俳句 2014年 04月号 [雑誌]

 

 

 りょんさんの時評があまりにも評判がいいので、今度は俳句の雑誌もやれという。石川わ何を考えておるのか。

 

 俳句といえば歴史のあるもんじゃろう。りょんさんがいくら才能に満ち溢れておっても、現代詩みたいな付け焼き刃のお勉強ではどうにもならない。え、りょんさん勉強したのって、当たり前なのら。りょんさんは売り絵のイラスト以外にも、絵本とか出したい。誰でも考えることだが。で、テキストはどーするかってったら、手っ取り早いのは詩みたいなものだ。いちおー知っとこと思うべ。

 

 石川が言うには、しかし俳句に絵を付けても、詩に絵を付けるのと同じに喜ばれる。しかも詩人より俳人のがお金持ちが多い。と、心惹かれる言葉であったが、どうも思うに、俳句には写真の方が似合う気がする。これはりょんさんのプロ意識からくる直感というやつで、その理由は追い追い考えたい。

 

 で、どっから手を付けたもんやらの角川俳句だが、そしたらやっぱり「俳句の『窓』から~異文化との対話」かな。思いっきり異文化なりょんさんとしては。

 

 今回は、雑誌とかによく出てるレストラン(だと思っていたが、日本初の洋菓子店だったという)村上開進堂の山本道子さんが料理と俳句の関係を語っている。俳人はたいてい他の職業を持っているそうだから、異文化との関係については論者が多いかも。

 

 ただ、料理と俳句の関係は、わりあい納得いく感じだった。これは俳句が写真と相性いいみたい、っていうのと同じくらい、ぴったりきた。たとえば、料理と短歌ってのよりは。短歌の場合だと、「何とかかんとかサラダ記念日」みたいに、そこに食べ物を詠み込まれている、というシンプルな関係性だ。短歌の主眼は平安の昔から恋愛やなんかの抒情で、つまり主役は人間。サラダが大事なんじゃなくて、「美味い」と言った男の方に意識が向いている。

 

 俳句は、そこに詠み込まれた食べ物とか料理とかがあったら、それはそれとして詠まれてるみたい。男と食べたとか、女が作ってくれたとかいうことのマクラとかダシとかであるわけじゃない。ヒトが出てくるとしても、モノと同格と言うか。あ、なんか、何で写真と相性よさそうか、わかってきた気がするし。

 

 山本さんとの「対話」で、「俳句にも料理にも四季がある」というのには、なーるほどと思ってしまった。日本料理は四季を食べるもので、俳句は四季を言葉にして口にのぼせる。すると「口」というのもキーワードなのかしらん。

 

 しかしながら、山本さんの句「湯豆腐のゆげのごとくに老夫婦」が、久保田万太郎か誰かの句を引き合いにか「悲しい」と言われたそうな。俳句の世界も本歌取り前提みたいな前例主義なのね。「夫婦かな」と直されたけれど納得いかない、とのことで、そりゃそうだろう。そもそも老夫婦だから悲しいということはない。強いて言うなら、それが「ゆげのごとく」だからだろう。「ゆげの向こうに」なら、作者の主観が全然入らなくて、「悲しく」もない。情景そのまんま、やっぱ写真みたいなものなのかしらん。

りょん

 

 

 

 

 

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