* ガランが仏語版『千夜一夜物語』の翻訳に用いた十五世紀シリアの手稿(フランス国立図書館蔵)
連載の第七回で、筆者はつぎのように言った。もしも『無名草子』が、朝を迎えたとたん、あたかも『千夜一夜物語』の一夜のように終わってしまったら、『無名草子』はこれほど興味深くなかったはずである、と。
しかし『無名草子』が終わるのは朝が訪れたからではなく、テクストの目的は果たされたからである。女性を論じるためのテクストで男性の問題に話題を転じたことで、テクストの不可能性にぶち当たったからである。夢幻能の霊的な存在がふと姿を消すように、女房たちも、好き放題に読者を翻弄してきた老尼も、跡形もなく消え去ってしまう。
だが『無名草子』は終わらない。女房たちの議論は、読者たちのあいだにコミュニケーションの場を移し、無期限に継続されてゆくことになる。そのコミュニケーションを支えるのは、女房の場合であっても読者の場合であっても同じである。すなわち過去のテクストの蓄積であり、間テクスト性であり、鎌倉初期という時代の世界観である。『無名草子』が終わらないのは、『千夜一夜物語』が終わらないことと大きくは違わない。
ボルヘスは『七つの夜』のなかで『千夜一夜物語』に言及しながら、「夜の語り部たち」(confabulatores nocturni)という美しい言葉を紹介している。夜という非日常の時間は、ひとつの世界が亡びる時間でもある。語り部たちは新たな世界が生れる夜明けが訪れるまえに、世界を物語のなかに閉じ込めてしまう。そして再び夜が来ると、また同じことが繰り返されるのだ。
この無限の、そして夢幻の営みは、まさに文学の営みそのものを表象してはいないだろうか。『無名草子』を興味深いものにしているのはテクストの内と外の境を取り払おうとするその性質にあるのだが、そこは女房たちが、そして読者たちが、自由に往来する言葉の世界である。女房たちは和歌や『源氏物語』を読み、そこから得たものを伝えるために人を呼ぶ。集まった人々は自らの考えを発信する。発信することは詠むことに他ならない。そして読むと詠むの往還は、やがて言葉の力を解放し、大いなる意味を喚ぶのだ。
筆者は十ヶ月にわたって『無名草子』というテクストを逍遙してきたが、それはひとつの軌跡を後に残すに過ぎない。そしてそれは次の夜に『無名草子』を訪れる新たな読者の足跡とは、おそらく交わることがないのである。
最後に紹介する画像は、アントワーヌ・ガランが『千夜一夜物語』を翻訳するために利用した十五世紀シリアの手稿である。おそらくアラビア文字は、日本語を除いて最も絵画に近い文字ではないだろうか。まさに連綿体と呼ぶべきその筆致は、内容だけでなく、いかに文字を記すかという行為そのもののレベルでも、少なからぬ意味を内包しているように思われる。余白を取り囲むようにして書き込まれた第二の文字群は、他でもなく、物語に入り込もうとする読者たちの影であろう。
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さて、評論エセーという体裁によりかかり、筆者はこれまで気ままに論を進めてきたが、読者の便宜のために、最低限の文献を示しておきたい。
残念ながら岩波文庫に入っていた『無名草子』は、現在新刊での入手が困難である。単行本としては、『校注 無名草子』(笠間書院)や日本古典集成(新潮社)のものがある。ただ、少々値は張るが、新編日本古典文学全集に入っている『松浦宮物語 無名草子』(小学館)が、現時点では最も手に取りやすく、注釈などの内容も充実していると思われる。
『無名草子』は研究書も多くない。ひとつ挙げるとすれば、複数の研究者で組織された「『無名草子』輪読会」による『無名草子 注釈と資料』(和泉書院)がある。本文と注釈に加えて、当時の時代背景や引用されているテクストについての解説も豊富だが、こちらも新刊での入手は困難である。近年の論文では、中村文「『無名草子』冒頭部の構想」(『埼玉大学紀要人間学部篇』第5号、2005)が、テクストの構造をよくまとめて示唆に富んでいる。
また本稿では文学への理論的なアプローチも積極的に利用してきたが、それらの理論については、『ワードマップ 現代文学理論』(新曜社)が入門書としては最適だろう。
なおこの連載の骨子は、拙稿「女のしわざ―『無名草子』の批評空間―」(『アジア文化研究』第37号、2011)を敷衍したものである。そこで論じきれなかった部分を補いつつ、より幅広い読者を想定して筆を運んできたが、かえって万華鏡のようなテクストに迷い込み、帰り道を見失った感がなくもない。しかしそれもまた一興である。
大野ロベルト
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