© 錬肉工房『ハムレットマシーン』 撮影・宮内勝
能の独特の雰囲気を作り上げる大事な要素の一つは能面である。能面はこの芸にしか使われないので、能の特徴とでも呼べる。今回は、能の世界における面の働きについて考えてみたい。
決まりごとの多いこの芸術に少し親しんでいくと、能楽の現在のレパートリーが含む約250曲前後の中で、ある題目を見かけたら、すぐにどのような物語で、どのような登場人物が現われるかは分かってくるのである。一度観たことのある舞台をまた別の配役で再び観ること、そして役者の演技の個性を比べることが、能楽堂へ足を運ぶ人の一つの楽しみなのだ。殆どの場合、能の観賞は既知の物語と再会することなので、物語の主人公を見る時は、観客の中にあるその登場人物のイメージと、役者が舞台上で演じる主人公を会わせる機会だ。そこで、観客は主人公が何者なのかを認識できるように能面が大きな役割を果す。
能面は「面」(おもて)と呼ばれている。正月の時に演じる「翁」という演目にしか使わない翁面、それから尉面(神様の化身や亡霊に使う)、男面、女面、鬼神面と怨霊面といった種類に分けられる。各種類の中で細かい表情の違いがあり、一つの面がどのような演目に使えるかは大体決まっている。例えば、女面の種類を見てみると、少女の純粋な美しさを見せる「小面」、色々な喜びや苦しみを経験した「深井」、年老いた、優しい表情を見せる「姥」などがある。演目専用の能面があるわけではないのだが、演目によって主人公の役を演じるシテ方はある範囲の中から(そして勿論手許にある面の中から)選べるのだ。面の選択には演者の個性、または演出上の意図がうかがえる。
国立能楽堂特別展示『加賀の能楽名品展』より翁面の「父尉」(江沼神社蔵)
楽屋と能舞台の間にある「鏡の間」では、全ての装束を身につけた役者が一番最後に能面を被る。これは役になりきる過程の最後の段階である。能面の場合、角度によって表情の印象が大きく変わるので、舞台上で動作や舞いを行う時は上半身を安定させることがとても大事なのである。能面の動きによって表情が変わることは、能という芸の大成の時から意識され、意図的に使われている。主人公が嬉しい気持ちを表現するために、上を見るように面を仰向ける。これは一つの所作で、「照ラス」と呼ばれている。また、悲しみを表現する時は面を下に傾けることは「曇ラス」という。このように、細かい動きによって各場面に相応しい表情を見せる。決まりごとに入っていない急な動きは面の印象を激しく変化させるため、堅く禁止されている。
能の面を見てすぐに印象に残るのはその大きな存在感である。長い時間にわたって大事に使用され、代々受け継がれてきた面が数多くあり、その風情には時間の蓄積が感じられる。真新しい能面を見て感動を覚えるのは実は稀なことで、使用感のある面の方が美しく見える。場合によって何百年も受け継がれてきた優れた面の存在感に圧倒されないように、能役者には充分な気力と体力が求められている。
能の場合、役者の顔が完全に面に隠されるのではなく、少しだけ顔が見えることが大事とされる。それは、ある意味で役を演じる役者と面が象徴している人物を区別するためである。観客は両者を意識しながら、自分の目の前に展開しているのは「演劇」、つまりフィクションであることを常に念頭において観賞する。
国立能楽堂特別展示『加賀の能楽名品展』より「小面」(金沢能楽美術館蔵)
舞台上で展開している物語はフィクションであることが大事なのは、演劇の根源的な形は元々宗教的な儀式だったからであろう。世界中の古代仮面劇には宗教的な背景があったことは周知である。信仰者は、何もかもが移り変わり、死に向かう無常の現世とは違って、永遠なるものが宿る「神」の世界の存在を信じ、その永遠に憧れて、「神」に、または「神」である状態にあらゆる手法で近づこうとした。手法の一つとしては、祭礼といった特別な時間に、神を象徴する仮面をつけて、仮に「神になる」ことだった。祝祭の時に神話などを再現することは、演劇の原型だったと思われている。
古代ギリシャ演劇の例を挙げてみると、元々は神に捧げる儀式で、仮面劇だったことは偶然ではない。仮面はpersona(「人物」の意味)と呼ばれ、仮面を被った役者はその仮面が示していた人物になっていたわけだ。ユーラシア中に仮面劇があって、古代日本の雅楽や散楽はそれと無関係ではない。その延長線に猿楽の芸があり、祝祭性の強い翁猿楽と、逆に娯楽性を持つ能という二つの方向へと発展した。
能が大成された時期は、寺社の祭礼で行う儀式との関係が強かった。その名残を伝えるのは現在でも正月の時に能舞台で演じられている「翁」という演目である。翁の役を演じる役者は特別なしきたりを行い、舞台上で面箱に入った翁面を取り出して、観客の目の前でそれをかけて、祈祷の舞いを舞う。「翁」の上演の時に見られる面の扱い方は、翁面が元々神体だったことを証明する。
国立能楽堂特別展示『加賀の能楽名品展』より「般若」(金沢能楽美術館蔵)
娯楽の性質を持つ能や狂言は明らかに「翁」という特別な演目とは気質が違うのだが、能でも神様の化身、または亡霊が登場し、あるいは異界や他界、輪廻や成仏がモチーフになったりするのである。しかし、儀式的な芸能とは違って、このようなモチーフは信仰の対象になり得ることはなく、「物語」の要素となる。舞台上で物語が展開している間、役者が面をつけて、物語の中に登場する人物の「役」を演じている。面のおかげで観客は役者が登場人物そのものではないと承知した上で、物語に付き合うのだ。特定の場と時間の中で、その仮面はある登場人物の存在を象徴している。学者が喜ぶ言葉を使ってみるとしたら、仮面は記号学の観点からsignifiant(シニフィアン)と呼ばれ、何かを表しているものになっているわけだ。演者と観客は面に関してある種の約束事を共有していて、その約束事が有効であるかぎり、舞台作品が成立するのである。
しかし、世界中で色々な働きを持つ面があり、全てが何かを象徴しているわけではない。仮面舞踏会やヴェネツィア・カーニバルのような公式的なイベントでも仮面の使用が中心になるが、能楽のようなあらゆる古典芸能で使われる面とヴェネツィア・カーニバルの仮面を見比べると、大きな違いに気付く。カーニバルの面の基本的な役割は、その面をかけた人の顔を隠すことだ。その人の身分の全て、つまりアイデンティティと位を隠すことで、カーニバルという特別な祭典の時だけ、自分の身分に制限されずに行動できる。
それが何を意味しているかというと、貴族と庶民、または男女の区別など、あらゆる社会的な差が一時期的に無効になるわけである。ヨーロッパの昔、年に一度しか行われないカーニバルは、このような差に不自由にされ続けた人たちの待ちに待った楽しみだった。社会的規則の全てが無効になること、自由に振舞うことは、カオスの状態を導く。そのカオスを可能にするのは、その祭典に参加する人間のアイデンティティを奪う仮面の働きなのである。
国立能楽堂特別展示『加賀の能楽名品展』より「中将」(尾山神社蔵)
一方、古典芸能で使われる仮面は、逆に人に「顔を与える」役割を果す。仮面は自分の力で動けないので、役者の体を借りて、役者に付けられてからはじめて「主体」となって、生きるのだ。特定の時空間の枠の中で、「何か」または「誰か」になるために、人は仮面をつける。それは例えば神様であり、英雄であり、悲劇の主人公になる高貴な女性であり、または不思議な力を持つ妖怪などである。面を見たら、観客はその人物のことを伝える神話や物語を知っているので、登場したのは誰なのかに自然に気付く。
能の面もこのカテゴリーに入り、ある人物についての物語を想起する要素の一つになっている。能の題材となる『伊勢物語』、『平家物語』、『源氏物語』のような有名な物語や説話物語などは観客の記憶の中にすでに宿っている。それで、面をかけた役者がその物語の登場人物として舞台上に出てきたら、観客にはその人物は誰なのかすぐに分かるのだ。即ち、装束や小道具並びに、面はある種の認識過程に協力する。
もし能面が観客の記憶にある物語と異なる設定に出現したら、そして常例とは違う風に扱われたら、違和感が生じ、別の意味で面白い効果が得られる。能楽の世界ではそこまで実験的な試みはさすがにないが、現代演劇の方で能面の働きが極限まで試された例がある。
© 錬肉工房『ハムレットマシーン』 撮影・宮内勝
1998年に錬肉工房がドイツの現代劇作家ハイナー・ミュラー作の『ハムレットマシーン』を世田谷パブリックシアターで上演した。この作品の中心となる「女のヨーロッパ」という場面に若女という種類の能面をかけ、黒い男性の服装を身にした役者が登場する。『ハムレットマシーン』はヨーロッパの歴史を鋭い眼で見る、政治的批判に満ちた戯曲で、「女のヨーロッパ」というシーンでは、ある文化の象徴であるハムレットが複数の女の声に犯され、自ら女になりたいと言い出して、女装の姿で最後に取り残される。
錬肉工房の主宰者である演出家、岡本章氏はその場面を再解釈し、日本文化への置き換えを試み、どのようにしてそのシーンに込められた意味を現在日本の観客の中で思い起こせるかを考察している。結果、ハムレットの恋人であるオフィーリアを演じる能役者が若い女面をつけて、花嫁姿で登場する。オフィーリアの頭の上に白い花嫁のヴェールをかけた二人の男たちがその後彼女のヴェールを開き、オフィーリアの顔である女面を剥ぎ取ってしまう。能面が剥ぎ取られた瞬間に、初老の男性能役者の顔が、死者であると同時に、まるで無垢な生まれたてのような喜びを覚えながら、微笑んで見えた。公演中に面を取ることで能の根源にあるエッセンスが出て、この場面は能の伝統に象徴される文化の本質を見つめなおし、新たに展開する機会となった。
600年間の歴史を背景にした能面が割れたような瞬間に立ち会った観客は、衝撃を受けたであろう。その驚きの瞬間こそは能という芸にどれほど観客の理想が込められているかを示した。長い時間にわたって愛用され、大切にされ続けた能面に対して人が抱く想いこそが、能面独特の存在感を形作るのではないだろうか。
仮面、または能面を様々な観点から見れば、人間がどうして仮に自分とは違う人物になろうとしているかという、演劇的行為の根本についてもっと色々な発見ができる。能楽という芸にしかない面の魅力や奥深さについては、回を改め、別の視点からさらに具体的に論じてみたい。
ラモーナ ツァラヌ
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■