日本文学の古典中の古典、小説文学の不動の古典は紫式部の『源氏物語』。現在に至るまで欧米人による各種英訳が出版されているが、世界初の英訳は明治15年(1882年)刊の日本人・末松謙澄の手によるもの。欧米文化が怒濤のように流入していた時代に末松はどのような翻訳を行ったのか。気鋭の英文学者・星隆弘が、末松版『源氏物語』英訳の戻し訳によって当時の文化状況と日本文学と英語文化の差異に迫る!
by 金魚屋編集部
美し蝉(「空蝉」)
掛け合ってみたところでどうして皇子をお通しできようか、ならばいっそ出し抜けに、客が帰ったのを見計らってお連れしたほうがよいか。小君は歯切れのしない調子で、「いま暫く、客といっても姪のことです、すぐお暇するでしょうから」
「なに紀伊守の妹か。ならば尚更。帰られる前に挨拶をさせてもらおう」
「いけません」
「なにがいけない、会わせられないような女か」と切り返しながら、とうにどんな女かは存じているがと喉元まで出かかったのを言わぬが花と事と呑み込み「帰るのを待っているうちに夜も更ければ、会えるものも会えぬだろう」
この上は、と小君は意を決して姉の元へと引き返し、「暑うございますね――外の気を入れましょう」と声高に、部屋の簾を巻き上げて通り過ぎます。間もなく戻ってきたと思うと、今度は断りもなく源氏を連れて部屋に上がりました。衣被の女(小君の姉君)は、幼気にもとうにお諦めくださったものと思い込んでおりましたので、源氏を見るなりぎょっとして色を失いました。が、賓は賓、時宜して迎え入れます。妹君はというと(継母の胸の内は露知らず)源氏の君の御目に掛かれてこれ幸いという様子。さて、その妹君が余所見をした隙でございました、源氏の指先が伸びてきて恋し君の肩に触れるや、ぎくりとして跳ね起き、探し物を思い立った風を繕って部屋を飛び出して行ったのです、落とした衣被に気も留めず、宛ら蝉が柔らかな羽衣の如き抜け殻を残して飛び去ったかのようでした。あとに残された継子が源氏の君の話し相手となりました。無念至極、内心穏やかならずとも、それを色にも音にも悟られぬように努め、今しがた見惚れた妹君と言葉を交わします。やがていつもの馴れ馴れしい手つきが女をまさぐり始めると、その大胆さに妹君はたじろぐも、世慣れぬ若さが露となれば、色を知らぬ乙女気ゆえにかえって色づき、二人はもう止むに止まれぬのでした。

こんな人の縁というのは、今世の諸行の道理よりも根の深い宿縁の賜物、古来よりそう言い慣わすけれども。お慕いする、と言っても信じてはくれまいね、しかしこの言葉の真心を、どうか聞き棄て召さるな。まこと、儘ならぬのは憂き身よな、通いたくても通われぬこともある、その間はどうか忍んで、忘れないでおくれよ。
「まこと、口さがない世間がこわい、心通わす道などございましょうか」と返す妹君のいじらしいこと。
他人の手は借りたくないな、と源氏が答えます。「言伝なら小君に、それなら安心できよう」
源氏は立って帰り支度をしながら、目を盗んで落ちたままの衣被を懐にいれました。小君は控える間うたた寝しておりましたが、源氏に起こされて飛び起きると、すぐに主人を連れ出して、妻戸に差し掛かったときでした、思いも掛けずばったりと年老いた御達に出くわして、震え慄く声で叫ばれたのです――
「誰じゃ」
私だ、とすかさず小君が答えました。
「こんな夜更けにいかがされました」と老女が訝しむので、
「煩い。外に出るだけだ。何も障らん」と小君は貶むように突っぱねます。そして敷居に足を掛けた拍子に源氏を外へ押し出しますと、月明かりの落ちた廊下にすらりと伸びた影がひらりと舞いました。
どなたか、と人影に怯んだ老女は咎めましたが、答えを待つ間もなくぶつくさと「おや、まあ民部の。丈のあるわけじゃ」
どうやら家人の誰かと思い違いをしているらしい。丈夫な乙女もあったものです、家内の語り草になっていたとか。老女は小君のお供がわかって気を良くし、「若様の背丈もじきに追いつきますよ。そこまでご一緒しましょうね」と言って妻戸のほうへ足を向け、息を殺して身動ぎもせずに立ち尽くす源氏を民部の御達(にょうぼ)と思いこんで話しかけるのでした。「今夜は西の御方の介添かい。一昨日から具合が悪うてね、引っ込んでおったのだけれど、手が足らぬというから起き出してきたのさ。まったく」そう言って、やはり答えを待つことなく、おお痛い、痛いと呟きながら通り過ぎていきました。源氏と小君はついに屋敷を抜け出して、二条院に取って返しました。小君と今宵の顛末を振り返りながら、「ようく働いてくれた」と意地悪くねぎらい、恋心を袖にされたばかりか逃げられた恨みを頻りに爪弾きするのでした。小君は返す言葉もありません。源氏は声をひそめて、「軽んじられたものだ。落ちぶれたわけだ。もう伊予にも敵わぬ、あの果報者」そして間もなく床に就くとき、知らぬ間に握っていたのは、持ち帰ってきたあの衣被でした。小君を隣に残して置いたのは話し相手にするためでした。やがては見事に働いてくれよう、その見込みがあればこそ、ここはひとつ慰めようと、「働き者というのは真だよ、それだけにあの姉君の冷たさが君と私の友誼にも水を差す日が来なければいいが」
これにも小君は答えません。源氏は目を瞑ります、しかしどうにも寝付けませんので、結局身を起こして硯を取り、徒に筆を走らせて、綴りし歌のひとくさり――
ははきぎのかげにありて ひろいしせみのぬけがらに
いとおしきかげこそあらめ ふきつのるはこいのこがらし
書き上げてしまうとそれを放り捨て――はて、わざとでしょうか――源氏は肘枕をして横になります。小君はこっそり手を伸ばし、書を床から拾い上げてそっと懐に隠しました。間もなく源氏が寝息を立てはじめますと、小君もすぐにお供するのでした。
幾日か経ち、小君が姉のもとへ帰りますと、顔を合わすなり厳しい叱責が待っておりました。
「なんとか切り抜けたからいいものの、世間にどんな噂が立つか。差し出がましいにも程がある。当の皇子にさえ小童(こわっぱ)の猿知恵と嗤われるのがわからないの」
哀れなものです、源氏からは気が利かないと叱られて、姉からは差し出がましいと叱られて。なんとも気の毒な板挟み。しかし、そこまで言われたにも関わらず、小君は懐に隠し持っていた源氏の書をあえて差し出しました。これには姉も面食らいましたが、どこか読んでみたいという思いもあり、しばらくは手に持ったまま決めかねておりました。ついに意を決して目を通すと、たちまち失くした衣被が胸をよぎります、それから姉も筆を執り、源氏の歌の隣にこう書き添えたのでした――
ははきぎのかげによつゆをあみた ぬれそぼれたるひぐらしの
はねもかくやとおつるなみだは くやめどあまきときみこそしらじ
(第21回 「美し蝉(空蝉)」 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■


