俳句 26年11月号 [雑誌] 雑誌『俳句』

 

 

 「角川俳句賞のすべて」という完全保存版?の付録が付いている。第60回記念で、歴代受賞作品、選評の抜粋などが収録されている。世の雑誌は付録ばやりで、俳句はよくわかんないが、なんか浮き浮きする。得した気分だし、小説誌の付録で短編集とかがくっついてくるよりは納得する。それだと本誌に入れ込んでもいいようなもんじゃないか、と思うからね。

 

 雑誌というものは本来、読み捨てなわけで、それにそうぢゃない保存されるべきものを付けるということについて、小説誌はそもそも不利だし、悩むと思う。だって保存されるべき小説ったら、単行本だもん。付録の立ち位置がないっていうか。

 

 それでもやっぱ何としても、ときには付録を付けなくっちゃだわ、と思うのは時代がそうだからか。時代ってのは、ファッション誌がブランドとタイアップでポーチとか付けておトク感アピールしてる今、ってことだけど。大昔の「りぼん」の付録が大人版になったみたいな。それって女が少女化してるのか。ってか、雑誌の発行部数だけタダでばらまかれたブランドもんって、語義矛盾ちゃうか。使う勇気、よくあるな。

 

 と、ハナシはズレまくってるよーに見えるだろーが、よーするに付録ってのは、その雑誌の価値を象徴するようなもんだと、ぴたっと決まる感じ。短編集はさ、付録付けるようなエンタメ系小説誌の価値の中心ぢゃないよね。エンタメって言えばまず長編なわけで。

 

 つまり実用性はともかく、ファッション誌がブランドもんのアイコンとして付録を作るのは、その雑誌への読者の期待感と価値観にぴったりマッチしてるってこと。だからこそのおトク感なわけで。でないと、郵便局とか銀行の窓口でくれる、ただのオマケになってしまう。

 

 角川俳句の付録が「角川俳句賞のすべて」ちう小冊子で、完全保存版と銘打ち、しかもなんか割とハマっているというのは、読者の関心の中心がつまるところ「角川俳句賞のすべて」にあるということと、なおかつ編集部がそう認識してるということに他なりませんな。もっとも文芸誌も詩誌も、買うのは新人賞応募者くらいなのは常識なんだけど、小説誌はまだそうぢゃないという格好をしている。角川俳句の方が、そこんとこ正直で割り切ってて、恐れ入りました感を感じようと思えば可能なわけ。よーするに啓蒙ツールなんだから、皆買うように、とな。

 

 そんで、そこにびっちり埋まった日本語のカタマリは、確かに一種のブランド化されたもんなんだ、と言われると、そーかもとも思える。ブランドって、型だからね。型を求める気持ちが読者の気持ちだって、ファッション誌も俳句商業誌も変わらないって、そうかも。

 

 それをぽんと手渡されることのおトク感こそが、オマケと違うところだと。権威そのものをもらったわけぢゃないけど、その影やカケラが手に入ったような。そうすると、それは実用性がないとか何とかより、実用性がないことに気づいて、ぽいと捨てるところからしか始まらない。そのとき読者は、自分にとって上等のもんしか使わない、とか、自分の句集をまとめることに夢中、というステージに立つんだろう、たぶん。

りょん