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「俳句は進化しない」と題された囲み記事を目にしたのは、2013年6月3日付の読売新聞朝刊でした。「俳句あれこれ」という連載タイトルそのままに、俳句にまつわる日常雑感をつぶやいた短いエセーですが、「俳句は進化しない」という題名に心惹かれました。筆者は大谷弘至氏という、いま最も俳壇の注目を集めているといってもいい若手俳人です。朝日俳壇選者を務める中堅俳人・長谷川櫂氏の結社「古志」の主宰を、3年前に30歳の若さで引き継いだことが、当時は俳壇の話題になりました。

 

大谷氏の記事によれば、「俳句は進化しない」とは俳人・飴山實の言葉だそうで、「闇雲に進化を競った昭和の新興俳句への反省があった」と説明しています。そして、「複雑な事象をいかに単純化してみせるかというところに芸があり、深みがある」はずの俳句が、「社会に迎合して進化をめざしてしまっては、自ら面白みを捨ててしまうようなもの」と、戦前戦後から続く、俳句革新への邁進ともいうべき状況に一石を投じます。

 

大谷氏が批判しているのは、俳句の進化そのものではないと思われます。その批判の矛先は、俳句を取り巻く「常識」に向けられているのではないでしょうか。つまり、俳句とは日常という世界の描写である、という前提のもと、複雑化し続ける社会事象を描くためには、俳句自らも複雑化しなければならない、という常識に対する盲信です。それは、「複雑」という強迫観念に囚われた挙句、「進化」という美徳に無批判的に身を委ねる風潮を指しています。そうした常識が、俳句に進化というマンネリズムをもたらしているとの批判です。

 

「進化とは無縁のものが、世の中に一つくらいあってもいいだろう」という大谷氏の結びの一文には、複雑なことを単純なことの上位に据えてきた、「知性至上主義」とでもいうべきアカデミズムに対する皮肉が込められているように思えます。そもそも俳句とは「知的な遊戯」、つまり「知=遊戯」として生まれたわけですが、歳月を重ねるごとに、「知」と「遊戯」とがイコールではなくなり、優劣が生じました。とくに近代から戦前戦後へ進むにつれて、しだいに「知」の比重が大きくなり、俳句は「遊戯」を離れて「文学」へと接近します。そうした無意識が、新興俳句運動から前衛俳句への流れとなって現れたのです。

 

かつての現代俳句が何よりも欲した「俳句=文学」というアイデンティティですが、いまとなってはあえて声高に宣伝しなくても、俳人のほとんどは「俳句は文学の一ジャンルである」と思っています。しかし、それは俳句が進化した結果、つまり新興俳句運動や前衛俳句が俳壇内外に文学的な議論を巻き起こした結果ではありません。どちらかといえば、いまや連ドラや映画の原作の宝庫になりつつあるマンガやアニメといったカルチャーを、「文学」として承認していく課程において、そうしたカルチャーよりも、より言語との距離が近いという理由だけで、俳句も文学として考えないわけにはいかなくなったという、いわば時代の「空気」によるものだといわざるを得ません。

 

こうした背景のもとで大谷氏のエセーを読み直すと、俳句のビジョンを考えるにあたって、時代の空気とか風潮とか状況といった現象が、俳句の伝統形成過程からみた場合、いかに取るに足りない日常に過ぎなかったかが納得できます。新興にしろ前衛にしろ、そうした過去の「刺激」が、俳句の本質という土壌に、いったいどの程度の痕跡を残したのか、あるいは今後残すのかは、依然として見えてきません。「伝統」対「前衛」の対立構造が過去形で語られるいま、何度目かの生き残りを潜り抜けた「伝統」俳句は、果たして自ら主役を演じる俳句史に、あえて「新興」や「前衛」という「事件」を残すのでしょうか。

 

もちろんそうした疑問が残るからといいって、新興俳句運動や前衛俳句の存在が、俳句史の徒花であったといっているわけではありません。たとえば、このコンテンツで前回まで3回に亘って検討した、江里昭彦氏の戦後俳句論、「角川書店『俳句』の研究のための予備作業」において、とりわけ氏の本音が語られていると思えるのが、高柳重信編集の「(旧)俳句研究」を受け継いだ総合誌、「俳句空間」に関する部分です。

 

伝統俳句=俳人協会の支持に回った角川「俳句」に対し、明確な対立理念を前面に押し出すことで戦後俳壇に「前衛」の風を呼び込んだ「(旧)俳句研究」でしたが、重信の急逝と経営難により廃刊を余儀なくされたばかりか、角川書店のグループ企業に買収され、「(新)俳句研究」として、皮肉にも形ばかりの延命を強いられることとなりました。しかしそれは残酷にも誌名だけの延命で、重信の理念を引き継ぐものではありませんでした。いわゆるポスト重信の俳人たちは、自分たちの身銭で創刊した「俳句空間」によって、前衛という俳句革新を試みた重信の意志を継承しようとしたのです。

 

「俳句」と旧「俳句研究」は、それぞれの俳句観に照らして俳人および作品・批評を評価し、格づけし、その格づけをとおして進むべき俳句の道を(対抗的に)明示・教導していたのである。したがって、「俳句研究」が角川の軍門に降ったということは、向後は「俳句」が唯一の<格づけ機関>として君臨し、俳句史の流れを方向づけることになる。そうした見通しに、重信陣営のひとびとは危機感をもったのであろう。

(「角川書店『俳句』の研究のための予備作業」中篇より)

 

「文学」としての俳句を守ろうと意気に燃えた「俳句空間」も、創刊から7年後の通巻23号を最後に、その幕を閉じました。江里氏は「俳句空間」が長続きしなかった要因を、マーケティングの敗北と捉えています。つまり売れなかったということです。

 

こうした経営努力にもかかわらず、かつ執筆者の我慢強い協力に支えられていたのに、結局(*「俳句空間」が)廃刊となったのは、必要経費を安定してまかなえるだけの読者層をもたなかったからである。つまり、あの時代、俳句の文学性を重視する層は、商業誌を支えるには市場規模が小さかった――これが冷厳な結論である。

(同)

 

江里氏が指摘するように、「俳句空間」という商業誌にとって、市場規模が採算と吊り合わなかったのは致命的ですが、それはあくまでも結果論であって、問題はなぜ「俳句空間」が、採算をまかなえるだけの市場(=読者)を開拓できなかったのかにあります。それは、「あの時代、俳句の文学性を重視する層」が少なかったからでしょうか。「俳句空間」が商業誌の体裁をとっている以上、マーケティングは確かに重要ですが、それはあくまでも外的な要因です。売れなかった理由は、むしろ「俳句空間」そのものにあるはずです。

 

ということで今回は、伝説の俳句総合誌「俳句空間」をひも解き、「(旧)俳句研究」の意思を受け継いだ同誌が、ライバル誌である角川「俳句」の牙城を崩せないまま廃刊に追い込まれた要因を、その編集理念や記事そのものから探ってみたいと思います。「伝説」とは、廃刊から20年近くを経たいま、実物の「俳句空間」を目にすることがほとんどないという意味です。あくまでも「(旧)俳句研究」と比較しての話ですが、同誌の発行部数は総合誌としてかなり少なかったのではないかと思われます。

 

終刊号となった23号は、「平成5年(1993)年6月15日印刷発行」の奥付で刊行されており、表紙の背には小さく、「休刊記念号」と記されています。特集は、「現代俳句の可能性―戦後生まれの代表作家―」と題し、戦後生まれの中堅作家から18人を選び、それぞれの自選12句を題材に、同時代の俳人がその作家と作品を語る、という体裁をとっています。代表作家として選ばれた18人と、それぞれの批評文を書いた18人を列記します。

 

谷口慎也(筑網敦子)・摂津幸彦(豊口陽子)・西川徹郎(正岡豊)・宮入聖(藤原龍一郎)・金田咲子(三森鉄治)・久保純夫(妹尾健)・筑紫磐井(山内将史)・江里昭彦(後藤貴子)・大屋達治(仙田洋子)・正木ゆう子(池田澄子)・片山由美子(渡辺純枝)・対馬康子(渡辺和弘)・林桂(鈴木伸一)・長谷川櫂(中田剛)・夏石番矢(石井辰彦)・四ツ谷龍(冬野虹)・田中裕明(島田尋郎)・岸本尚毅(橋本榮治)*( )内は論者、順番は掲載順

 

掲載は年齢の高い順です。当時47歳の谷口氏を筆頭に、最年少の岸本氏が32歳です。大井恒行編集長の編集後記によれば、「今後の俳句に中心的な役割を果たすであろう戦後生まれの俳人にスポットを当てた。いわば、小誌が一貫して登場を促し続けた世代でもある。(中略)これらの真に次代を担うべき作家たちが、同一の場で、同時的に批評の場にさらされ、どこが、どのように、なぜ優れているか、あるいは、どのような可能性が見られるのか、そういった真価が、真実問われたことはないように思われる。その意味ではこの特集の意義は少なくない」と、「俳句空間」の集大成的な特集だったことがうかがわれます。

 

前回・前々回のコンテンツでも取り上げたように、総合誌の役割とは、次代の俳句を「決定」するような「新人の発掘・評価」と、過去から現在に至るまでの優れた業績に対する評価(再評価)の二つです。もちろん今現在の角川「俳句」が力を注ぐ「初学者啓蒙」も、総合誌の役割には違いありませんが、あくまでもマーケティングを優先させているに過ぎません。「格づけ機関」としての総合誌が担うべきは、「新人発掘」と「業績評価」です。よって「俳句空間」の検証も、この2点から行なわねばなりません。ならば、この号の特集は、戦後生まれ作家という新人発掘と、その作家の業績評価を兼ねている点で、俳句総合誌「俳句空間」を評価するにはうってつけといえるでしょう。18本の同時代作家論から、掲載順に数本の冒頭部分を引用してみましょう。

 

谷口慎也さんのことを書くのは初めてだ。俳句巧者であり、その論も明晰な姿を、ぽかんと口を開けて眺めいっている私なのだ。しかしぐるりとあたりを見回してみて、今の俳句の作家の中でいったい何人がこの人のように果敢に未来について語るだろうか。貴重な人なのである。

(筑網敦子『谷口慎也論―吾を刺さずに』より冒頭初段)

 

ここで大切なことは、摂津幸彦の作品を読む際に、決して正座してはならないということである。なにやらわけのわからない難解さをありがたいなどと思ってはいけないのである。彼はとてもはずかしがりやのませた少年であって、はずかしがりやというのはきまって陰でわるさをするのである。

(豊口陽子『摂津幸彦論』より冒頭部分)

 

西川徹郎の俳句の出発を飾るのは、「不眠症」という一語であった。このことは、西川の句業が、〈個人的〉なものと〈公的〉なものとの冷たい矛盾を生きる他はなかったことへのせつない予感のように思える。まぜ「不眠」ではなく不眠症なのか。

〈病名〉を付けることにより〈病気〉となること。〈病の体系〉に接続されることにより、〈不具性〉を獲得すること、そこから西川の俳句は始まっている。

(正岡豊『西川徹郎論ノート』より冒頭の第1段と第2段)

 

ついに一人の俳人を選ぶなら私にとっては宮入聖である。

赤尾兜子、高柳重信、堀井春一郎、三橋敏雄、河原枇杷男といった俳人の作品から受けた文学的な影響や恩恵ははかりしれない。しょうり大、沢好摩、摂津幸彦、大井恒行、大屋達治といった先輩や同世代の俳人との相互の刺激も得るところ多かった。桑原三郎、秦夕美といった超絶技巧的な言葉のつかい手とは同士として親灸し「犀」や「巫朱華」といった句誌をつくりもした。

(藤原龍一郎『宮入聖論―慈悲の人―』より冒頭の第1段と第2段)

 

引用した冒頭部分は、すべからく読者が「理解できる」文章とは言い難いと思われます。もちろん評者の「熱意」は十分過ぎるほど伝わってきます。しかし、「新人の業績評価」とは応援演説でもあるわけですから、「熱意」はあって当たり前でしょう。問題は彼らに対する「格づけ」が、あまねく読者に対し説得力を持っているかどうかに尽きます。さらに、ここでいう読者とは、「俳句空間」の愛読者を指すのではなく、俳壇を超えて文学全般に至る、さらに文学ジャンルすら越え出る、広い範疇の読者を意味しています。

 

名前だけで通用するような「大家」ならばともかく、次代を担う「新鋭」を論じるわけですから、彼がどんなことを考えている俳人で、今までどんな活動をしてきたかを、簡単でいいから最初に紹介するのが評者の義務です。が、引用した4人の文章には、このような批評対象を相対化し得る記述が見当たりません。いずれもが「私にとっての誰それは・・・」のような、評者の方が対象よりも前面に出ている文章です。これは導入部に限ったことではありません。また、引用した論に限った話でもありません。が、ひとつだけ例外がありました。歌人として先鋭的な短歌作品を発表するだけでなく、俳句や現代詩に関する著書を持つ、石井辰彦氏の「夏石番矢論」がそれです。冒頭の一文を引用します。

 

一九八三年二月に上梓された夏石番矢の第一句集『猟常記』(*原文は正字体表記:筆者注)の「栞」に、作家が文学上の師と仰いだ前衛俳句の驍将、今は亡き高柳重信が、「『俳句』への道」と題した二四〇〇字ほどの文章を寄せている。

(石井辰彦「未知なる『俳句』を求めて」より冒頭3行)

 

このように記述することによって、夏石番矢という新進作家が、重信の弟子として俳句革新を試みる前衛的なスタンスの俳人と分かります。俳句という伝統的な文学ジャンルに前衛が存在したという事実だけでも、俳句の外部にいる読者の関心を引くには十分です。こうした俳壇内では常識として通用する項目でも、基礎情報としてきちんと説明することで、論者の視点を多くの読者と共有することができます。それが説得力の第一歩なのです。

 

ところが、「俳句空間」に掲載されている評論の多くは、筆者のひとりよがりな文章です。そこには、読者に理解してもらうという姿勢が感じられません。また、筆者の主張があればまだいいほうで、何を言いたいのかわからない論も少なくありません。取り上げている固有名にしても、自分がわかっていればそれでいいと思っているように見受けられます。あるいは、想定している読者がごく少数の筆者の同行者(同好者)なので、改めて説明するのも憚られるといっているように思えます。

 

実は、こうした「俳句空間」に特有と思われる文体は、現代詩の世界では当たり前のように流通してきました。過去形でいうのは、それが1980年代から90年代にかけて流行った「ポストモダニズム思想」に端を発する、一時期の文学批評特有の文体を模したものであったからです。いまから振り返れば遠い昔ですが、当時はこうした「何を誰に主張したいのかわからないような」文章が、文学の批評言語としてまかり通っていた時期がありました。なかには難解な文体を、「韜晦」といって崇めるような風潮が確かにありました。

 

さすがに文芸誌は売れてなんぼの世界ですから、まともな編集者であればそうした文章では飯が食えなくなると気付き、編集段階で筆者を「更正」させました。読者は最低限「わかる」文章を求めている、という当たり前のマーケティング感覚です。一方で、角川「俳句」の対抗勢力をめざした「俳句空間」は、その立場上マーケティングよりも、理念に固執せざるを得なかったため、理念の性急な強化策の結果、「ポストモダニズム」的「韜晦」という見掛けの説得力に頼ってしまったのです。「私小説」ならぬ「私評論」ばかりを掲載した「俳句空間」は、総合誌とは外見ばかりで、信頼し得る内容とは認められなかったのです。それは仲間内でしか通用しない「身内受け」狙いと捉えられてしまいました。

 

「(旧)俳句研究」が「格づけ機関」として認められたのは、ひとえに高柳重信編集長という「思想」が存在したからです。「思想」とはいえ、なにも難しい概念を指すのではありません。それは、「自分が書いたものは必ず重信が読んでいる」、という執筆者の「思い込み」を意味します。それはけっして重信の高圧的な権力によるものではありません。執筆者のひとりひとりが重信のことを、俳句の「思想」として尊敬していたからこそなのです。だから、重信の死をもって「(旧)俳句研究」が幕を引いたのは、ライバル誌「俳句」に負けたというよりも、運命とでもいうべき自然の流れに過ぎませんでした。重信の理念を受け継ごうとした「俳句空間」でしたが、重信に代わる俳句の「思想」を見出すことはついにできませんでした。それが重信という「思想」を失ったショックなのでしょうか。

 

俳句史的には、重信の死によって俳句の「前衛」も終わった、といえるでしょう。ポスト重信世代としては、「俳句空間」に集った「戦後生まれ作家」に先行する世代、つまり「戦前に生まれて戦後に活躍した作家」がいます。安井浩司や大岡頌司、そして河原枇杷男を代表とする世代です。彼等がとりわけ世代を代表する優れた資質を持っていたのは、重信の死によって「前衛」が死んだことを察知し、自らの俳句作品に、「前衛」以後の「思想」を模索したからです。作品として成功したかどうかはさておき、そうした思想的探求こそが、まずは同時代による評価を受けるべきだったと思います。

 

しかし、評価すべき立場にあったはずの「俳句空間」を改めて眺め返すに、ポスト重信ともいうべき先行世代の評価は、質量ともに貧弱です。もちろん「寺山修司特集」や安井・大岡の小特集はありましたが、その内容には失望せざるを得ません。自選句や年譜には確かに資料的価値はあるものの、肝心の評価はというと、評者の人選を含めてお友達頼みといわざるを得ず、「身内ネタ」を並べたような作家論には、辟易するしかありません。

 

重信の俳句理念を継承するという大義名分のもとに創刊された「俳句空間」も、「休刊記念号」をひとつの結果として捉えるならば、同世代(この場合は戦後生まれの作家を指します)の新人俳人を売り出すためのプロモーション雑誌といえます。前衛俳句の危機的状況を打破するという創刊理念(=理想)を具現化したかったなら、同世代の「進化」に目を向けるよりも、重信をはじめとした「先行世代」の「格づけ」を優先すべきでした。

 

「過去」の業績を評価することは、「未来」を作り出すための「進化」よりも地味な作業です。が、「未来」といい「進化」といい、「過去」の積み重ねのうえにしかあり得ません。現代文学は、「知」によって不可知を乗り越えようと、ひたすら知的に「進化」し続けてきました。俳句とて例外ではありませんでした。新興俳句をはじめとする現代俳句は、俳句から伝統という「因習」を切り捨て、残った文学的側面だけを「知」の灯りで照らし出すことで、自らの「進化」という「未来」への道を突き進もうとしたのです。

 

「進化」のためには「過去」を犠牲にすることもいとわない、といった風潮が、「知」の遊戯ともてはやされた、ポストモダニズムの時代を象徴していました。あれから20年近くが過ぎ、俳句に吹き付けた「新興」や「前衛」といった風も止んで、俳句は本来の「俳句」としかいいようのない、伝統に根ざした姿を取り戻しつつあります。俳句の伝統に忠実な若い世代の俳人が、俳句をその原理にまで遡って考えようとする評論をたびたび目にします。冒頭で紹介した大谷氏の「俳句は進化しない」も、そうした俳句の根源的思考の一端と捉えることができます。そのメッセージは多分に逆説的ですが、それは文字数の制約があるなかで、最大限に説得力を持たせるための手段に他なりません。たとえ短い小論でも、いや、小論だからこそ、原理をわかりやすく書くことで、なお一層の説得力を得るのです。

 

大谷氏の「俳句は進化しない」というメッセージは、俳句を根源的に考えるうえで、時代を超える価値を有する言葉として記憶するべきだと思います。が、記憶すればそれでいいわけではありません。そのメッセージの根底に潜む「進化」への執着を、戦後俳句史の一側面として検証する必要があります。俳句における戦後という「過去」の評価は、いまだ始まっているとはいえません。その評価は我々にこそ委ねられているのです(了)

今号の特集は「大特集:季語のギモンに答えます!」です。「季語」は、ビギナーかベテランかに関係なく、俳句を作るにあたって常に立ち返るべき原点です。また、無季にこだわって作句する俳人といえども、「季語」を知らなくていいはずがありません。無季の作品を数多く残した高柳重信ですが、その弟子のある俳人がこういっていました。「われわれ前衛派は、有季俳句よりも無季俳句を高く評価するが、無季俳句志向だからこそ、季語の知識は必要だ。なぜなら有季派よりも季語に精通していなければ、有季派相手に季語の議論をするのに際し、そもそものスタートラインに立てないからだ」と。つまり彼は、俳句の本質には「季語」があるだけで、有季も無季も無いと言いたかったのでしょう。本質を議論するためには、議論の相手が誰であろうと、「季語」を知らなければ始まらないのです。

 

特集記事のうち、「季語についての素朴なギモン」と題された、岸本尚毅氏の「季語論」を取り上げてみたいと思います。岸本氏については、昨年一年間に亘って連載していた「相互批評の試み」を、このコンテンツでもたびたび取り上げたので、プロフィールは省略しますが、その俳人像を大雑把にいえば、有季定型を基本に据えた俳句本質論者で、次代の俳句をリードするであろう中堅俳人です。

 

なによりも岸本氏のよいところは、発表してきた評論のほとんど全てが、読者に理解し易いように書かれている、ということに尽きます。誤解なきように付け加えますが、それは評論のテーマが理解し易いということではありません。たとえ難解なテーマでも、わかり易く書いているということです。

 

冒頭に、「季語について問うことは俳句の本質を考えることに帰着します。本稿ではまず実作に即したギモンに取り組み、その後、より本質的なギモンに取り組みます。」とあるように、岸本氏の季語に対する認識と、季語を考えるための方法は極めて明確です。文中の引用句は多くが虚子です。子規を継承して伝統的な俳句を貫いたイメージのある虚子ですが、季語の制約を無視した問題作が多いことに改めて驚かされます。それは虚子のテクストが、伝統という制約に縛られない自由によって普遍性を獲得している証でしょう。

 

俳句形式は、有季定型をはじめとした多くの制約に縛られていますが、同時に制約からの自由があったからこそ、長きに亘って存続してきたのです。岸本氏は、初学者にまず、俳句の自由を感じて欲しかったようです。それは「ギモン」に対する「コタエ」にも現れています。「季重なりは是か非か?」「「春の○○」「夏の○○」、これって季語?」「季語を一句のどこに置くか?」「即(つ)きすぎの句とは?この季語は「動かない」?」といった「素朴なギモン」に対する岸本氏の「コタエ」はというと、「句の出来さえよければ、「季重なり」も可と考えます。」「「春の○○」という言葉が句の中で生き生きと働き、春らしい気分を出していればそれでよいのです。」「仮に即きすぎだとしても、句がよければよいのです。」「己の直観を信じ、自由にのびのびと句を読むことが一番です。」と簡潔にして明瞭です。

 

もちろんこれだけでは、岸本氏はなんでもありの広い心を持った先生、で終わってしまいます。岸本氏の真骨頂は、ここからはじまる「本質論」です。その流れを追うと、「(俳句は)季において和歌の伝統に連なる十七音の極小の器である」という前提のもと、最初に、対象を正確に表現し得なかったり、自分の本心を相手に正しく伝え得なかったりする言葉を、「不完全なもの」であると定義します。そして「ただでさえ不完全な言葉を僅か十七音しか使えない俳句は、説明の道具として絶望的に不自由」と続けます。

 

しかし、言葉が不完全なのは、説明機能としての「道具的コミュニケーション」においてです。岸本氏が着目するのは、言葉のもうひとつの機能です。それが、感情表明を目的とする「自己充足的コミュニケーション」です。そして、「説明の道具として絶望的に不自由な俳句という形式が、配慮や共感だけ(背景を捨象した、純粋な呟きだけ)を表出する道具として意味を持つ」例として、虚子の「存問」を取り上げます。

 

「存問」とは「安否を問うこと」、要するに相手とのコミュニケーションです。岸本氏は、俳句という自己充足的な「呟き」を相手と共有する、つまりコミュニケーションするための共通基盤が季語である、と定義します。季語は、自己充足する「叙情」を、相手と共有するための、共通言語というわけです。季語によって、呟きにしか過ぎない俳句が、メッセージへと切り替わるのです。

 

さらに、「季語を伴った呟きとしての俳句は、ぎりぎりまで沈黙に接近します」として、虚子のキーワードである「沈黙の文芸」を掲げ、「季語は沈黙すれすれの呟きである俳句が最小限のメッセージであるための要です」と結論します。俳句の本質が呟きだとしたら、呟きが小さければ小さいほど良しとするのが日本的な美の感受性でしょう。そして、それは沈黙へ近付けば近付くほど、逆にメッセージとして理解できる限界を美と認識するのです。この僅かな隙間を軸とした反転にこそ、俳句形式の拠り所があるというわけでしょう。

 

俳句の本質論は、対象が不可知である以上、それだけで難解にならざるを得ないのですが、岸本氏は不可知な本質を、誰もが現象として知覚し得るように、虚子の句や、虚子の言葉や、虚子その人を引き合いに語ります。虚子を俳句的本質の一現象として、見えることだけを語るのです。そうした文章では、岸本尚毅という語り手は、背後に縮退して逆に見えません。繰り返すようですが、それは、「俳句空間」に書かれた多くの評論とは異なるスタンスです。それは、読売新聞に囲み記事を書いた大谷氏のスタンスと共通しています。岸本氏も大谷氏も、どちらも俳句の本質に届くためのスタンスを意識しています。

 

歯に衣着せぬ辛口の批評眼で、伝統の鎖に縛られた俳壇常識を切りまくる、というのが櫂未知子氏ならではの俳句批評と思っていましたが、今年から連載が始まった氏の「現代俳句時評」は、今回ですでに6回目を数えるにもかかわらず、辛口で切りまくるといった「怖さ」はいまだに見られません。

 

連載当初、いずれ爆発したときには必ず取り上げねばと思っていましたが、毎回期待を裏切られ、まだ一度も爆発していません。今回も不発ですが、どうして不発なのかは次回で説明しますので、前振りということで触れておきます。

 

「季語は誰が決めるのか」という題名から想像がつくとおり、このコンテンツでも以前取り上げたことのある「二十四節気見直し」をめぐる問題です。もともと中国から伝わった「二十四節気」が、日本の季節感とそぐわないから見直しましょうという提案を、「実態はあくまでも民間企業(本文より)」である日本気象協会が言い出し、俳壇内外で物議をかもしたのでした。

 

櫂氏は、気象庁と並ぶとイメージしていた日本気象協会なので、「その名称ゆえに、一般にもたらす影響は思いのほか大きい(同)」として、我が身を省みない人騒がせな協会に憤っていらっしゃいます。

 

当の協会が、ホームページ上で公募した「季節のことば」に、著作権を帰属させようとしているのを知って、「これまで広く使われてきた季語が私物化されたならば、とても困る事態になる(同)」と憂いているのです。

 

「季節のことば」と「季語」は、櫂氏のなかでは同格に扱われていますが、それは措くとして、氏は、「季語については、「これは共有財産」という暗黙の了解が常にあった。(中略)季語を自由に使えなくなる日が来るのか否か、そのことが、今とても怖い」と、季語への危機感で結んでいます。

 

櫂氏が憂えるように、百歩譲って誰かが季語の著作権を設けたとしても、季語が自由に使えなくはなりません。季語を使った俳句作品が、自由に発表できなくなるだけです。俳句を自由に作ることと、俳句を自由に発表することでは、どちらが俳句にとって重要か。

 

櫂氏はおそらく、自由に発表できなくなることを怖がっているのでしょうが、それは俳句にとって杞憂としかいいようがありません。発表よりも創作が、俳句にとって、いや俳句実作者にとって重要なのです。次回はこの重要性について考えたいと思います。(続)

釈照太