続続・言葉と骨董_No.032_001

『2人の少女と風せん』 エッチング、紙 縦三五・五×横二八・九センチ 昭和四十九年(一九七四年)

 

 

 僕は富山県富山市出身だが、今年の三月十四日に北陸新幹線が開通して、東京-富山間が最短で二時間八分になった。思えば新幹線開通は、富山県人にとって長年の悲願でありました。お隣の新潟県に、評価は様々だが田中角栄という傑出した政治家が現れたため、上越新幹線は三十年以上も前の昭和五十二年(一九八二年)に開通した。日本列島改造論をぶち上げた角栄さんは、すぐに富山や石川にも新幹線を通すつもりだったのだろうが、その後の景気後退によって計画が遅れ遅れになってしまった。僕の大学時代には富山駅前に、「富山に光を」と書かれた大きな看板が立っていた。もちろん富山県に電気が来ていなかったわけではない。〝新幹線ひかり号よ早くおいで〟という意味である。

 

 北陸新幹線開通と同時にテレビで記念特番が放送されるようになったが、ちらちら見ているとたいてい金沢特集である。富山県人としては心中穏やかではないが、そういった冷遇には慣れっこでもある。なにせ富山は江戸時代、加賀藩の支藩だったのだ。加賀藩は織田信長に仕え、豊臣五大老になった前田利家によってその基礎が形作られた。利家公は武将として有能だっただけでなく、千利休の高弟で能にも造詣が深い文化人だった。利長、利常公と英明な藩主が続き、外様大名だが加賀藩は文化的にも経済的にも栄えた。金沢城は天守閣は再建だが、広大な敷地内に江戸時代からの遺構が数多く残る。城内の庭園・兼六園は日本三名園の一つとして名高い。市内には武家屋敷もある。本郷にある東京大学の敷地は、元々は前田家の江戸上屋敷だったのである。

 

 それに比べて富山の観光遺産は心もとない。富山城は小さく、建物は戦後に再建された天守閣だけで江戸時代の遺構はまったく残っていない。国宝指定されている名刹・瑞龍寺は立派だが、これも前田家の菩提寺だ。五箇山の合掌造り集落、砺波平野の散居村、八尾のおわら風の盆、黒部ダムもあるし、魚は氷見のブリ、魚津のホタルイカが有名ですと書いてもとてもかなわないなぁという感じがする。文化に目を転じると泉鏡花、室尾犀星、徳田秋声らが石川県出身で、なかなか手強い。ただ富山からは近代文学史に燦然と輝くような文学者は現れなかったが、現代まで含めればいかにも富山県人らしい文化人はいる。エッチング画家の南桂子はその一人である。しかし南さんが富山県で大事にされている気配はほとんどない。多くの富山県人は、南さんが富山出身だということすら知らないのではなかろうか。

 

 僕は少し前から折に触れて南さんのエッチング作品を買っている。必ずしも富山県出身だからというわけではない。純粋に作品が素晴らしいのだ。南さんはメルヘンチックな画風で知られる。人によっては少女趣味だと言うだろう。ただ彼女の作品を見る人は、そこに深い孤独も感じ取るはずである。しかし南さんは、その孤独を読み解くためのヒントをまったくといっていいほど残さなかった。少し唐突に感じられるかもしれないが、そのような奥ゆかしいとも頑固だとも言える姿勢は、いかにも富山県人らしいと僕は思う。

 

 もちろん一人の作家の仕事を、その出身地の風土からすべて読み解くことはできない。ただ僕は南さんの芸術に、自分の中にある何かと共通するものを強く感じる。それは同じく富山県出身で、終生純粋なシュルレアリストであり続けた瀧口修造にも感じる何かと同じである。彼らはすでに物故した芸術家であり、これからも様々な批評やエセーが書かれるだろう。その中に、故郷との関係を踏まえた論が一つあってもいいのではないかと思う。芸術家は家族はもちろん、子供時代を過ごした土地からも強い影響を受けるものだからである。

 

 なおこの連載は、焼き物について書きますと宣言して始めたのだが、取り上げる対象を途中で古いガラスや金属、木工・漆器にまで広げてしまった。この際中途半端に対象を絞らずに、絵画など美術品全般を含めようと思う。文学金魚編集人の石川良策さんが、「書きやすい題材ならなんでもいいですよ」と言ってくださっているからだが、僕は結局のところ物フェチではないのだ。物が体現している時代性や作家の精神に興味がある。もちろん身銭を切って物を買うのは大事である。真贋を見分けられない者が物の本質を見極められるわけがない。南桂子のような現代画家にだって、当然贋作は存在する。

 

続続・言葉と骨董_No.032_002

南桂子(四十代頃か) ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション

 

 南桂子は明治四十四年(一九一一年)、富山県射水郡下関中川(現・高岡市中川)に南家の三女として生まれた。父・達吉は東京帝国大学法科大学卒で、母・きよは日本女子大学国文科卒である。父の弟・慎一郎は第十代、十七代高岡市長を務めており、祖母・節子はアドレナリン発見で有名な高峰譲吉の妹に当たる人だった。祖父・兵吉も石川県会議員、富山県会議員などを歴任している。南家は元々、加賀藩主から十数箇所の村落のまとめ役を任じられた十村役だった。初めて十村役になったのは慶長十二年(一六〇七年)だという。当初は氷見のあたりを治めていたが、江戸中期に高岡に居を移したらしい。その頃には四十以上の村をまとめる大庄屋だった。南家は一族から国務大臣や学者、弁護士を輩出しており、父・達吉が帝大法科を出たのも政治家になるためだったのだろう。南家は高岡の名家中の名家の一つだった。

 

 続続・言葉と骨董_No.032_003しかし南を産んでまもなく母が亡くなり、父も九歳の時に死去してしまう。そのため南は親族の手で育てられた。父が受け継いだ屋敷から学校に通ったが、夏は一族といっしょに雨晴(あまはらし)海岸にある別荘で過ごしたと回想している。雨晴は富山屈指の景勝地で、現在も海水浴場として人気がある。富山は一年の三分の二が曇り空という土地柄だが、快晴の日の雨晴海岸からは、真っ青な日本海が目の前に広がり、振り返ると山頂に雪を残した青い屏風のような立山連峰が見える。陰鬱な雪国とは思えない絶景である。なお富山は県中央部の呉羽(くれは)丘陵を境に呉東(ごとう)呉西(ごせい)に分かれる。南が育った高岡は呉西で加賀藩の影響が強く、京都や関西の文化が流れ込んでいる。県庁所在地の富山市は呉東に属し、こちらは関東文化の影響が濃い。たとえば呉東では蕎麦屋が多く、呉西にはうどん屋が多いといった具合である。南は京都文化(関西文化)の影響を受け、海を身近に感じながら育った人だった。

 

 昭和三年(一九二八年)に富山県立高岡高等学校女学校を卒業すると、南は結婚して四人の子供をもうけた。父母が早世したので、早く世帯を持った方が良いという周囲の配慮があったのだろう。しかし学生時代はもちろん、家事と子育ての合間に絵を描き詩や童話を作っていた。転機が訪れたのは二十年(四五年)の敗戦である。南は上京し、子供たちを高岡に残したまま離婚した。作家・佐多稲子の紹介で壺井栄に師事して童話を学んだ。女流画家の拠点だった朱葉会(命名は与謝野晶子)に入会し、油彩画などを発表し始めた。

 

 昭和二十四年(一九四九年)、南は洋画家・森芳雄のアトリエで、終生のパートナーとなるエッチング画家・浜口陽三に出会った。南は三十八歳、浜口は四十歳だった。浜口は戦前からパリで活動していたが、戦局の悪化で帰国を余儀なくされていた。それが二十八年(五三年)に再渡仏し、パリで画業を続けることになった。南も翌年渡仏し、浜口とともに四十年以上をパリとアメリカで過ごした。

 

 浜口陽三は和歌山の生まれで、実家はヤマサ醤油の創業家である。陽三は醤油王として知られる第十代・梧洞の三男に当たる。戦前に陽三が東京美術学校を二年で中退し、私費でパリ留学できたのは浜口家の財力ゆえである。ただ陽三は才能豊かな画家だった。戦後になるが、ヨーロッパで長く途絶えていたメゾチント技法のエッチングを復活させ、モノクロだったメゾチントに新たにカラー技法を付け加えた。美術界の評価も高く、昭和三十二年(一九五七年)にサンパウロ国際版画ビエンナーレ版画大賞と、東京国際版画ビエンナーレでの国立近代美術館美術賞をダブル受賞してその地位を不動のものにした。美術好きの方なら一度くらいは、浜口の可憐で色鮮やかなさくらんぼの作品を見たことがあるだろう。僕が大学生だった一九八〇年代には浜口はもう大家で、多くの美術館がその作品を所蔵していた。

 

続続・言葉と骨董_No.032_04

浜口陽三 『19と1つのさくらんぼ』 カラーメゾチント、紙 縦二三・三×横五三・五センチ 昭和四十年(一九六五年) 千葉市美術館蔵

 

 四人の子供を故郷に置いたまま上京し、離婚してパリに行った理由を南は語っていない。ただ富山という、ただでさえ保守的な土地で、しかも名家の子持ち女性にとってそれは、出奔に近い強引な行動だったろうと推測される。若くして結婚せざるを得なかったが、南は子育てをして生涯を終えられる人ではなかった。芸術への強い欲求が、戦前の価値観が全面崩壊した敗戦を機に爆発したのではなかろうか。南が何も語ろうとしなかったことは、それが弁解できない我が儘であり、かつ絶対に譲れない生の根幹に関わる必要事だったことを示している。また名家の出とはいえ、ヤマサ醤油の御曹司が離婚歴のある子持ち女性をパートナーに選んだことに、軋轢がなかったとは考えにくい。しかし南も浜口もほとんど何も語らなかったのである。

 

続続・言葉と骨董_No.032_05

『少女』 エッチング、紙 縦三三×横二七・七センチ 昭和二十九年(一九五四年)

 

続続・言葉と骨董_No.032_06

『雨の日』 エッチング、ソフトグランドエッチング、紙 縦三五・二×横二七・四センチ 昭和三十九年(一九六四年)

 

続続・言葉と骨董_No.032_07

『二人の少女』 エッチング、ソフトグランドエッチング、紙 縦三六・九×横二八センチ 昭和四十二年(一九六七年)

 

 南は東京時代からエッチングを始めていたが、本格的に取り組むようになるのはパリ時代からである。当初はモノクロだったが、すぐにカラー・エッチング作品を作るようになった。そこにはもちろん浜口の技術指導があっただろう。しかし作品主題などの面で、南は全く浜口の影響を受けていない。浜口も自己の思想を押しつけるような人ではなかったようだ。南が一貫して絵の主題にしたのは極度に抽象化された風景、建物、動植物、人だった。ただ南作品に現れる人間は少女だけである。ほとんどの場合、風景の中にぽつんと立っている。たいてい一人で、時々二人になる。三人以上になることはない。

 

 昭和二十九年(一九五四年)制作の『少女』は女の子を描いた最初期の作品である。技法的にはやや稚拙だが、鳥を抱いた孤独な少女という、晩年まで繰り返し描かれる基本モチーフがはっきり表現されている。『雨の日』と『二人の少女』は、『少女』から十年ほど後の一九六〇年代の作品だが、抽象化が進み画面もすっきりまとめられている。二人の少女は姉妹のように見えるし、母子に見えないこともない。同じ顔をしていることから女性一般を抽象化した存在だと捉えることもできる。いずれにせよ南が〝一〟と〝二〟の存在を好んで描いたのは確かである。画家の思想はそのような形で表現されるのである。

鶴山裕司

(後編に続く)

 

 

 

 

 

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■