母親の様子がおかしい。これがいわゆる認知症というやつなのか。母親だけじゃない、父親も年老いた。若い頃のキツイ物言いがさらに先鋭化している。崩れそうな積木のような危うさ。それを支えるのは還暦近いオレしかいない・・・。「津久井やまゆり園」事件を論じた『アブラハムの末裔』で金魚屋新人賞を受賞した作家による苦しくも切ない介護小説。
by 金魚屋編集部
二十一.
三月の入院時と比べたら、この四か月のあいだに何と変わり果ててしまったやら。でも考えてみれば、変わったのは本人よりむしろ取り巻く環境の方かもしれない。ぼくという家族が昼も夜も二十四時間つき添うようになった。それまで夜間はコールがないかぎり看護師やヘルパーが看に訪れることもなく、朝になって粛々と下の処理がされていた。それを家族であるぼくは見過ごすことができず、過剰反応しているだけだともいえる。放っておいたら本人もベッドもオシッコまみれになるじゃないかと憤るのは、ぼく一人だけだ。もっとも本人だって下半身丸出し、グショグショで気持ち悪くてたまらないだろう。けれど朝晩ヘルパーが来て身体を拭き、オムツも衣服も取り替えてくれる。それまで放っておいたところで死ぬわけでもない。本人の好きなようにさせてやればいいじゃないか。その考えを排除したわけではない。じっさい高齢者の多いこの界隈ではフローリングの部屋に防水マットを敷きつめ、臭いが漏れないよう窓もドアも二重にして、騒ごうが大小垂れ流しだろうがどうぞお好きに、というお宅もあるんですってよ、ここだけの話ですけど。某ヘルパーがぼくにそう言った。
目の前の父親を、以前の父親との連続性から見てしまうから、ああこんなになってと嘆き、怒りをぶつけてしまう。そうではなく、これまでの「ハギノ ヒデトシ」というぼくの父親だった人物は消滅し、それに代わって、外見はそっくりだがまったく人格の異なる〝NEW HIDETOSHI〟という存在が出現したのだ。その事態にぼくがまだ追いついていないという、それだけのことではないか。裏を返せば、在宅介護とはどういうものか知らずに受け容れてしまったというマヌケな話である。
こうなってしまうまでズルズルと放置し過ぎた。事実、入院が長引くことに懸念を抱く看護師だっていたのだ。必要以上にベッドで拘束し続ければ誰だって認知機能が衰える。引き取るならさっさと家に引き取る。できないなら施設へ入れる。早いうちに判断し対処していればこうまでボケが進行することもなかったかもしれない。もっと先々の、終活まで視野に入れた施設の選択だってできたろう。たらればの話をするつもりも、他人のせいにするつもりもないが、医療は治療だけが目的ではないはずだ。この数か月ものあいだ何の治療をしていたのか。リハビリより家族の意思決定支援のほうが先だったのじゃないか。それもこれも遅すぎた。いまの父親についていけないじぶんをどうしようもない。ああまるでゾンビだ。そう思う自身をなだめることができない。
深夜ぼくの横でゴソゴソゴソ、ギシギシギシと音をたてて懸垂をはじめる。あーゾンビが目覚めたァ。嫌悪感と絶望感でいっぱいになる。なのに、その様子をみていて思わずプッとふき出したくなるのはなぜだろう。眠れないまま朝を迎え、ヘルパーに応対してひととおり家事を終えるころには看護師や医師が入れ替わり訪れ、バタバタと応対しているうちに日が暮れる。父親を除けば誰にでも愛想よくふるまっているぼくだが、そのじつ身も心も暴発寸前だった。いやとっくに暴発していたか。
ヘルパーたちに相談すると、オムツが外れにくいよう工夫してくれ、さらにヘルパー間で共有してくれた。まず尿洩れパッドを二枚用意し、
①一枚は穴を開け陰部を通して巻きつける。
②もう一枚は小水の受け皿になるよう包んで重ねる。その上に、
③ふんどしタイプのテープ式オムツをはめる。さらにそれがズレないよう、
④パンツ型の、いわゆるリハパンをはき、最後に、
⑤パジャマのズボンをはく。
少々蒸れたってガマンしてもらうしかない。
オムツを巻くためにヘルパーが性器をゴム手袋の上から淡々と摘まむ様子を眺めていて、父親のモノがなかなか立派なのに気づく。いわゆる雁高、堂々たるイチモツがむき出しになっているではないか。短小包茎のオレより身長も体型も小柄なのにどうなってんだ。まさか八十七にもなって勃ったりはしないだろうな。ふん、エレクチオン状態で比べなきゃホントの勝負にはなるまいよ。そんな内心の声を聴き流そうと思っても、嫉妬と敗北感がボディーブローのようにぼくを打ちのめすのをどうしようもない。
そんなこともあってか、今夜もまたベッドの上でいけしゃあしゃあとズボンを脱ぎオムツを外す父親の姿に、すっかり掛け金が外れてしまったぼくは、近隣四方へひびきわたるような声で絶叫した。怒ったのではない。絶叫である。
「このクソがあー。ズボン脱ぐんじゃねェって言ってんだろォーっ」
「何もしてないじゃないか。ひとりで何をわめいているんだ」
「そうやってベッドの上で〇ン〇ン出してオシッコしてんだよォ。何度も何度もな。オレは見てんだよお」
「だから何だ」
「犬や猫でもそんなこたァしねェ。あんたそれで人間かあー」
渋面を作りながら黙って目を閉じる父親。
しかしその後こちらが疲れ切って眠りこけたかと思うまもなく、ハッと気づいて見たらまたズボンを脱いでいる。夜中じゅうゴソゴソギシギシとリズミカルな異音が鳴り続いていたのだけはおぼろげに記憶している。もはやこの男との関係がどうなろうとかまいはしない。いやすでに破綻している。だがなあ、相手が誰であろうと妥協してはならない一線ってもんがあるのだよ。いくら頭の壊れた老いぼれだろうが、わからないとは言わせないぜ。なるほど壊れているのはオレの方かもしれない。でもこのさいどっちだっていい。この一線だけが大事なんだ。この一線がヒトであるためのボーダーラインなんだ。
そうでなくたってこの爺さん、相手を見て態度をコロコロ変えるようなひとだ。ウチの訪問医はまだ若い女性だが、初診のさいは向こうが挨拶してもフンという感じでロクに口もきかなかったくせに、医師だとわかったとたんヘイコラと丁寧な口調になる。それがヘルパーだといきなり横柄になって言うことを聞きもしない。じぶんに都合の良いときはワガママ放題、旗色が悪くなったとみればボケたり腰が低くなったり、上手く演じ分けているのだ。おまけにめっぽう臆病ときた。食事だよと言ってヘルパーやぼくがベッドから降ろし車イスへ乗せようとするだけで「イヤだよ、あぶないっ」怖がってタラタラ文句をたれる。相手がじぶんの息子となればこれはもう傍若無人と言うほかない。週に一度、ヘルパーが専用のイスに乗せて浴室へ連れて行き、シャワーを浴びせてくれるのだが、一昨日なんて風呂上りに冷たいお茶が飲みたいだろうとそれなりに気づかって、ほうじ茶にトロ味をつけラップしてコップごと冷蔵庫で冷やしておいた。それを手にするなり、
「チメたーい。かじかむわ、こんなモノっ」
机ごしにこちらへ突き返すと、勢いあまってコップはひっくり返ってしまった。脳の血管にブチブチと穴が開きそうだった。
その晩も次の晩も夜通しゴソゴソやっている。まんじりともせずぼくは目視し続ける。ぼくの姿を認めるなりズボンを脱ぐ手を止めるのは、多少は学習したせいか。大の大人が毎夜ベッドでオシッコをするだのしないだのと睡眠時間を削って朝までつばぜり合いを続けるなんて、何とまあお下品な諍いだろう。横に目をやると、常夜灯の薄明かりの中から亡母の遺影が宙に浮き上がるようにせり出して、ゾンビ野郎とバカ息子に微笑んでいる。
二十二.
翌朝、ヘルパーが来る前に食事の用意を終えておこうと思った矢先だった。目を離したのはわずか五分ほどにすぎない。寝室の方をチラッと見たら、いままさにオムツを脱ぎ捨てようとしている父親の姿が目に飛び込んで来た。
「何オムツ脱いでんだよォ」
開き直ったか、その手を止めようともしない。
「やめろってんだお前ェーっ。こんなとこでオシッコなんかしやがって。あんた畜生より劣るんだよォ。それでも人間かあー」
TVニュースでやるどこかの大声コンテストの出場者みたいに、喉を涸らして幾度も幾度も絶叫した。
許せなかったのは、ぼくが目を離したスキを狙ってそそくさと実行におよぶその小狡さである。ほどなくしてヘルパーがやって来て看てくれたが時すでに遅し、ベッドはオシッコにまみれていた。この野郎、とことんイビリ殺したろうか。
暗澹とした一日が過ぎ、翌朝、ヤツの状態はどうかと覗き込んだら、ぼくに向かって突然、当の相手が話しかけてきた。
「オレはそんな情けない、破廉恥なことをしているのか」
「……おぼえてないのか」
「だとしたら、オレは男としてどうしようもないな。生きている資格はないな」
まともな会話ができたのは――このひとが正気に戻ったのは――どれだけぶりだろう。つのりにつのった怒りと憎しみがこのとき一瞬にして化学変化を起こしたようだった。それらは粒々となって砕け、かなしみの靄となってただよったと思ったら、部屋の澱んだ空気のなかへ吸い込まれていった。
「それでも一所懸命生きてるから、オレだって最後までオヤジにつき合おうって決めたんだよ」
「つき合ってもらわんでもいい」
けれどちょっと経てばこんな会話をしたこと自体忘れてしまうのだ。その夜もオムツを脱ぐその手をがっしと止めるぼくに、
「何をするんだ」
「オシッコするんだろ。ここで」
「オレは何もしてないじゃないか」
毎晩これではきりがない。ぼくはつかつかと母の遺影の前に進み、線香を上げると、鐘をチーンと強く打ち鳴らし手を合わせ、聞こえよがしに「お袋ォ」と声を張り上げた。遺影は今日も部屋の上座から、父親とぼくを見守っている。ベッドへ横たわっていても、見ようと思って首を曲げれば容易に見える位置にそれはある。鳩居堂独特の線香の匂いがたちまち部屋中に充満する。
「お袋ォ。何とかしてくれよ。あんたの夫だろ。黙って見てる場合じゃねエぞ。このままじゃオヤジとオレと、二人で心中するっきゃないぜ。なあお袋」
父親は無言で眠っている。あるいは眠ったフリをしている。
次の日の夜のことである。
亡母が見かねてぼくの訴えを聞き入れてくれたのか、一人のヘルパーが助けの手を差し伸べてくれた。事情を聞いてひらめいたらしい彼女は、「この家に裁縫箱はありますか」と訊く。それなら亡母が若い頃から、六〇年以上使い続けていた古いセルロイドの裁縫箱があったな、と戸棚から持ち出して来て渡すと「これこれ」と言って中から安全ピンを取り出し、父親がいつも着ている上の肌着とパジャマのズボンとをそれで三か所留めた。これなら本人が引き下げようとしても容易には脱げない。前夜も完徹だったぼくは、長谷さんというヘルパーの機転のおかげでこの夜ついに、父親が帰宅して以来はじめて丸々五時間ぶっ通しで眠ることができたのだった。
ところが考えてみたら、ピンを外そうといじくり回されたらかえって危ない。そもそもぼくはそのような行為つまり、下半身丸出しになってベッドの上で平然と小便を垂れ流す行為自体が許せないので、けっきょく翌日は朝まで見張ることになってしまった。これで何度目の徹夜だろう。そんなこちらの忖度など気にも留めない父親は、ズボンを下ろそうと安全ピンに手をかける。夜中の一時頃だったろうか。
「おいやめろよ」
手をつかんで制すると、
「親に向かって何だっ」
「何だとは何だあ。親だから何だってんだ。親だからやめろって言ってんだよお。わかんねえなら親なんてやめちまえこのボケーっ」
全身からありったけの声をふり絞ると、裂帛の気魄、四方一帯を壊滅し尽くさずば気が済まぬとばかりに絶叫した。興奮のあまり両の拳がブルブルと震えるのがわかった。そんなじぶんにはじめて恐れをおぼえた。父親は黙った。
翌日の夕方、ヘルパーが来る直前、またしても目を離した隙にズボンを下ろし、オムツを半分外した状態で寝ている。ぼくが戻って来たと思って手を止めたか。
「こいつ、性懲りもなくまたやりやがった」
こっぴどく怒ると、父親はこんなガキに負けておれるかとばかり、ちょうど訪れたヘルパーの呼びかけにも応えず、起こそうとするとぶちキレてその手を振りほどく。
「お父さん、起きないの」とヘルパー。
「うるさい。イヤだ」
「もうそろそろ起きましょうよぉ」肩に頭を入れて持ち上げようとする。
「何するんだこのアマがあ」
「息子さんがおいしいご飯を用意してくれてますよ。さあ食堂まで行きましょ」
「メシなんて食いたくないっ」
「Bさん、もういいですよ。イヤだって言ってるんだから放っときましょ。その代わりなあ」父親の方を向いて、「あとで腹減ったって何もやらねえからな。こうしてみんなに迷惑をかけても平気なひとなんだからな。もういいッ。放っとこう」
言い捨てて、さっさと台所へ退いた。するとBさんは会社に電話しはじめた。応援を頼んでいるらしい。まもなくやって来たのは父親とぼくを合わせても足りないほど容積がありそうな大男だった。在宅介護のひとたちのなかには、暴れて手がつけられないひと、車イスへの移乗が困難なひと、家族が足腰を痛めたり、介護うつになってサポートできなくなったひと等々、諸事情を抱えた家がすくなくない。腕力のあるコワモテ男性ヘルパーを抱え、SOSに備えるヘルパー会社もある。先日の階段駆け上り事件以来ケアマネが慮り、あらたなヘルパー会社を戦力補強として加えたのだった。
大男が声をかけると、父親は不機嫌そうに起き上がった。ベッドから車イスに移乗させるというまどろっこしい手段でなく、父親の太腿よりあるだろうその両腕で軽々と脇を抱え上げ床に立たせた男は「さあ行きますよ。歩いて下さいね」と上から吊り下げるように支えながら半強制的に廊下を歩かせ、ダイニングまで連れて行ってヒョイと座らせてしまった。渋面を作りながらもされるがままの父親。こんな芸当が出来る人物には、その後も会ったことがない。元プロレスラーか相撲取りか、玄人の匂いをぷんぷんさせている円筒形の巨体に似つかわしくない気の優しそうな童顔である。しかも店長だという。大男はそこまでで帰って行ったが、ぼくはすぐケアマネに電話すると、わかるけどこんな力づくのやり方は好きじゃない、だいたいSOSコールするのはヘルパーじゃなくてオレだろ。誰がオーナーなんだと当のヘルパーの前で聴こえるように文句をつけた。Bさんはムッとして帰っていき、二度と来なかった。
その翌日だった。食べたモノが気管へ入ったらしい。
熱が三八度を超えていた。誤嚥性肺炎だという。
まもなく医師と看護師が来て、オキシパルスメーターを指に挟んだり、血圧を計ったりしている。熱以外に異常はなさそうだ。カテーテルを鼻から突っ込んで吸引する。
「あぎゃーっ」
と悲鳴を上げるが、終わると安心したのかガーガーゴーゴーと壊れたスピーカーのような鼾を立てて眠っている。
さいわい次の日は熱も下がり、予定通りデイサービスへ送り出した。もし行けなかったらテメエ殺したろか。心の中で叫んでいたぼくは、迎えに来たワンボックスカーを門前で見送るとその場にしゃがみ込んでふうと息をついた。
(第08回 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
*『春の墓標』は23日にアップされます。
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■