池田浩さんの文芸誌時評『No.008 三田文学 2014年夏季号』をアップしましたぁ。池田さんは、『病院っぽい雰囲気から、夏らしく切り出した氷のようになった。薄いブルーの表紙が涼しくて、とてもよい』と書いておられます。『三田文学』さんはご存知のように実質的に慶應大学が出している大学文芸誌です。リーマンショックで慶應大学さんもだいぶ痛手を蒙ったやうで、それを補填すべく、お受験業界で絶大的な人気を誇る慶應ブランドの威力を発揮して様々な拡大路線に打って出ておられています。『三田文学』さんにもその影響はあるのかな。あるんでしょうね。
池田さんは、『読者、特に固定読者は紙の雑誌の何を買っているのか。買うことによって何にアクセスするのかと問えば、その雑誌の編集部が作り出す幻想に、と答えるほかはあるまい。・・・そしてこの冷んやりした距離感を保つ三田文学は、読者に何を与えているのか』と書いておられます。
大学文芸誌である以上、『三田文学』さんが在校生から新人を出し、文筆家になった卒業生を最優先でケアするのは当たり前のことです。江藤淳さんなどは、その役割を十全に果たしました。『三田文学』でデビューした作家たちを、一つ格上の文芸誌に好意的に推薦されました。現在は『三田文学』で『文學界』さんでやっていた小説同人誌批評を引き継いで、文壇とパイプを繋げておられるようです。
こういったしがらみは、どこの雑誌にもあるものです。しかしまあ、池田さんが書いておられるように、『三田文学』さん自体の『信念とか信仰が、バランスの中に隠れて見えにくい。それが不気味なのである』のも確かです。偏りのない普通の文芸誌の体裁を取っているので、その分、特徴が見えにくくなっているのですね。
内実は様々なしがらみで縛られているにせよ、雑誌メディアは〝公器〟といふ無色透明で中立的な立場を取らなければならないという面があります。しかしうっすらとであれ、『文學界』=私小説、『新潮』=社会派、『群像』=前衛、『すばる』=大衆文学的純文学誌といった匂ひのやうなものを発散していかなければ、特徴が出ないのも確かです。
『三田文学』さんは大学文芸誌ですから、三田在校生と卒業生のための雑誌でもいいのですが、それではちょっと物足りないといふか、プライドが許さないでせうね。たとえばどーんと宗教思想特集でも組んだ方が、路線がはっきりするかもしれませぬぅ。
■ 池田浩 文芸誌時評 『No.008 三田文学 2014年夏季号』 ■