オール讀物 2014年 06月号 [雑誌]

 

 

 数年とはいえ海外で暮らさなければならないことになると、人間って三つくらいのタイプに分かれるわねぇ。一つ目は国粋主義者になっちゃう人よ。街宣車に乗ったりネトウヨになっちゃったお方は存じあげませんけど、「やっぱり日本はいいわぁ」としみじみ思ってしまうわけね。二つ目はすっかり海外の国に同化しちゃうお方ね。夢いっぱいで二十代でアメリカなんかに行っちゃった男の子女の子に多いわねぇ。三つ目はなじめないでノイローゼとかになっちゃう気の毒なお方。理由はさまざまでござーますけど、毎日が戦争のような生活を送らなければならない国もあるので、いちがいに責められないわねぇ。

 

 アテクシの場合、どちかかと申しますと最初のタイプござーますわ。いろんな事が起こるけど、欧米先進国はまだ楽なのよ。でも発展途上国――って言葉はpolitical correctness的にまずいんでしたっけ――まあ新興国でもいいんですけど、そういうお国ではほとんど毎日イライラさせられますの。タクシー乗るために値段交渉でケンカして、先方に十分前に着くと、「Ma’am、お約束の時間にはまだだいぶありますね」とセクレタリがのたまわったりするのよ。先方とお会いできるのは三十分も後だったりするんですが、そんなことで怒っていたら、とぉっても身が持たないお国が山ほどありますわ。そういうプチ事件の数々って、いつまでたっても楽しい想い出にはなりませんわね。思い出すだけで怒り狂いそうよ。

 

 でもネット時代ってホントにいいわぁ。YouTubeなんかでリアルタイムにテレビ番組が見られるし、本当はいけないんでしょうけど、最新ドラマなんかの動画がアップされたりしていますもの。電子書籍もありがたいわね。最近では書籍だけじゃなくて、雑誌も電子書籍化されていますのよ。食べ物には苦労することが多いですけど、エンタメや文化コンテンツに関してはほとんど不自由を感じない時代になりましたわ。だけどアテクシ、小説単行本や雑誌なんかはいまだに紙で読むことがおおございますの。日本でどっさり買ってスーツケースに詰め込んで、現地で知り合いにさしあげたりゴミで出したりしていますわねぇ。

 

 ホントはミツカンのポン酢なんかをたくさん入れておいた方がずっと重宝なんですけど、紙で読むっていう習慣がやめられないのよねぇ。紙ってあと何ページとかわかるじゃない。最後まで読むと、読み切ったというか、トンネルを抜けた!っていう爽快感があるの。小説はゲームなんかのコンテンツとは楽しみ方が違うのよ。ゲームを最初からやり直すことはあっても、よほどのことがなければ小説を読み返したりしないわね。紙で読み切ると「次っ!」っていう意欲が湧くの。読むことの苦痛も含めたちょっとマゾ的な快楽だわ。

 

 そりゃー作家様は毎号いっしょうけんめい作品を書いてくださるわけですけど、読者は読者で時間をかけて読んでいるわけだし、たくさん小説コンテンツを読んでいるんだから冷酷でもあるわね。アテクシ、小説雑誌のかなり上客の愛読者ですけど、あたり前ですがそうそう素晴らしい作品が小説雑誌に掲載されているわけじゃございませんことよ。

 

 初夏の朝のことで、辺りはもう明るい。雀が盛んに鳴く空の下を、飛脚が威勢よく走り抜ける。日本橋通りに並ぶ店の小僧らはまだ半分起きていないのだろう、あくび混じりに水打ちをしている。

 お(さき)はうっかりと裾を濡らされないように時折、店前を避けながら、豊島町(とよしまちょう)鳩屋(はとや)に向かった。

 「ただいま戻りました」

 油障子を開け放した前土間に入ると、珍しいことに五郎蔵(ごろぞう)とお徳夫婦が揃って長火鉢の前に坐っていた。いつもは寝皺のついた湯帷子(ゆかたびら)のままで、房楊枝を使っていたりするのである。

(朝井まかて『銀の猫』)

 

 『オール』様の今月号の特集は「時代小説傑作選 江戸のダンディズム」です。巻頭は昨年直木賞を受賞されたばかりの朝井まかて先生の『銀の猫』でございます。魅力的な小説の始まり方でございますわ。アテクシ、サプライズ好きの殿方は苦手でございますけど、雰囲気はやっぱり大事だと思いますのぉ。時代小説はやっぱりアトモスフィアよね。まずチョンマゲや島田や丸髷に結った江戸の人たちの生活の機微が伝わらなければ、時代小説は楽しめませんことよ。

 

 お咲は離れの広縁に盥を奥と、井戸端で水を汲んで運んだ。板場で拝むようにして湯を分けてもらい、盥の中にあける。(中略)「行水しましょう」と声をかけたが、作右衛門は聞こえぬふりをしてこっちを見ない。たぶんお咲の前で素裸になるのが嫌なのだ。

 「ご隠居、少し臭いますよ」

 わざと言ってやると作右衛門はしばらく考えて、淡々、自ら下帯を解いた。(中略)

 庭の向こうでほととぎすが鳴いた。(中略)作右衛門が声を出した。「あんた」と言ったような気がした。お咲は肩越しに作右衛門の顔を覗きこんだ。

 「ご隠居さん、今、わたしに何か訊ねられましたよね」

 すると、左側の頬と唇が動く。

 「あんた・・・・・・何で、こんな仕事を、ですか」

 ご隠居は喋れる、喋れるんだ。

 そうわかると、お咲は弾むように濡れた手を拭った。

(同)

 

 お咲は年寄りの介抱を専門にする奉公人ですの。江戸時代に実際にそういったお仕事があったかどうかはわかりませんけれど、現代の高齢化社会を江戸社会の枠組みで表現しようとした作品だということは理解できますわね。どうして現代社会の問題を時代小説で表現しなければならないのかと言うと、現代の問題のある本質をできるだけストレートに描くためですの。ほら、設定が現代になると、いろいろ生臭くなってしまうでしょう。ハリウッドのCG制作者が「人間のCGが一番作りにくい。恐竜は作りやすいよ。誰も見たことないからね」と言っているのと同じですわ。時代小説では現代小説につきものの夾雑物をかなり削ぎ落とすことができますの。

 

 お咲は作右衛門の世話を三日しただけなのですが、しばらくして依頼人(クライアント)の重兵衛とおみつ夫婦から苦情(クレーム)が入ります。息子の重兵衛は父の作右衛門と、店を継ぐ代わりに親の面倒をみるという証文を交わしていたのでした。重兵衛が約束を守らないので、作右衛門は御奉行所に訴えると言い出したというのです。重兵衛は親爺がこんなことを言い出したのは、お咲が来てなにか吹き込んだからだと怒ります。そこでお咲は人材派遣業の元請けである五郎蔵・お徳夫婦と、重兵衛とおみつ、それに作右衛門が住む家に出向くことになったのでした。

 

 「あんただって、この離れにろくすっぽいないじゃないか。裏からこっそり抜けて、湯屋の二階で将棋打って昼寝してるの、あたしが知らないとでもお思いかえ。(中略)」

 「と、年寄りの世話ぁしたことのないお前にいったい、何がわかる。湯屋に通わないと、臭いがしみついちまうんだよっ。(中略)」

 「ご隠居さんも何か、おっしゃりたいことがあるんじゃないんですか。もうこんな按配なんだから、いっそ吐き出しちまったら」

 すると重兵衛がお咲の言葉尻を掴まえて、血相を変えた。

 「あんたねえ、三日も介抱に来たんだからわかってんだろう。うちの親爺に喋れと言ったって、無理なんだよ」

 「いいえ、ご隠居さんはちゃんと話せ射ますよ。(中略)」

 重兵衛は言葉を吸い込んで、床の間を見やった。作右衛門の左の口許がゆっくりと上下する。

 「おもしろい」(中略)

 「お父っつあぁん、何が、何が面白いんだい」(中略)

 「ほんね。本音は面白い、もん、だ」

(同)

 

 「本音は面白い、もん、だ」が朝井まかて先生の『銀の猫』のオチですわね。老人介護は一筋縄ではいきません。介護する側の重兵衛・おみつ夫婦にも言いたいことはたくさんありますが、それを押し殺し我慢して暮らしています。それをストレートに吐き出すことには、ある種のカタルシス(浄化作用)がございます。また中風(脳梗塞だと思われます)で半身が不自由な作右衛門が実は喋ることができ、頭もしっかりしていて、息子夫婦の「本音」を聞きたいと望んでいることは一縷の望みを感じさせます。プライドが高く、素直に世話をしてくれと言い出せない作右衛門と息子夫婦の間に、無理のない妥協が生まれる可能性があるからです。

 

 もちろん介護専門の奉公人や父・息子の介護契約書などは、恐らく時代小説でしか許されない虚構です。また現実に即せば、作右衛門のような老人はほとんど存在しないと言えるでしょうね。しかしこういったフィクショナルな夢は、実際に老人介護で苦労している皆様に、ある種の夢と希望を与えると思いますわ。また大衆小説作家の先生方は、一度作り出したキャラを有効活用されますから、読者がお咲ちゃんシリーズを楽しみにする布石にもなるわけです。お咲ちゃんが職種替えをしない限り、いっしょに夢を見続けることができますの。

 

 しかし、昇平は、薬の服用をことのほか嫌っていたので、朝食後の時間帯になると夫婦の間に薬をめぐる攻防が展開されるのだった。

 「お薬飲んで」

 「いやだ」

 「いやじゃない。飲んで

 「どうして」(中略)

 たいへん消耗するやりとりを経て、ようやく夫に薬を飲ませ、一息ついて夫の大好きなCSの「時代劇専門チャンネル」とつけると、画面に現れたご典医がゆらゆらする行灯の影に怪しげな笑いを浮かべながら、

 「殿、お薬でございます」

 と言って、毒薬を飲ませているのが目に入った。

(中島京子『つながらないものたち』)

 

 今月号では中島京子先生も、老人介護を作品の題材にしておられます。多くの読者にとって、老人介護はとっても強い関心事なのねぇと思うと同時に、アテクシも人事ではないわねぇとしみじみ感じるのでした。またアテクシにとって時代小説は、「毒薬」ではございませんが、あんまり効果が永続きしない媚薬のようなものかもしれないと思ったりしたのでございます。

佐藤知恵子