限界集落株式会社

NHK

土曜 21:00~(放送終了)

 

No.082_TVドラマ批評_01

 

 

 経済ドラマを期待してしまった。それもテレビ東京ばりの情報ドラマではなく、NHKらしい重厚感のある経済ドラマ。ドラマはたいてい経済の現状に比べれば、うんと甘くてうんと軽いが、農業に特化することでそのアラも目立たなくなるのではないか、とまでとっさに思った。

 

 第一次産業の担い手である農家が加工をし、流通までコントロールするという第六次産業化することで現代的に生まれ変わるというのは、わりあい最近知られるようになった。社会科の教科書なんかには書いてあっても、それがちょっとエキサイティングな認識の変化を伴うものだということは、実際に私たちが目にしたり、口にしたりする食品により、またその由来を伝える報道によりリアリティを得た。

 

 私たちの誰もが完全には無関心ではいられない農産物の生産について、都市の最先端の産業と同様に流通の変化が起き、さらにそれが生き物であるがゆえになお繊細で興味深い技術革新が始まっている、ということは、農業に直接関係のない誰をもわくわくさせる要素がある。

 

 そしてそれは農協や政府に保護され、つまりは飼われているかのようであった個々の農家が自ら集合して組織体として機能しはじめるという、他の産業では見慣れた法人化、会社組織化によって実現されるという。これは農業の各側面に違う光をあて、また一方では会社組織というものにも別の原初的な見方を与えるものになり得る。わくわく感はそこから由来するのだ、と気づく。

 

 このドラマについては、そういった期待感は少し満たされ、ただやはり食い足りなかった、というのが本当のところだ。有機農業について、あまり新し味のあるアプローチがない。それに対する消費者の情緒的な共感、ちょっとご都合主義的な関心を当て込んでいるので、まあそういう層は必ずいるわけだからビジネスにはなるだろうけれど、今テレビドラマにするほどのことかな、とは感じてしまう。

 

 ドラマ、というものに対する通常の文法が支配しているように思う。主人公の女の子の祖父の畑への想い、出て行って戻ってきた父親の想い、農家の人々の想いと、それらは「想い」としか言いようのない、言ってしまえば設えられた関係性から生じるありきたりの「反応」である。それが視聴者の多くに対して本当に説得力を持った時代は、過ぎ去ったのではあるまいか。

 

 農家の一人一人が、いまや無自覚に、あるいは矛盾を感じながら農協や政府に飼われ続けることがないかもしれない時代には、テレビドラマの視聴者もまた、設えられたありきたりの「想い」にただ共感することはなくなっているように思う。そもそもその共感は錯覚だったとも思われる今日である。

 

 農薬を使ってしまった仲間を許す、というエピソードは実在の有機農業組織で見たことがある。しかしそれを自ら告白するのと、黙っていて検査で発覚し、組織の有機認定が取り消されることとは雲泥の差がある。適当な「想い」で情緒に訴えることは、真剣さを疑われることにもなり得る気がするのだが。

田山了一

 

 

 

 

 

 

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