文芸 2015 年 02 月号 [雑誌]

 

 

 河出書房新社から刊行された日本文学全集が話題になっているらしい。それは大変喜ばしい。一方で、現在におけるその現象の意味を考えざるを得ないところもある。紙の本も、日本文学も、あるいは文学全集という旧式の形態も、まだまだ健在なのだ、ということに過ぎないのだろうか。

 

 この「日本文学全集」の編者は池澤夏樹で、その特徴のある選び方が注目されている。その是非よりも、その光景がいわゆる「日本文学全集」のあり様を現代的、と言うより相対化されたものに見せているように思える。池澤夏樹という作家に、日本文学のすべてを相対化するような視点がある、とイメージできないことが、逆に「日本文学全集」という「あり方」を相対化して見せる、と言ったらいいだろうか。

 

 その選択の特徴や偏りに対する開き直り、池澤夏樹という人選そのものが、だから「日本文学全集」という概念へのアンチテーゼであり、パロディでもある。では池澤夏樹でなくて誰ならいいと言うのか、これまでの日本文学全集に偏りはなかった、それが「日本」、あるいは「文学」そのものであったとでも言うのか、という問いを突きつけるのだ。

 

 面白いことに、しかしそれを手にとる私たち読者の心情はといえば、そのような「現在」を受け入れつつも、全き「日本」、全き「文学」、全き「全集」への幻想を捨て切れないでいる。そもそも捨て切れない読者が手にとるようにできているものであり、それは明らかに意識された上で刊行されているはずだ。

 

 私たちがそれを手にとるとき、腑に落ちない感覚に陥るのは、だから今という時代の必然なのだ。この全集の是非、池澤夏樹という選者への批判は常に、代替としてどんな物が、どんな選者が考えられるのか、という問いによって切り返される。そして少なくとも「日本文学全集」というスタティックなイメージ、すなわち文学的な権威を無邪気に信じられた時代よりは、過渡期とはいえ進化していると言えないこともないのだ。

 

 そのような権威をなぞる素振りのすべては、正直にも気恥ずかしそうであり、確信のなさを露わにしている。インチキを自ら信じ込んでいるよりは、インチキであることを自覚しつつ、パロディの一種として呈示しているのだ、という言い訳を用意している方がまだしも知的だ。

 

 ただそれは、その滑稽さを感知し得ない読者、文学的アトモスフィアに浸っていたい読者の夢をわざわざ壊すといった積極性には転じ得ない。むしろその夢を持続させつつ、醒めた目に対するエクスキューズを用意するというダブルバインド的な振る舞いとなって現れる。

 

 たとえば大江健三郎と池澤夏樹との対談は、その典型である。文学的アトモスフィアを担うという任務を遂行しつつ、文学者として醒めた視線を想定すること。もしそれを本当に相対化し、意識的にできるなら、その文学者は過渡期を越えた新世代として文学史に残る可能性がある。しかし、あらゆる言説を駆使して自らや他者を説明しつつ、自分も読者もやはり首を傾げている、その姿を “ 現在 ” として呈示するしかない「文学」は、それなりに正直ではあるものの、記憶には残らない。

谷輪洋一

 

 

 

 

 

 

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