妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
そして経験上、有効な対策が存在しないことも知っている。こういう場合、せいぜい「今を楽しむ」くらいが関の山だが、予感というのは実体がないだけに厄介だ。なかなか消え去ってくれない。もやもやと自由に頭の中を漂っている。
「え、リッちゃんも今日呼んでたの?」
なぜか椅子から立ち上がったままのトダに「実は家出中なんです」と微笑むリッちゃんは頼もしいが、百パーセント冗談ではない辺りが悩ましい。当然向けられる「マジかよ」という視線に俺は柔らかく頷いてみせた。詳しくは後ほど、だ。そこへ「おねえちゃん、おかえりー」と永子が駆け寄り、スマホをしまったヤジマーが落ち着きなく立ち上がる。いいから座っとけ、という俺の声は悪い意味で若々しかった。
たとえば塾の友達と学校の友達や、小学校からの友達と中学校からの友達のように、属性の違う人々が混じるのは昔から苦手だった。多かれ少なかれ、自分のキャラクターを属性によって切り替えているからだ。今だってそう。まあ「父」と「叔父」は大差ないが、そこに「学生時代の友人」が混ざると微かに調子が狂う。しかもここは自分のホーム、そして悪い予感が漂っているからフットワークは自然と重くなる。正月気分の脳味噌にはまあまあ難しい。
「じゃあそっちのテーブルをくっつけるからさ、お嬢さんたちはそこに座ってくれるかな?」
俺の鈍さに気付いたのかトダが場を回す。ヤジマーに指示を与えつつ、リッちゃんにそのヤジマーとの関係性を告げ、「そうそう、最近覚えたんだけど」とコインを使ったマジックを披露する。さすがマスター、永子も「すごーい」と興味津々だ。
俺は少しずつ場が落ち着いてきたのを見計らい、有線の音楽を流した。賑やかな方が気も紛れる。いつもならクラシックだが、今日は季節限定の「お正月用BGM」。意外にも素早く反応したのは永子だった。頭上をキョロキョロと見上げながら「えー、なんだろう、これー」と声を張る。ちょっと新しい情報が多すぎたかなと思った瞬間、店のドアがゆっくりと開いた。派手な蛍光色のキャップに白いベンチコートの大柄な男性がひとり。
「あ、すみません。今日は休みなんです」
謝りながら数歩踏み出し、それがトミタさんだと気付いた。馬鹿野郎、という通常の御挨拶の代わりに「あけましておめでとう」と頭を下げ、「すぐ帰るからよ、ちょっとだけいいか?」と声を潜める。
「それはいいんですけど、突然どうしたんです? 何かあったんですか?」
そんな俺の質問には答えず、「じゃあ車、駐めてくるから」と店を出るトミタさんを見送り、じっと成り行きを見守っていたトダたちに「よく行く飲み屋の常連さん」と紹介する。先日サンタさんとして三輪車を運んでくれたことを言わなかったのは、もちろん永子がいるからだ。まだサンタさんの存在を信じていてほしいし、何よりこれ以上は情報の過剰摂取になってしまう。
車だったら酒は飲めないだろう、とトミタさん用にコーヒーの準備をしておく。突然すぎる来訪も白いベンチコートもあの人らしいからそこまで驚いていないし、気まぐれでやって来たとも思えない。わざわざ来るに値する理由がきっとあるはずだ。
カウンターの向こうでは、普段並ばないメンツがテーブルを囲んでいて、ようやくヤジマーもペースを掴んだらしく永子に何やら絵を描いては披露している。
「あー、ねこさんだ。かわいい、かわいい」
あいつ、可愛いネコの絵なんて描けたんだっけ? 意外な一面だが、まあ知らなくても困らない。俺にも多分そんな一面はあって、その辺りはお互い様。言い出したらキリがない。
そう、ヒトは全てを晒せない生き物だ。晒しているけど気付かれない、というパターンもあるだろう。数年前のリッちゃんを持ち出すまでもない。自覚はないだろうけど、永子だって既に何かを隠している。
ドアが開く音に顔を上げると、マフラー姿の男女ふたりが立っていた。「今日は休みなんです」と告げるまでもない。「夜想」のマスターとパートナーのチハルさんだ。さすがにトミタさんのツレだと理解する。ちっとも驚かない俺の様子に「なんだ、すぐバレちゃったな」とマスターは不満そうだが、実はダメ押し気味の追加客に頭はパンク寸前。ふと振り返って永子の様子を窺うと、ぽかんと口を開けていた。
「すみません、新年早々いきなり」
チハルさんから一升瓶とハイネケンの半ダースパックを受け取ったタイミングで、トダとヤジマーが協力して新しくテーブルをくっつける。「いや、すぐ帰りますんで」と慌てるマスターの背中を押して座らせると、トミタさんが戻ってきた。
「あ、マスター、座っちゃったのかよ。挨拶したらすぐ帰るんだからさあ」
まあまあ、となだめつつどうにか席についてもらうと、俺を含めて計八名の輪。想定外の大漁だ。マキが帰ってきたら驚くに違いない。一旦とりあえず乾杯。マスターはビールが入ったグラスを手にしたが、チハルさんとトミタさんは遠慮したのでコーヒーを出した。聞けば初詣の帰りだという。
「いや、トミタさんが帰りに寄ろうっていうからさ」
「おお、そうなんだよ。ちょうどお参りしている時に良い報せっていうか、面白い連絡があったもんだからさ、まあ、こうしてお邪魔したわけです。すみませんね、皆さんお楽しみのところ」
いえいえ全然、と中腰で反応するヤジマーとトダを紹介してからトミタさんに改めて訊いてみる。
「で、その良い報せっていうのは……」
「おお、それな。ちょっと前にこの店内の写真を撮らせてもらったろ?」
無論覚えている。サンタとして永子に三輪車を届けてくれた夜、照明を変化させながら何枚も店内の写真を撮った。たしか「パッとひらめいた」と言っていたが、その件だろうか。
「実は知り合いのカメラマンから、雰囲気のある場所があったら教えてくれって頼まれててな、この間の写真を送ってやったんだよ。そしたらさっき、実際に見てみたいって連絡が来てさ」
おお、と永子以外のメンツから声が上がる。肝心の俺が一拍乗り遅れているのは、本日色々ありすぎて脳が処理しきれていないからだ。
「もちろん事情はあるだろうから、難しいなら遠慮なく断ってくれよ? でも、悪い話じゃないと思うんだ」
「?」
実は、と教えてくれたその女性カメラマンの名前には誰一人ピンと来なかったが、写真集のモデルとなったタレントの名前にはトダとリッちゃんが反応した。
「まあ人気のカメラマンだからさ、お店の知名度アップには貢献できると思うよ。で、嫌なら断ってくれ。な?」
正月から縁起がいいなあ、とはしゃぐヤジマーにみんなも乗った。改めて乾杯。「もしかしたらさ、一気にバズって行列ができるんじゃないの?」とマスターもビールを一気に飲み干す。
ありがたい話だ。俺としても異論はない。ただ形式上、正式決定は両親に話を通してからになる。そう告げるとトミタさんは「おお、前もって相談もせずに悪かったな」と頭を下げた。
オレンジジュースのストローをいじりながら、リッちゃんが永子に「毎日毎日、お客さんがいっぱい来るようになったらどうする?」と尋ねる。みんなが注目する中、我が娘は口をぽかんと開けたままイヤイヤと首を横に振った。
すぐに帰ると言ってはいたが、リッちゃんが率先してつまみを取り分けたり、マスターが「じゃ、遠慮なく」と真っ先に箸を伸ばした結果、なんとなくトミタさん御一行も落ち着いてきている。気付けばトダたちが来てからそろそろ二時間。ヤジマーに目線で時間は大丈夫かと確認すると、下手くそなウインクを返された。
立ち上がりエアコンを一度下げる。少し暑い。トミタさんもベンチコートを脱ぎ、パーカーのジッパーを下ろしている。
それにしても不思議な眺めだ。永子はすっかりトダに懐いて、飽きずにコインマジックを見つめては何度も驚いている。マスターがビールを飲み進める隣で、チハルさんはリッちゃんと何やら話し込み、そのうち二人して別のテーブルへと移動した。思わず注視する。チハルさんがポケットから取り出したのは――タロットカードだ。意外と当たるとマスターは言っていたが、俺はあまりピンとこなかった。リッちゃんくらいの年齢なら占ってほしいことが山のようにあるような気がする。まあ、家出中の身としてはまずその辺りからかもしれないが、初対面の人にどこまで打ち明けるのかは分からない。
「え、太秦ですか!」
一段声が大きくなったのはヤジマー。そういえば、そろそろトミタさんが娘を連れて旅立つ頃だ。あの調子だとヤジマーのヤツ、奈良に単身赴任中だとすぐに打ち明けるだろう。
思いがけず雑多なメンツが揃ったが、こんな感じなら悪くない。エアコンのリモコンを置き、輪の中へ戻ろうとした瞬間、ポケットに振動を感じた。長い。電話だ。見ればマキから。嫌な予感が浮かぶのと同時に「もしもし」と出る。
「あ、やっと出た」
「お、悪い。色々あってな」
「うん、こっちも色々よ」
息の弾み方から歩きながらの通話だと分かる。刺激しないよう、何食わぬ様子で「そろそろ帰ってくる?」と訊いてみた。
「いや、帰るは帰るけど、お姉ちゃんも一緒」
え、という声をどうにか呑み込む。幸い、みんなには気付かれなかった。新たに二人追加すると、店内の人口は二桁に跳ね上がる。
「それってさ、状況あまり良くないよなあ?」
「まあ紆余曲折の結果っていうの? ちょっとワイン飲んだのがまずかったかも」
「酔ってんのか?」
「お互いそこそこね」
「で、どれくらいで着く感じ?」
リッちゃんは真剣な顔で、チハルさんがかき混ぜるタロットカードを覗き込んでいる。ちゃんと最後まで占ってもらえればいいが、マキの答えは「あと十分くらいかなあ」と微妙なところ。今、数歩前をリッちゃんの母親が歩いているらしい。
「それは止めても無駄ってこと?」
「うん、さっきまで何度も止めたけどダメ。やっぱり連れて帰るってきかないのよ」
俺の頭に浮かんだのは「避難」の二文字。逃げ切れるとは思っていないが、不意打ちに屈するのは馬鹿らしい。
「まあ、何とか頑張ってみるよ」
口をついて出たのはずいぶんと楽天的な言葉だったが、根拠が無いわけではない。目の前の雑多なメンツを見ていると、不思議とうまくいきそうに思える。もちろん余裕はなく、文字通りの手一杯。今はただ、コケモモの一件が活性化しないことを祈るだけだ。
(第36回 了)
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