俳句界 2014年 05月号 [雑誌]

 

 

 俳句雑誌にはたいていグラビアページがある。文芸誌でも「オール讀物」などにはグラビアがあるが、芸能人と違って見栄えのしない作家をあえて写真で登場させる文芸誌は少ない。だいたい作家は書くのが商売で、人前に姿を現す仕事は余技のはずなのだ。しかし俳句界はちょっと異なる。偉くなればなるほど句会だ大会だ授賞式だ講演だと、人前に出るのが仕事という感じである。この感覚は小説家などにはピンとこないだろう。しかし〝俳句界の実態〟はそうなのである。良い悪いは別として、今回は俳句界の実態をざっとおさらいしてみましょう。

 

 グラビア巻頭は池内英夫氏。俳句結社誌「さざなみ」代表である。それから水田むつみ氏で「田鶴」主宰。次は小川軽舟氏で「鷹」主宰である。経済評論家・佐高信氏の連載対談「佐高信の甘口でコンニチハ!」に登場するミュージシャン矢野顕子氏の写真を挟んで、「山本健吉賞受賞に深見(けん二)氏」、「「ホトトギス」壱千四百号記念関西祝賀会」、「「百舌」創刊20周年祝賀会」、「佐藤鬼房顕彰全国俳句大会」、「全国女性俳句大会in北九州」などの俳壇イベントのカラー写真付き紹介が続く。

 

 俳句雑誌のグラビアは「月刊俳句界」に限らず、だいたいこのようなものである。大結社の主宰が登場し、小説や自由詩の世界では考えられないほど数がある俳句賞の授賞式や、大結社の○○周年などのパーティの様子が掲載される。俳句界でちょっと能力があると認められた俳人は、たいていなんらかの賞を受賞している。

 

 ただかなりの文学好きでも、俳句雑誌のグラビアに登場する俳人の名前をほとんど知らないだろう。それでいいのである。今号のグラビアに登場する人たちは、もしまだ俳句雑誌が刊行されていたとしての話だが、十年後、二十年後には別の人の名前に変わっているはずである。大結社の主宰者か、大結社に縁故ある俳句賞を受賞した人たちが俳壇のスターである。

 

 もちろんこういったドメスチックな俳壇序列と文学的序列は別である。優れた作家であれば、ドメスチック俳壇に首までどっぷり漬かっていようと、その作品は〝文学として〟評価される。ほら虚子がいるじゃないか、秋櫻子も誓子もそうだと俳人さんたちは言うだろう。その通りです。俳壇は結社と師弟制度でその秩序を保っているわけだから。

 

 そういった俳壇基盤を反映して、今号の「月刊俳句界」では「シリーズ/結社の未来を考える(最終回)」、「結社の進むべき道~主宰大アンケート」が掲載されている。設問は「① 現在結社の高齢化や若者の結社離れ、師弟関係の変化などが起こっていますが、貴結社において、そういった変化を感じていますか。それはどのようなことですか。/② ① の問題についてどのように対処されていますか。/③ 未来に向かって結社はどのようにあるべきと考えますか」である。アンケートは五十音順だが、ランダムに回答を拾ってみよう。

 

 青柳志解樹氏「山暦」主宰、「① 時代の趨勢により会員数の減少が著しい」。赤尾恵以氏「渦」主宰、「① 高齢化で死亡、老人ホームへ。その他でやむなく退会されますが、お陰で自ら結社を離れてゆく事なく、結社にいる安心を云う人が多いです」。稲畑廣太郎氏「ホトトギス主宰」、「① 感じています。カルチャーなどで教えていると若い方は結社に入る魅力を感じていないようです」。茨木和生氏「運河」主宰、「③ どうあるべきか、方向性を打ち出せないでいます。中・高年層にもっと魅力のある俳誌をと心がけて、六十歳代以降の人々に俳句入門の場を拡げようと考えています」。辻桃子氏「童子」主宰、「② 高齢化は日本全体の趨勢。その中で、中高年の生きがいとしての俳句を追求している」。黛執氏「春野」主宰、「② 特に妙案なし。初心者教室を開設しているが、若者の参加はゼロに等しい。若者を呼ぶために試行錯誤を繰り返している現状」。

 

 多くの結社主宰者が、結社誌の高齢化と若者の結社離れを指摘している。若者の結社離れはインターネット普及の影響が大きいだろう。俳句は短い表現だから、なにも結社誌に所属しなくてもツイッターやブログで発表の場を持てる。もちろん師事したいと感じる魅力的な俳人が少ないことも若者の結社離れの要因だと思う。しかしそれだけではない。多少であれ才気ある文学者が一国一城の(あるじ)でありたいと思うのは当然であり、俳壇はほとんど伝統的に一国一城主義を取ってきたのである。

 

 俳壇で頭角を現すには大結社に所属して編集事務作業を一生懸命にやり、主宰の後を継ぐのが一番手っ取り早いのは常識である。大新聞の俳句欄の選考者などは結社世襲制なのだ。そのような出世コースから外れた俳人や主宰者と対立した俳人は、自ら結社を興すことが多い。元いた結社に比肩できるほどの大世帯に育て上げれば自ずから俳壇内での地位は向上する。そのようにして多くの俳人が結社主宰者として一国一城の主になってきた。しかし結社を興すのは簡単ではない。要は結社主宰者として他人の面倒を見るのは真っ平だが、一国一城の主になりたい俳人の多くがネットを活動の場にしているという面が確実にある。

 

 ただネットはトラブルの温床でもある。顔が見えず、どういう人かわからない交わりであることも多いので、ちょっとした行き違いが口論に発展するのである。そのためネット上でうまく他者と付き合うにはウインウインの関係が一番である。俳人なら「君の俳句はいいね。前よりいい。次はもっと良くなる。でも僕の、わたしの作品もいいだろ。誉めたんだから君も誉めてくれよ」の関係である。ツイッターやブログを一種の個人結社だとすれば、結社同士に強い結びつきがないことは従来の結社制度とさほど変わらない。しかし年長の俳人たちに頭を抑えつけられるよりも、ネットメディアの一国一城の主でいた方が楽なのである。

 

 またウインウインのネットメディアの関係は、要するにドングリの背比べである。ここから抜け出すには、なんらかの形で既存結社の力を借りなければならない。まあはっきり言えば、俳壇の大物は必ず結社を持っており、自分に縁故のある俳人でなければ賞を授与したり作品を持ち上げたりはしてくれない。カルチャーセンターの俳句教室や自主開催の俳句入門教室、時には賞までが、結社に若く優秀でよく働く若い俳人をリクルートするための窓口なのである。若いうちは賞をもらえたりするが、暗黙のバーターとして結社員とならなければ結局は賞から遠ざかる。お山の大将が林立する俳壇では作品の客観的かつ公平な文学的評価など絵に描いた餅で、少しでも俳壇外にアピールするためには賞を受賞する以外にほとんど方法がないから厄介だ。結社やグループに所属していようといまいと、みんな仲良くが俳壇の大原則である。仲良しでなければおこぼれさえ落ちてこない。俳壇の有名賞は文学的基準で選ばれるのではなく、要は現実俳句界全体にどれだけ貢献したかを評価する功労賞である。

 

 もちろん僥倖を待つという手もある。俳壇とは無縁の小説家や自由詩の詩人などが、この作家は素晴らしいと誉めてくれるのを期待するのである。しかしそれも宝くじの当選ほど確率が低い。また小説家や詩人が持ち上げてくれても多勢に無勢で、俳壇に影響を及ぼすことはまずない。俳人にとって結社やグループが〝世界〟なのだから、その構成員にならなければ興味を持ってもらえない。多少とも公平な評価を受けるのは、物故俳人になって結社・グループの枠を抜け出し、〝みんなのもの〟になってからだろう。現状を変えようとすれば、現状とは違う理念で俳人たちが大同団結して、いわばアメリカ建国の〝自由・平等〟理念のような〝理想〟を掲げるしかないだろうが、小さなグループに分裂して生涯角突き合わせ続けるのが現世というものである。

 

 結局は既存結社の主宰者は同人がいなくなるまで結社を維持し、結社に所属しない俳人は、世の中の趨勢として結社が消滅して別の俳壇システムが自然にできあがるまでじっと待つということになるだろう。相変わらず気の長い話である。俳壇システムが明らかに変わる時代になるまでに、今活動している俳人たちは世の中からいなくなっているだろう。

 

 しかし「月刊俳句界」のアンケートで、現在の俳壇そのものと言える金子兜太氏の回答はさすがだった。「① いまのところご質問の気配なし。② 格別のことなし。③ 初志貫徹、人間と現実を見つめて。」が氏の回答の全文である。要は金子氏にとって、結社誌同人の高齢化や若い俳人の結社離れは下界の些事に過ぎないということである。現実俳壇の頂点に君臨する者、このくらいの高踏的姿勢がなければならないと心から感心した。弱みを見せては組織の長は勤まらないわけだ。御年九十六歳におなりだから、還暦の六十歳でもうんと年下の若造なのは当然だろう。また最近『私はどうも死ぬ気がしない』という本もお出しになった。是非見習いたい。

 

 結社主宰者は座談の名手である。議論で結社主宰者を言い負かすのはとても難しい。趣味で俳句を書いている人が多いとはいえ、人間、そう一筋縄ではいかない。いつしか創作者・作家だという自負が芽ばえ、主宰に食ってかかることも珍しくはない。俳人に限らないが、創作者というものはほぼ全員生意気なのだ。

 

 結社主宰者は、そういった生意気な俳人をねじふせて束ねていかなければならない。そのため自ずから座談の名手になる。それは奇妙なことに、下々の俳人たちもけっこう身につけている能力である。恐らくある時期に結社主宰者に身近に接して、その業を無意識的に身につけるのだろうと思う。また先生は先生という気概を持っていなければ、先生として認めてもらえないのも確かである。俳壇はどこまで行ってもつくづく厄介である。

 

 しかしたいていの場合、俳人の座談能力はその場限りのものである。俳人と座談し、その後に作品や文章を読むとガッカリすることが多い。あの威勢のいい、高邁で説得力のある座談はなんだったのかと思ってしまう。しかしそれが現実俳壇というものなのだ。多くの俳人が句会に参加し、結社の地方大会を飛び回り、カルチャーセンターや自主開催の俳句教室で俳句について語っている。人前に出ることが主な仕事なのであり、俳句誌がグラビアを巻頭に掲げているのはゆえなきことではない、というのが今回のオチでした。

岡野隆