その男、意識高い系。

NHK BSプレミアム

火曜 23:15~

 

No.078_TVドラマ批評_01

 

 

 テレビは今、しばらくの時間クリックしなくていいネットに近づきつつあるのかもしれない。受動的でいるというのも、ときには必要な体勢だ。特にしがみつくようにしてテレビを観る、という時代は去った。CM までもがトイレ休憩の間として位置を占める、といった日常を経た後に。

 

 「意識高い系」という言葉は、ネットを中心として広まった学生スラングだという。そこにはネットの、また学生特有の「意識」が重なり合って見え隠れする。その複雑なニュアンスは、ネットの外、大学の外、すなわち一般社会をテレビに映し出そうとする平板な場面では伝わりにくいかもしれない。

 

 一般の社会人にとって、「意識高い」という言葉はそれ自体、褒め言葉として捉えられる。大人に文句なく褒められるような学生仲間を揶揄するような、すなわち嫉妬としてのスラングなのか、とも思うが、どうやらそうではないらしい。その「意識の高さ」に辟易するのは、まず大人であるようで、そこのところはこのテレビドラマが警告の役割を果たしているかもしれない。

 

 とは言え、主人公の女性の「意識高い系」新入社員に対するアレルギッシュな過剰反応は、いくらなんでも戯画的に過ぎる気がする。その反応自体、この女性が仕事の上で直面している壁を示している、という制作意図はわかるが、ビジネスへの甘い(高い)意識と、現実的な仕事感覚とのぶつかり合い、という構図を強調するなら、両方がマンガチックというのは説得力を欠く。

 

 そしてネットというものは、言葉の用法を微妙に変えてゆくところがある。その変わり方とは、現実の社会との差異をそのまま示している。「意識高い」が現実の社会では良きことであり、有用であるのは、それが何かの対象に対する意識の高さであるからだ。すなわち安全に対する意識の高さであったり、教育に対するそれであったり、美意識の高さであったりする。

 

 ネットで交わされる「意識高い」という決めつけなり評価なりは、つまり「自意識」の「自」が抜けているのだ。なぜ抜けるのかと言えば、それが自明のことだからに相違ない。ネットにおける意識とは、要は自分自身のことであり、ネット社会とはいわゆる社会性が当然に前提とされているものではないのだ。世界に渡る拡がりをみせていようと、それは画面の前の「自」の反映なのである。

 

 その「自」意識が「高い」ということは、このようなネット社会のリテラシーを有することで、ネットにおいて構築されつつあるヒエラルキーを駆け(這い?)上がろうとしている、という意味になろう。それはかつての無防備な「自意識過剰」状態とは異なる。

 

 かつては反故、ゴミに過ぎなかった過剰な自意識が何事か生むように再構築され得るかもしれない、という可能性は、高度情報化社会ならではの光景だ。情報、自意識といった抽象物が大きなビジネスを生むかもしれないし、もちろん何も生まないかもしれない。その紙一重の間こそが今、面白いのだ。

田山了一

 

 

 

 

 

 

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