角川俳句_No.008_01

 

 

 「角川短歌」十一月号は角川短歌賞の発表号で谷川電話さんの「うみべのキャンバス」が受賞されました。谷川さんは昭和六十一年(一九八一年)生まれの三十四歳で一時はお笑い芸人を目指していましたがお笑い養成所在籍中に本格的に短歌創作を開始されたようです。今は就職しておられ歌人集団「かばん」の同人です。現在短歌界を席巻している口語短歌の新たな書き手の登場です。

 

研修の会場内に「鈴木」が三、「伊藤」が四人いるのに気づく

研修中、猫が窓外に登場し受講者たちは静かにはしゃぐ

油絵をやめてしまった指先が無邪気に虹のありかを示す

それぞれの正しさ秘めた脳みそが電車の中でゆらめいている

 

 角川短歌賞は五十首単位の応募で選考座談会で選考委員の皆さんがおっしゃっているように一つのテーマが必要です。谷川さんのテーマは引用した冒頭の数首で表現されています。一首目の「研修の会場内に「鈴木」が三、「伊藤」が四人いるのに気づく」で示されているように作家は個性を奪われた数の中の一人です。「鈴木」や「伊藤」は「谷川」でも良いわけです。その認識は「油絵をやめてしまった指先が無邪気に虹のありかを示す」という喪失感を表現した歌に引き継がれます。しかし作家は必ずしも自己の現状に大きな不満や失望を抱いているわけではありません。「それぞれの正しさ秘めた脳みそが電車の中でゆらめいている」とあるように誰もが意のままにならない社会でもがきその正当性をかろうじて保持していると考えられるほどには成熟しています。つまり谷川さんの連作は漠然としたものであったにせよ夢の喪失とその延長上にある現状を明らかにすることにあります。

 

街角で突きつけられて飛びのいた ナイフじゃなくて聖書(バイブル)だった

灰色のほこりのかたまりつまみ上げぼくの最後の羽だと言い張る

真夜中に職務質問受けていた自分がだれか教えてもらう

 

 「街角で突きつけられて飛びのいた ナイフじゃなくて聖書(バイブル)だった」という歌は作家が求めるものが生きるための指針を含む一種の観念であることを示唆しています。だからこそ作家は短歌という文学表現を選んだのです。ただそれは吹けば飛ぶような観念かもしれないことが「灰色のほこりのかたまりつまみ上げぼくの最後の羽だと言い張る」という歌で表現されています。作家には自分は何者でもないという意識があります。胸を張れるような何事かを成し遂げた人間ではない。それが「真夜中に職務質問受けていた自分がだれか教えてもらう」という歌で表現されています。では作家は何を目指し認識的なものであれどこへ至り着こうとしているのでしょうか。言うまでもなくこの問いに答えを出すのは「うみべのキャンバス」のテーマが夢の喪失の現状を表現しようとしている以上絶対矛盾であり連作で示されることはありません。

 

好きじゃない仕事を辞めた恋人がキャンバス抱え「ただいま」と言う

素裸でメールを送る横顔ではじまる今日という散文詩

タイヤまで白い自転車はしらせる無職のきみを荷台に乗せて

詩のように見えたらいいなたくさんの改行をしたきみへのメール

 

 連作の転調は「恋人」あるいは「きみ」という存在を詠み込むことによって始まります。文学作品はフィクションを援用してもいいのであり谷川さんが「うみべのキャンバス」で実体験を描いているとは断定できないのは言うまでもありません。ただ連作のテーマである喪失感からの回復を促してくれる契機が「恋人=きみ」という他者(外部)として措定されていることは注意していいでしょうね。それはたまさかの僥倖です。また「今日という散文詩」や「詩のように見えたらいいな」という言葉からあえて言えば作家が自身の作品を〝詩そのもの〟ではなく〝詩のようなもの(詩的な作品)〟として捉えていると言うことができます。共同幻想であにせよ作家は〝詩そのもの〟に対して〝詩のようなもの〟を対峙して作品を創作したということです。

 

足音でだれだかわかる 玄関にひかりがさして蘇生していく

二種類の唾液が溶けたエビアンのペットボトルが朝日を通す

間違って踏んだ絵の具のチューブから青が飛び出して海へと落ちる

 

 連作に不可欠の淡い物語構造に沿って詠み手(私)と恋人との関係が一種の救済として描かれています。恋人が帰ってくる足音を聞くと「玄関にひかりがさして(私は)蘇生していく」のです。「二種類の唾液が溶けたエビアンのペットボトルが朝日を通す」とあるように私と恋人の共同体が新たな希望の朝をもたらしているわけです。ただ恋人は「無職のきみ」であり社会の中で拠り所がないのは詠み手と変わりません。その意味で二人の関係は脆く壊れやすい繭のようなものでしかないと言えます。

 

 しかし「油絵をやめてしまった」私に再び「キャンバス」をもたらしたのは「好きじゃない仕事を辞めた恋人」です。ですから末尾の「間違って踏んだ絵の具のチューブから青が飛び出して海へと落ちる」の解釈は多義的にならざるを得ません。偶然の出会いによって詠み手は狭い絵の具のチューブの中から広大な海へと飛躍するのかもしれません。あるいは私よりもさらに何かを失ってしまった恋人に導かれ一種の心中として広い広い海へと溶けていってしまうのかもしれない。私は自分で無為な喪失感からの脱却の方法を見出しておらず作品世界が置かれた〝詩的〟な日常的散文に留まる限り外部(他者)からもたらされる救済は都合の良いフィクショナルな〝詩〟に過ぎないはずです。ただ「うみべのキャンバス」は物語的な起伏を持ちながら決してテーマを大きく逸脱することのない優れた連作です。

 

 もちろん大急ぎで言い添えておけば文学作品はある認識(思想)に到達するための〝手段〟ではありません。それ自体が〝目的〟です。谷川さんが「うみべのキャンバス」連作で表現した喪失感や挫折感は石川啄木の『一握の砂』とそれほど遠いものではないのです。それは人間心理のある本質を的確に描いています。ただ「うみべのキャンバス」は口語短歌です。文語体が喚起する故郷や自然といった日本文化の共同体(共同幻想)的な感性基盤は失われています。つまり啄木の作品が持っていたような社会全体に受け入れられるような共通性がありません。孤独や挫折を描いているのにその背景(理由)がほとんどわからず極私的に見えるのです。どこまでも茫漠とした個の失意と希望が描かれています。

 

 これもあえて言えば角川短歌賞選考委員の先生方はもちろん角川短歌読者の皆さんは「うみべのキャンバス」連作などを何の疑いもなく〝短歌-文学-作品〟だと認知しておられると思います。しかし短歌界の〝内部〟に囚われず視点を上げてゆけば一般的文学読者との間に微かな齟齬があるのではないでしょうか。詳細な歌壇的議論は別として俵万智・穂村弘さん以降の口語短歌はちょっとしたヒントや小技(こわざ)としてのTips(チップス)に見えます。生きている人間が日々の生活で感じ取る思考や感慨を掬い取って短い言葉で表現しているだけのように映るわけです。

 

 意味内容的に言えば口語短歌が表現している思考や感情は漠然とした現代的雰囲気(アトモスフィア)として理解も共感もできます。しかしそれが〝短歌-文学-作品〟であることに首をかしげる一般文学読者は多いでしょうね。詩そのものではなく詩の形式をまとった〝詩的感慨表現〟に見えてしまうのです。〝どうしても短歌でなければならない〟強い理由が口語短歌からは伝わって来ない。口語短歌を読んで短歌の素晴らしさがわかるというよりも作家の感情・思想表現のために短歌形式が利用されているように感じてしまうのです。つまり現代的表現としての口語短歌と〝短歌-文学-作品〟(詩)との間にはなにかのパーツが欠けているということです。

 

 前衛短歌に代表されるやうな一九五〇年代六〇年代の短歌は、確かに〈文学〉であった。しかし、短歌の世界も、七〇年代ごろから二極化を遂げた。わたしはNHK学園の短歌講座で多くの人の作品を添削したり選歌したりして来た。(中略)わたしの仕事は、さういふ〈生き甲斐短歌〉の語句(中略)を変へたり、語順を変へたり、文法上のあやまりを正したり、仮名づかひのあやまりを直したりする。

 他方、わたしは、少数ではあるが、古典文学としての短歌や、近代文学から現代文学へと歴史を重ねて来た短歌に興味をもち、その知識と理解の上に、自分の短歌を作らうとしてゐる人たちの存在を知つてゐる。(中略)歌人層の二極化を、毎日のやうに、自分の仕事の中で、実感せざるをえないことを思ふのだ。

 わたし自身は、言ふまでもなく、教養主義的な育てられ方、育ち方をした年代層の人間ではあるが、かといつて、仕事として、〈生き甲斐〉短歌派の人たちの作品を非文学として退ける気持はない。二極化の現実の只中に自分が生活人として立つてゐるのを自覚するだけだ。

(「詩の点滅-現代詩としての短歌」連載大十九回 岡井隆)

 

 岡井隆氏は〝生き甲斐短歌〟と〝短歌-文学-作品〟の二極化を語っておられるわけですが口語短歌はその最先端の動向として捉えられるでしょうね。口語短歌は従来の短歌文学の系譜とは断絶した表現のように見えます。しかし守旧派と前衛派のような対立が起こっていないところが歌壇の柔軟なところです。一種の守旧派は自らの短歌文学基盤を踏まえながら口語短歌の意義を必死に理解しようと試み口語短歌の作家たちもまた従来の短歌文学の系譜をなんとか口語短歌に繋げようとしています。ただ今のところその接点(パーツ)がしっくりとした形では見つかっていない。口語短歌が歌壇という枠組みを超えて文学全体に影響を与えるためにはこのパーツの特定が不可欠だと思われます。

 

 この連載で何度か書いていますが日本の詩には短歌・俳句・自由詩の三つのジャンルがあります。俳句は公称一千万人の愛好者がいると言われますが少なくとも五百万人くらいはいらっしゃるでしょうね。短歌はその半分以下で自由詩の愛好者(詩の場合創作者と読者層がほぼ重なるのが常識です)はさらに少なく数万人程度だと思われます。俳句界は主に定年を迎えた高齢者を新たな愛好者に取り込んでいますがこれは枯れた花鳥風月がその年代の方々の感性にフィットするからでしょう。自由詩の世界は現代詩以降のヴィジョンを見出すことができずかつての特権的知の牙城から転落して奇特な人々が肩寄せ合う恐ろしくマイナーなジャンルになりつつあります。しかし短歌には若い作家たちが新たに参入し続けています。市場規模は別にして日本の詩で現在最も活気があるのは短歌界だと言えます。

 

 ただ日本文学の詩において短歌・俳句・自由詩の三位一体は不可欠な表現形態です。どれが欠けても日本の詩は総体として成立しません。また詩は恐らく日本文学の基層です。俳句の最短表現は日本文化の骨組みを鮮やかに表現するための形式であり自由詩は日本文学の前衛性をほぼ一身に担ってきました。短歌文学はといえば目立たない形ではありますが俳句や自由詩の表現を底支えして来たのです。現在日本文学において短歌という最も古い表現形態で口語短歌に代表されるもどかしくもスリリングな動きが目立っているのはとても有意義で面白いことです。

 

 口語短歌が描く〝個〟は他者から切り離された〝個〟です。ほとんど他者とは共通点を持たない孤独な〝個〟であるという一点においてそれぞれに孤立した〝個〟と共通点を有しています。〝個〟が対峙する〝社会〟も同様で〝個〟において〝社会〟は一枚岩ではなくそれぞれの立場から孤立し切り離された〝社会〟です。言うまでもなくその多面的で孤立した〝社会〟を描くことにおいて口語短歌はある種の共通性を得ています。現状はこの共通点が雰囲気(アトモスフィア)として短歌界を漂っています。焦点を合わせることができれば短歌は日本文学において最も先鋭な現代文学になり得ると思います。

高嶋秋穂

 

 

 

 

 

岡井隆歌集 (現代詩文庫) 世界音痴 (小学館文庫)