文學界2014年11月号 (文学界)

 

 

 純文学小説誌や大衆小説誌を問わず、掲載されている作品の大半は、なぜこの程度の質で、と首をかしげるものがかなりある。純文学は無理矢理深刻そうなテーマをひねり出したような作品が多い。大衆小説の場合は、小説はこんなもの、読者のレベルはこの程度といった手慣れが鼻につく。しかしいわゆる〝作家デビュー〟した小説家は過去にそれなりの秀作を書いている。たいていはデビュー前後の作品である。作家はデビュー当時は、どうしても書きたいテーマを抱えているものなのである。

 

 この作家のテーマは、デビュー後に大量のボツ原稿を含めて作品を量産しなければならなくなると自ずからその強度が問われる。数作書いただけでもう底が見えてしまうテーマであることもある。まったく発展性がないテーマだということが露わになる場合もある。そこで筆を折ってしまう作家も多い。作家に書き続ける意志があるならメディアはとりあえず書かせる。しかし作家の才能を信じているわけでは必ずしもない。

 

 小説は現世を描く俗な芸術である。たまさかであろうと現代風俗にマッチした内容なら、思わぬヒットになることもある。宝くじより確率は高いとはいえ、もちろんそんなヒット作は滅多に出ない。しかし作家もメディアも希望を捨てるわけにはいかない。実際にはボツ続きの作家の作品を編集者がアドバイスして手直して、いわば〝希望のつなぎ作品〟としてメディアに掲載することが多いのである。熱心な編集者が担当に付けばその回数は増える。そこで活路が見えることもある。そのような運も含めて作家の実力なのだ。もし数作当てて確固たる地位を文壇で築けば、過去のボツ原稿も自ずと日の目を見ることになるのである。

 

 あんなにたくさん! は引き毟った草を手にしたまま、細い体をねじらせて真美を見る。あんなに小さな巣なのにね、と引き継いで真美が言うと、お父さんお母さんか、もしかしたら両方かもしれないけど、それと子供たちだ、ムクドリは三個から七個ぐらの卵を産むんだものね、とは得意げに本から得た知識を披露する。親鳥は一羽よ。ほら、一羽だけ羽根の色が濃いけど他は白っぽいでしょ。本当のところ、いくつ産んだのかな、卵。いくつかしら、あんなことがあったのに、五羽も育ったのね。あの時は・・・・・・。言いかけて止めると、は、代わりに声をあげる。あの時、雛は全部、大丈夫だったのかなあ? さあ、どうだったのかしらね、わからないわ。

(山本文月『サンクチュアリ』)

 

 山本文月氏については、文學界に掲載された「兵庫県姫路市出身。大阪府箕面市在住。大阪市立大学文学部卒。現在、「ぱさーじゅ」同人」という略歴しかわからない。文學界は長年続けた同人誌批評をやめ、それを三田文學が引き継ぐことになった。なぜ三田文學が引き受けることになったのかは知らない。ライバル文芸誌に引き継ぎを頼むわけにはいかないので、大学雑誌と商業文芸誌の中間である三田文學がうってつけだったのかもしれない。まさか退職した編集者が悠々と大学講師として暮らしてゆくためのバーターではあるまい。山本氏の『サンクチュアリ』は「二〇一四年下半期同人雑誌優秀作」として掲載された作品である。どんな経緯にせよ優れた新人の作品が掲載されるのは良いことである。

 

 『サンクチュアリ』の主人公・真美は四十六歳の女性である。夫は大学の准教授で、真美もしばらく技官の仕事を続けていたが現在は専業主婦をしている。テラスハウスの貸家に住んでいるが、外壁に開けられたエアコンの室外機用ホース穴のシールドが外れたらしく、ある日そこにムクドリが巣を作っているのを発見する。糞害などが気になるが、真美は子育てをしているムクドリをそのままにしてやる。草むしりをしながら真美は〝彼〟とムクドリの話をする。鴉に巣が襲われたことがあるが、立派に五羽の雛鳥が育ったのだった。ゴシック体で印刷されていることからわかるように〝彼〟は特別な人である。

 

 「あ、お姉ちゃん?」

 携帯のスピーカーから聞こえる由美の声は、若い頃とあまり変わらず高く澄んでいる(中略)。

 「実はね」(中略)

 「できたんだ、私」

 「えっ?」

 「二人目」

 真美は、

 「そう、よかったじゃない。大樹にも兄弟ができるわけだ」

 と朗らかに話しながら、その調子ほどには感情の伴わないのを自覚した。(中略)

 惜しかったわねぇ、真美の妊娠が途絶した時、由美は秀雄の母親と同じ心情を漏らした。心音が確認できてすぐに妊娠を知らせたのは誤りだった、と後悔したけれど、うれしくて安定期に入るまで待てなかったのだ。武志は、しょうがないよと言っただけで、それが慰めだった。孫の催促など一度もしたことがない父親だった。

(同)

 

 〝彼〟は真美が流産した子供のことである。性別は男の子に設定されている。四十六歳の真美は子供をもうけることを諦めかけているが、四十歳で妹の由美は二人目の子を妊娠した。由美は悪阻がひどく、少し休みたいから、ゴールでウイークに息子の大樹を預かってくれないかと真美に頼む。真美の元に現実の男の子がやって来るのである。

 

 目の前の軌道を急流すべりのボートが急降下するたび、水しぶきが派手に飛び散ってアスファルトを濡らす。大樹は、フェンスのすぐ脇に立ってボートをぎりぎりまで待ち受け、乗客の悲鳴とともに襲いかかるその大粒の雨のような飛沫に打たれる寸前、そこから走って逃げ出すという遊びに執心している。(中略)

 が、逃げそこねて大樹と一緒に水を浴びる。回を重ねるたびにタイミングを遅らせるのだから、どうしたって今度は濡れないわけにはいかないのだ。光を反射してきらめく粒から頭をかばうようにして上げた両手を重ね、小走りになりながら甲高い悲鳴を上げる。まだ、あんな声が出るのだ、と小動物のような彼らを目で追う、二人は再び遠ざかるボートに体を向けて、その行方を指す。汗だか水だかで背中に張り付いたTシャツの下で四枚の薄い肩胛骨が上下の運動を繰り返すたび、腕は上がり、下がる。

(同)

 

 大樹がいる間、彼はいたる所に現れる。遊園地で大樹とたわいもない遊びに興じ、アイスクリームを舐める。なぜ〝彼〟が現れるのか、理由は一切説明されない。彼はただ、ふと気がつくと当たり前のようにそこにいる。

 

 由美は、大樹が国語の時間に書いたという作文を、わざとゆっくり、たどたどしく読み上げ始めた。(中略)

 「二日目は、遊園地でいとこといっしょにジェットコースターやいろいろなおもしろい乗り物に乗って、とても楽しかったです」

 真美は、呆気にとられた。(中略)

 「作り話が上手なのね、いとこだなんて」

 「うちの旦那は一人っ子だしね。大樹、いとこがいることにしたかったのね」

 「いればよかったんだけど」

 そうねぇ、と由美はそれまでの快活さをひそめて相槌を打った。の不在がふいに立ち現れて、二人の間に沈黙が流れた。

(同)

 

 大樹は遊園地でいとこと一緒だったと作文に書いたが、それは嘘だとも、真美と同様に〝彼〟を見た(感じた)とも解釈できる。どちらであっても作品主題に影響はない。この作品の凄みは、恐らく遠い昔――十年か二十年以上前に流産で失ってしまった子供と、真美が熱もなく生きていることが描かれている点にある。不在の彼に対する痛切な悲しみや苦しみはない。あったとしてもとうの昔に失われている。ただ真美は〝彼〟のことを忘れられず、〝彼〟はもはや真美と一体化した他者になっている。〝彼〟はある瞬間にふと現れ、真美が生きる現実世界を共有する。それが主人公と〝彼〟のサンクチュアリ=聖なる場所である。

 

 『サンクチュアリ』は人間の私性の深みを強く感じさせる作品である。大人になった人間は社会を持っており、その一構成員である。『サンクチュアリ』でも夫や妹、隣人らとの関係が丁寧に描かれている。しかし人間は社会人である前に、徹底して〝私性〟の人なのだ。人間の言動を左右するのは本質的には私性だと言ってよい。この私性を突き詰めれば社会に突き抜ける。それが社会の底辺に蠢く原理的人間精神だからだ。また『サンクチュアリ』の〝彼〟をより直截に表現すれば、「文學界」好みの私小説を二本や三本は書くことができるだろう。もしそうなれば、次の段階ではテーマの深度が問われることになる。

 

 劇的なものなどいらないだろう。

 そう思いながら、目の前に座る若い女性の吃音めいた口調を聞いてた。(中略)

 「では、次作でも、や、やはり、人の抱えている闇が生み出すドラマをお考えでいらっしゃいますか?」(中略)

 「あ、いや・・・・・・ドラマは、そもそも考えていないです。というか、むしろ必要ないと思ってる、自分は・・・・・・」

 「え? でも、榊さんの作品の物語性というか、ストーリーは・・・・・・」(中略)

 「・・・・・・劇的なものは・・・・・・当たり前な話だけど・・・・・・現実の方が、はるかに凄い・・・・・・」(中略)

 「虚、虚構は現実よりも、ドラマやストーリー性に乏しい、と、いうこと、ですか」(中略)

 「虚構・・・・・・は、現実上でいうドラマや・・・・・・アクシデントを、徹底的に抜いていくことじゃないかな・・・・・・。まったく違う世界が、開けてくる。それこそが・・・・・・」「(中略)

 「それこそが、虚、虚構の面白さッ」

 「いや、分からない・・・・・・」

(藤沢周『山王下(さんのうした)』)

 

 今号で藤沢周の『山王下』が完結した。藤沢は芥川賞作家である。純文学の中堅作家だと言っていいだろう。引用は藤沢と覚しき作家が女性編集者からインタビューを受けているシーンである。「いや、分からない」とあるように、しばらく前から藤沢の作品は苦しい。新人作家がどうしても表現したい主題を作品化するのとは逆に、テーマの不在に悩まされている。まるで作家デビューする前の逡巡期に揺り戻ってしまったかのようだ。もう〝書きたいことなど何もない〟という一行から始めた方が良いような場所に追い詰められている。しかし藤沢は戦っている。前のめりで戦っている限り、読者は作家を見捨てないものだと思う。

大篠夏彦

 

 

 

 

 

 

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