には〝文学としての座〟と遊びと習い事の〝文芸としての座〟という二重構造があることを真正面から認めた上で、〝文学としての座〟に少しだけバランスをシフトすれば現在のようなていたらくから少しは脱却できるだろう。

 

 蕉門は芭蕉が俳句王道を行き、宝井其角が前衛を担った。子規門にも虚子門にも高柳重信の前衛俳句派にも同じようなベクトルの作用が見られる。もちろん伝統派と前衛派の区分けなどいつの時代でも便宜的なものに過ぎない。しかし各時代において真に新しい文学的な試みを為した文学者だけが次代の文学の基礎作家になる。特選俳句の書き方のノウハウ公開は面白いが、俳人たちはいっそ不都合な情報をも公開してみてはいかがだろう。

岡野隆

 

 

 

 

 

あなたの俳句はなぜ佳作どまりなのか (新潮文庫) 実用 俳句歳時記

 

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■