妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
マキの言葉どおり「あと十分」でリッちゃんの母親が到着するなら、俺が実際に動けるのはきっと体感で五分ほど。こんな時に限って、時間の流れは早い。もちろん優先度一位は、タロット占いの中断とリッちゃんの避難だが、その為には状況の説明が必要だ。みんなの足並みが揃わなければ必ず失敗するだろう。ただ全員に向けて話すのは大変だから、まず先にタロット組から伝えよう。幸い、向こうの宴席は声量大きめにて談笑中。うん、我ながら落ち着いている。
「ちょっと失礼しますね」
タロットの最中に割り込んだせいで、二人の視線が冷たい。明らかに迷惑そうだ。本当に申し訳ない、と頭を下げてから状況を伝える。
「え、今から来るの?」
リッちゃんの露骨に嫌そうな態度のおかげで、チハルさんに説明する手間が省けた。
「とりあえず、二階に上がってようか?」
そんな提案に頷きつつも、タロットへの未練が表情、視線に溢れている。俺から仕切り直しを頼むより先に、助け舟を出したのはチハルさん。広げたカードを器用にまとめると「後でもう一度やってあげるから、ね?」と微笑んだ。うん、と笑顔が戻ったリッちゃんに永子も連れていくよう頼み、さて、お次はメインの宴席。
こういう場合、一番厄介な相手をいかに手懐けるかが肝。今、一番ダメそうなのは……と考えるまでもない。「夜想」のマスターが群を抜いて酔っ払っている。本来ストップをかけるはずのチハルさんが隣にいなかったのも大きな一因。俺は彼の後ろに立ち、「ちょっとすいません」と声を張った。一瞬静まったタイミングで身を乗り出し、何もしなくていいと伝える。
「結果から言うと、してもらうことはありません」
時間短縮のため、わざと司会者っぽくハキハキと敬語で話す。マスターの隣、つまり俺の斜め前にいるトミタさんが「ん?」と振り返るがスルー。そのまま話を続ける。
「もうすぐリッちゃんのお母さんが妹とここに来ます。色々あって、冬休み中はここで生活している娘を連れて帰るつもりです。リッちゃんは帰りたくない、というか会いたくないそうなので二階へ行きました」
何があったんだ? と振り向いたのはマスター。そうそう、予定はこんな風に狂っていく。それは後ほど、といなすと「あれ、お前はあの子の何になるんだ?」とまたトミタさんが振り返る。
「えっと、リッちゃんのお母さんの妹が、私の奥さんです。つまり私は叔父」。
「あ、なるほどな」
「で、叔父としては帰さない方が良いと判断しています。まあ、姉妹で色々話すと思うので皆さんは何もしなくて大丈夫。引き続きどうぞ飲んでいて下さい」
最後も司会者風に恭しく一礼してみせたが、当然拍手は起きなかった。その代わり、ではないだろうけどヤジマーが「ま、こういう時は大抵子どもの方が正しいもんだよなあ」と、どこまで本気か不明な一言。それを聞いて「うーん」と唸ったのはトミタさん。娘とのアレヤコレヤを思い出したのだろう。これこそ属性の違うグループ同士の「まぜるな危険」。本当はトミタさんに一言かけたかったが、そろそろリミットの五分になる。多少の心配はありつつも、みんな大人だから大丈夫と信じて二階へ上がった。
仕上げはマキへのLINE。階段の途中で立ち止まり「来客数が増えたこと」と「みんな状況は理解していること」、そして俺はリッちゃん、永子と一緒に二階へいることを伝える。さて、これからの時間をどう過ごせばいいかな、と考えながら階段を上りきった瞬間、店のドアが開く音がした。
期待、というか予想していたのはいつものリッちゃんの姿だった。突然二階へ移動することになった永子の頭を撫で、「何して遊ぼうか」と微笑んでいるんだろうな、なんて思っていた。俺は救いようもなく鈍い。致命的だ。
実際のリッちゃんはテーブルに突っ伏し、永子はその傍らで何を言うわけでもなく、きゅっと丸まった背中に小さな手を添えていた。物音に振り向き、俺と目が合っても「パパちゃん」と呼ぶことはなく、困ったような表情を崩さない。鈍い俺はかけるべき言葉を見つけられずに立ち尽くすばかり。見かねた我が娘は何度か肩で息をしてから口を開いた。
「わたし、ねむいかも」
「……」
「ちょっとだけ、ねるね」
「……うん」
横を通り過ぎる永子の頭を軽く撫でながら、「ちょっとだけ寝る」がマキの口癖だと気付いた。どうりで聞き覚えがあるわけだ。そして目の前には突っ伏したままのリッちゃん。これからの時間、俺は永子よりも役に立てるだろうか――。
とりあえず、斜向かいに腰を下ろす。幸い階下の音はほとんど聞こえない。階段を上りきったところにあるドアのおかげだ。元々あの場所には何もなく階段と廊下は地続きだった。ただ下の音が聞こえるのは落ち着かないと母親が言い出し、防音効果の高いドアを後から設置することに。「結構したんだぞ」と父親は渋い顔をしていたが、あのドアで正解だ。いや、少し静かすぎるかもしれない。俺は壁際のラジオに手を伸ばした。マキはよくボリュームを絞ってFMを聞いている。今ちょうど、それくらいの音が欲しい。
小さな音が流れ始めて数分、リッちゃんがゆっくりと顔を上げた。無論寝ていたとは思わない。今どうするべきか、そしてこれからどうするべきかを考えていたのだろう。
面倒だろうな、と思う。それは自発的に行うことだ。こんな風に追い込まれた挙句にやることではない。
「やっぱり……」
その後が続かないリッちゃんに力強く頷いてみせる。大丈夫、それが正解だからビビらなくていい。もちろん言いたくなければ黙ってていい。
「……やっぱり私、行かなきゃダメかな?」
そんなことはない、と首を横に振る。行きたくなければ、ここにいていい。
「もう迷惑かけちゃってるけど、これ以上はなるべくかけない。何なら警察に保護してもらうから」
胃の辺りにグッときたのは、その言葉選び、そして声の鋭さだけが理由ではないと思う。近い将来、永子とこんな風に対峙する日が来たら、と想像してしまった。そんな馬鹿な、と笑い飛ばせないところが辛い。
「リッちゃん」
「……」
「警察なんていらないから」
「……」
「うちにいればいい」
「……本当に?」
リッちゃんが嬉しそうに声を弾ませ、その弾みで涙が両方の頬を伝っていく。どうしてこの子が色々背負わなければならないんだ、畜生。
「本当、本当。でも別に保護するわけじゃない。普通に暮らすだけ。ただそれだけだよ」
「……うん」
少し赤らんだリッちゃんの鼻を見ながら、言い忘れたことはないかと考える。あった。今、真下にいるトミタさんの顔が浮かんで思い出した。
「あとさ、コロコロ変えていいんだからね」
「コロコロ?」
「うん。一度決めたことや口に出したこと、何なら約束したことだってコロコロ変えていいんだ」
えええ、と戸惑ったようにリッちゃんが笑う。多少の語弊はあるが、伝えたいことには違いない。あんなに上手くいかなかった娘と、仲良く京都旅行へ行くトミタさんのように、自分の都合でコロコロ変わればいい。下手くそな俺の言葉をどう受け取ったかは分からないが、リッちゃんは「ありがとう」と頭を下げて席を立った。
「ちょっと向こうで休んでるけど、別に寝ないからね」
「寝てもいいんだよ?」
「だってタロット……」
ああそうだった、と応えると「忘れないでよお」と寄ってきて右手を掲げる。俺も中腰になってハイタッチ。これでひとまず守りは整った。
リッちゃんの後ろ姿を見送り、中腰から思い切り背筋を伸ばす。俺もそれなりに緊張していたらしい。老人みたいなため息が出た。まあ正月からコレじゃしょうがないか、と再び椅子に腰を下ろしスマホを見据える。さて、階下の様子を知るには誰に連絡するのがいいだろう?
一番話が早いのはマキだが、現在姉を説得中かもしれないので除外。マスター、トミタさんは言わずもがなで、チハルさんに至ってはそもそも連絡先を知らない。で、ヤジマーは資質に問題アリなので、ここはやはりトダ頼みだ。今ってどんな感じ? とLINEを送る。返事はすぐに来た。
カオス笑
天国とも地獄とも読み取れるが、「笑」という文字に期待を込めて店内の状況確認を試みる。静かに防音ドアを開けて階段を下り始める。聞こえてきたのは楽し気な笑い声。どうやら天国のようだが、何がカオスなのだろう。
細心の注意を払いながら一歩一歩下り、ようやく店内へ帰還成功。カウンターの裏に身を潜めながら、聞こえてくる会話に聞き耳を立てる。
「そりゃねえ、私にも思春期はありましたけどね、ほら、男の思春期なんて分かりやすいでしょう?」
これはトミタさんだ。ノンアルコールでもこんな調子なんだな、と感心する。
「いや、本当そうですよ。僕なんて彼女が欲しい、どうにかしてモテたい、それだけでしたもん」
これはヤジマー。どこでも同じような酔い方だ。トダのヤツ、何がカオスなんだろう?
「その点、女性の思春期は複雑ですよ。自分の娘でよーく分かりましたよ。本当に複雑怪奇。ねえ奥さん、そう思いませんか?」
どうかなあ、と答えたのはマキの声。ン? となるとリッちゃんの母親は?
(第37回 了)
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*『オトコは遅々として』は毎月07日にアップされます。
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