俳句界 2014年 10月号 [雑誌]

 

 

 「月刊俳句界」十月号では「結社の多様化」という特集が組まれている。と言っても小特集で、原稿を寄せておられるのは行方克巳(結社誌「知音」)、高橋信之(「花冠」)、永嶺千晶(「晶」)、川口襄(「爽樹」)、武藤紀子(「円座」)、高松文月(「白鳥」)の六氏のみである。「俳句界」ではこれまでも「結社の進むべき道」など、現在の俳壇の基盤である結社誌の未来について定期的に特集を組んできた。結社という言葉が適切かどうかは議論の余地があるが、俳句が個々の俳人の個性を超えたところで成立する(ことのある)集団的文学なのは確かである。

 

日本の経済と社会、そして生活のあらゆる面で、グローバル化、そしてIT化(高度情報化)という大きな変革が起きた。高齢者や女性、それに障害者といったIT弱者と言われる人達も例外ではなく、この人達にもパソコンが普及し、その使用者が増える。ネット参加者が増えれば、「ネットによる結社」も増えるのである。

(「ネット結社①「花冠」」高橋信之)

 

 文学金魚というネット上の総合文芸誌に書いているからというわけではないが、インターネットをどう作品発表(または作品集販売)の場として活用してゆくのかは、目の前に迫った重要な課題である。紙の俳句雑誌ではしばしば「定年後の生きがいに俳句を始めよう」といった特集が組まれている。今の六十代はお若いので高齢者と呼ぶのはためらわれるが、パソコンを使いこなしている方は少ないだろう。紙メディアの訴求力はまだ高いわけだ。しかしそれが変わるのは時間の問題である。分水嶺になるのは現在の五十代だろう。

 

 今の五十代は仕事でパソコンに習熟した人と、一応は使えるが本当は紙とペンの方が安心だという人に分かれる。しかしその下の世代はスマホやタブレット、PCをプラットフォームにしてインターネットを生活必需品にしている。問題はデバイスではなくインターネットなのである。ネットは現在進行形で人間の〝知〟のあり方を変えている。文学に限らずその影響は人間の全生活に及んでおり、もはや後戻りしないと断言できる。

 

 インターネット出現前の、人間の知性を測る一つの重要な指標が記憶力にあったのは確かである。もちろん現在でも記憶力は受験などでその能力が問われる大事な基礎知力である。しかし一歩社会に出ると状況は一変する。知識の大半は情報としてネット上に貯蔵(ストレージ)されている。なにを正確に記憶しているのかではなく膨大な情報をどう組合わせ、そこから何を引き出せるのかという能力の方が遙かに重要なのである。またネット上に溢れる情報――つまり原則として世界中の人々が自由に閲覧できる情報は日々増加し続けている。この情報が政治から経済、文化に至るまで従来のスキームを変え始めている。

 

 例えば大変書きにくいことだが、商業俳句誌に掲載される作品作者の多くは結社主宰者、あるいは大結社の編集などの地位にある作家たちである。俳句誌が結社広告を収入の一つの柱にしているからである。また雑誌版元は句集や俳論集の自費出版も請け負っており、版元から本を出せばある程度優遇される。版元の負担で句集や俳論集、あるいは俳句アンソロジー集を出版する際にも俳人がどの結社に所属しているのか、その構成員はどのくらい数がいるのかが問われる。主宰格の俳人が本を出せば結社構成員の購買がある程度見込めるからである。この仕組みは商業短歌誌、詩誌(自由詩)でもほぼ同じである。

 

 小説の世界では自費出版では作家として認められず、版元の企画で本を出さなければ作家ではないという不文律がある。そのため小説家たちは、時に理不尽とも思われる版元の要求に黙々と耐え、従うことを強いられたりする。これに対して短歌、俳句、自由詩の世界は自費出版が基本なので、お金さえあれば本を出すのは簡単だ。しかし作品評価に版元への経済的貢献などの要素が入りこんでしまうため、公平な文学的評価が為されていないのではないかという不満が充満してしまう。結社に所属しているかいないかに関わらず、若手からベテランに至るまで、ほとんどすべての詩人が作品評価に対して不満を抱えているだろう。

 

 詩の世界特有とも言える作品評価の歪みは今に始まったことではない。しかしネットによる情報化はその仕組みを白日の下にさらす力を持っている。ある程度の情報収集と分析能力があれば、従来はブラインドになっていたメディアシステムは手に取るようにわかる。またこの情報化(情報公開)によって従来とは異なるスキームの模索が始まっている。ネット俳句結社を含むインターネット上の文芸メディアはその一例だろう。ネットの出現によって、紙以外のオルタナティブな作品発表・伝達媒体(メディア)が可能になったのである。しかしネット結社「花冠」の高橋氏が書いておられるように、「ネット参加者が増えれば、「ネットによる結社」も増える」ほど事は単純ではないだろう。

 

 もう少し正確に言うと、紙の結社誌や同人誌と同じように、確かにネット上でも結社・同人誌が数多く作られるようになっている。立ち上げが紙媒体より簡単なので、その集散は今後激しさを増す可能性が高い。しかし修行期の若い作家を別にすれば、俳句界で結社・同人誌を組むのは最低でも三十代以上の大人の作家である。単に俳句が好きというだけでは長く組織を存続できないのは紙でもネット媒体でも同じである。

 

 実も蓋もない言い方になるが、大人の集団である以上、ネットメディアだろうと組    織(オーガニゼーション)の社会的影響力と、それに付随する現世的メリットが必要になる。それを獲得できなければ紙がデジタル媒体(メディア)に変わっただけで、現在星の数ほどある少人数の仲良し作家の相互安全保障的避難場所(シ ェ ル タ ー)結社誌・同人誌と同様に、泡沫のように現れ消えてゆくだけである。ネットに移行すれば印刷費等の負担は減るが、仲間内の楽しいお遊びに終始するならそもそも紙かデジタルメディアかといった問いを発する必要はない。どこを舞台にしても同じである。

 

 ネットが紙以外のオルタナティブな媒体(メディア)と認知されるためには、ネットメディア独自のアイデンティティを確立する必要がある。情報の公開は俳句界を変える力になると同時に戦略的武器にもなるだろう。現在紙の結社誌は特定集団の中で、ほんのわずかな俳句に対する考え方の違いを秘伝のように継承している。それが群雄割拠の俳句界というものである。各群雄が抱えている(と思い込んでいる)情報を解放すれば、自ずから問題点は絞り込まれるはずである。またネットメディアは後発の新興勢力だから、戦略として既存システムに意図的に揺さぶりをかける姿勢も求められるだろう。

 

 とは言ってもこれは結社誌や同人誌に限った話ではない。商業メディアにとって、最も重要なのは経済である。当たり前だが出版社を維持する資金を得られなければ終わりである。従ってネット広告などで収益を得られるメドが立てば、商業メディアは迷うことなくネット媒体に移行するだろう。雑誌はテンポラリーな媒体であり、ある雑誌に「自分の原稿が載った!」という著者の満足感を除けば出版側になにがなんでも紙にこだわる理由はない。また閲覧者数と広告収入が正比例するなら、雑誌の社会的訴求力は紙媒体より増す。

 

 ある日商業メディアが「まだ紙にこだわっているんですか」と言い出す可能性は十分ある。そうなれば小規模な結社誌や同人誌がネット上でやろうとしていたことは吹き飛ぶ。収益システムが変われば、当然、商業メディアの編集方針も大きく変わるはずである。大結社等の顔色を窺う必要はなくなるのである。またメディアがネットに移行すれば作家の言説は自ずからデータベース化されるわけで、従来とは異なるスタンスで文学作品や批評が構想されることになろう。

 

 特集「結社の多様化」では、共同代表制を取る結社誌「知音」の行方克巳がその意義について書いておられる。「共同代表の二人は同じ目的と理想を持っていなければならないと考えています。またお互いの作句力を認め、信頼するものがなければ永続きしないのではないでしょうか。そういう信頼関係が失われたときは共同代表制の意味は崩壊せざるを得ないでしょう」とある。

 

 人間の、しかも一家言ある創作者集団を束ねていく以上、紙媒体でもネット媒体でも人間的魅力を含めた力のある作家(たち)が中心に立たなければならないのは当然である。しかし単に紙媒体の結社誌・同人誌をネットに移行させたのではなく、ネットメディア独自のアイデンティティを発信したいと思うなら、中心作家(代表)の認識は従来とは違うものである必要がある。俳句文学は個々の作家の強烈な自我意識表現のためのジャンルではなく、〝俳句〟を主体とした集団的文学でもあるという原理的認識を徹底すれば、ほぼすべての情報が公開・共有可能なサイバー空間は、とても俳句文学と相性が良いのではないかと思う。

岡野隆