角川俳句_No.007_01

 

 

 文学金魚で批評を書いておられる著者の方たちには世界が大きく変容する時には文学ではその最も古いジャンルから変化の兆しが現れるだろうという考えがあります。もう少し平たく言うと資本主義的な商業システムに乗り切れない詩や演劇(アングラなどの前衛演劇)ジャンルから変化は起こるだろうということです。それはその通りでしょうね。小説の世界は多くの不特定多数の読者(本の購買層)を抱えており芥川賞・直木賞を始めとする賞もそれなりに機能しています。賞が優れた作品に授与されるのは当然のことですが同時に受賞によって世の中の注目を集め業界を活性化させるのも重要な役割です。これも平たく言えばほとんどの賞は出版社が出しているわけですから受賞によって出版元と著者が多少でも経済的に潤うことも大事な目的なのです。ある程度既存システムが機能している小説業界で大きな変化が起こりにくいのは言うまでもありません。

 

 しかし詩の世界では既存出版システムが機能しなくなりつつあります。本も売れないし賞が大きな売れ部数に結びつくことも希です。詩書出版も資本主義に属しているわけですがその経済はほぼ完全に自費出版中心になりつつあります。多少名前が通った詩人でも詩書の刷り部数は千部がせいぜいだと思います。ほとんどの詩人は三百部くらい刷っても大量の在庫を抱えることになるでしょう。つまり読者がいない。これももう少し正確に言えば詩の業界内以外に読者がほとんどいなくなってしまった。詩書中心の出版社も詩人たちも実に実に辛い状況に追い込まれているわけです。文学出版が元気だった頃から経済的に苦しい戦いを強いられて来た詩人たちはプライドが高く武士は食わねど高楊枝の姿勢を貫いているようですがそれはそれで素晴らしいことです。ただ業界内以外に読者がいないという現状は直視しなければなりません。詩人と詩人志望の人しか読者はいないのです

 

 作家にとって読者がいないことほど辛い状況はありません。文学に限りませんが夢を持てる世界(業界)であるのはとても重要なことです。そうでなければ業界は活性化しません。露骨な言い方をすればお金と名誉が得られない業界には決して優秀な人材は集まらないのです。十代二十代で名だたる過去の名作を読んで文学を志す若い作家たちは夢いっぱいのはずです。目標は大文学者になることかもしれませんがそれには社会的栄誉や経済的恩恵が伴うはずだと漠然と想像しているでしょう。しかしそれは少なくとも詩の業界ではほぼ不可能な夢だと言わざるを得ません。実際四十代五十代の働き盛りであるはずの詩人たちには疲れが垣間見えます。辛い現状が嫌と言うほど見えてしまった年齢に差し掛かりなおかつ若い頃のような気力を維持するのはとても難しいのです。先達の仕事の意味を理解しかつ若い詩人らを導く役割を担う中堅世代が機能しなくなっています。

 

 このような辛い状況を一気に変えてくれるような処方箋は残念ながら存在しないと思います。作家が創作上で行き詰まっても本質的には誰も助けてくれないように詩の世界の窮状を救ってくれる外部の力は一切期待できないのです。つまり詩人たちは自らの力で活路を見出してゆかなければなりません。そのような詩人たちの集団的な力をわたしたちは〝詩壇〟と呼んで来ました。詩の読者がいなくなってしまったということは詩作品が世界の変化から決定的にズレ始めていることを意味します。まず詩の読者がいないという現状を直視しなぜそうなったのかを詩人個々が考察してそれを集団的議論に高めてゆく必要があるでしょうね。詩壇は商業出版システムの大政翼賛組織ではありません。また詩人同士の安全保障組織でもありません。詩壇は本質的に詩と呼ばれる文学ジャンルを底支えする共通認識パラダイムでなければならないわけです。

 

 この詩壇がある程度有効に機能しているのは歌壇でしょうね。短歌(和歌)は日本文学で最も古いジャンルであり保守的なイメージがあります。しかし実際は逆です。歌人たちはベテランから若手に至るまで世界の変化を必死に捉えようとしています。もちろん歌壇にも結社があり歌壇政治と言われる現世的利害関係と無縁ではありません。しかし歌壇は俳壇や自由詩の詩壇と比較して遙かに風通しが良くリベラルです。詩壇はいずれも狭いですが俳句界は主に定年後の高齢者のリクルート(結社入会勧誘)に力を入れています。自由詩の詩壇では閉塞感を打破しようとする動きすら見られず衰退の一途をたどっているようです。しかし歌壇では若い創作者が増え続けています。短歌という日本最古の文学ジャンルから発生した変化がいずれ文学界全体に影響を与える可能性は確かにあります。

 

今は「一寸先は闇」ですよ。どうしたって、どんなものが来るか見当もつかないもの。(中略)そういう時代にどういう表現をするかということ。(中略)源平騒乱のあと、鎌倉の時代になると、説話文学が盛んに出ますね。「今は昔」という発想って、すごいことを考えたなと思うのよ。お伽話もそうだけれど、「昔々」と言ってしまえば何をしゃべってもいいわけでしょう。(中略)そういう大きなアイディアも必要よ。(中略)だって、歌の歴史って、源平合戦があろうと、戦国時代があろうとそれ自体は歌には残っていないんだし。(中略)花が咲いた、花が散ったと歌ってたわけでしょう。

(連載 馬場あき子 自伝 表現との格闘 最終回(第十三回)『人間くらいおもしろいものはないじゃない』聞き手・穂村弘より馬場あき子の発言)

 

 今回で角川短歌に連載されていた『馬場あき子 自伝』が終わりました。前回書いたようにこの連載は実質的に馬場氏と穂村弘氏の対話です。歌壇の重鎮で八十七歳の馬場氏が口語短歌のホープで若手の穂村氏を相手に現代社会の変化と短歌の将来を考察しておられます。短歌界のアポリアは口語短歌の隆盛なのでありそれがなぜ若い歌人たちを惹きつけているのか――つまり口語短歌が世界のどのような変化を反映しどのような短歌の将来を示唆しているのかを馬場氏は考察しようとしておられるわけです。そこに俳壇や自由詩の詩壇で見られるようなセクショナリズム的排他姿勢はありません。馬場氏もまた驚くほどのフットワークの軽さで口語短歌の成果をご自身の短歌創作に取り入れておられます。

 

 ただ馬場氏は現代世界の変化を過去の文学史を基盤に読み解こうとしておられます。この姿勢はある程度まで正しいと思います。明治維新や第二次世界大戦敗戦など日本は現代よりも遙かに痛切で人々の生活に大きな影響を与える変化を経験してきました。その渦中にいた人々の心理は激しく動揺していたはずです。しかし過ぎ去ってみれば人間精神の変化はほんのわずかだったことが明らかになります。このほんのわずかな変化をいかに的確に捉えられるのかが現代作家にとって最も重要な創作原理になるわけです。

 

 馬場氏が指摘しておられるように鎌倉中期になって説話文学が発生しました。平安から鎌倉初期の文学は貴族・武士を問わず上流階級の知識人が生み出したものですが説話文学は庶民階級から現れた匿名文学です。「今は昔」と権力をはばかりながら説話文学は社会批判思想をも表現し始めたのです。一方短歌(和歌)は物語文学の母胎ですがそれ自体は上流階級文学に留まりました。明治の正岡子規の時代に至るまで和歌は貴族のもので俳句は庶民文学という不文律的区分けがあったのです。しかし和歌は日本文学の美的基盤であり隠喩表現の宝庫でもありました。

 

 馬場・穂村氏共に藤原定家の「(こう)()(せい)(じゅう)わがことにあらず」という言葉を反語として捉えておられます。和歌は喩と反語によって社会批判思想を表現できたのです。短歌ジャンルだけに注目すれば第二次世界大戦中に確かに歌人たちは先陣を切って大政を翼賛しました。ただ短歌的な反語と喩的表現は自由詩の世界などで社会批判思想を表現するために援用されたのです。文学をジャンル別にではなく総合的に捉えれば日本文学の基層である短歌(和歌)文学が様々な形で各時代の現代文学に影響を与えていることがわかるはずです。

 

 馬場氏の思考方法が貴重なのは世界の変化は常に文学作品に先行して現れるからです。平たく言えば作家は世界の変化を敏感に感受してほぼ無意識的に作品を創作してゆきます。しかしそれだけでは文学の共通パラダイムにはなり得ません。一般社会の変化に連動した明治文学や戦後文学といった共通パラダイムが生まれ多くの読者を巻き込む形で文学が隆盛してゆくためにはなんらかの形で変化の本質を認識把握する必要があります。それを馬場氏は「大きなアイディア」という言葉で表現しておられます。短歌文学に即して言えば新たな「口語」と古典的な意味での「短歌」を結びつける認識(アイディア)が必要になります。

 

もう隙だらけですよ。どこからで入って来られるほど隙だらけ。でも、全然怖いことはないのよね。一つは、初七になろうと、次の七が九になろうと、よしんば十になろうと、二つか三つで詠めれば短歌の韻律で詠めるよという自信もありますよね。(中略)だから、その点では大胆になっていますね。

(同)

 

 短歌文学はとうの昔に季語を詠み込むというルールを破棄しています。五七五七七の韻律に関しても極めて緩い制約としてしか捉えられていません。口語短歌の時代になって短歌文学に漠然と設定されていた制約はさらに取り払われています。また口語表現が目立ちますが多くの作家は必要に応じて文語体も使います。口語体と文語体の違いは大きな問題ではなく歌人たちはその間を自由に行き来できるのです。その意味で口語短歌は「口語的-自由-短歌」だと捉えた方がわかりやすいかもしれません。あらゆる制約を棄却した「自由」な表現でありながらなおかつ「短歌」であろうとするところに現代短歌のアポリアがあるのです。馬場氏はそれを「隙だらけ」だけど「短歌の韻律で詠める」と表現しておられます。

 

痒い表層、痛い深部にはさまれて老いたるぼくの直立すあはれ

(「奇妙だが激しい一週間」岡井隆)

 

 今月号の角川短歌には馬場氏と並ぶ短歌界の重鎮である岡井隆氏の新作十七首も掲載されています。岡井氏もまた口語短歌の成果を積極的に自作に取り入れておられる。伝統や既成権威に固執せず新たな時代に対応しようとする姿勢は短歌界が誇っても良い前衛性です。

高嶋秋穂

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鬼の研究 (ちくま文庫) 短歌の友人 (河出文庫)