妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
クリスマスの朝、プレゼントを見つけた永子の姿は可愛かった。まず起きてからいつものように上体を起こして何度か目をこすると、思い出したように枕元を確認。何も見当たらないので、一旦元の位置に戻り再び目をこすっている最中、足元の大きなプレゼントを発見。「わ、わ、わ」と目をまん丸にして驚くその姿、その一部始終を俺は遠巻きにスマホで録画し、仕事で早めに家を出たマキへ送信した。
「ねえ、パパちゃん」
「ん?」
「サンタさん、みた?」
「ううん、眠った後に来たんじゃないかな」
「そうなの?」
「うん、見てないからね」
そんなやり取りの後、一緒にプレゼントを確認した。包み紙を剥がしながら、自分で用意したくせに一緒になってドキドキしてしまう。「わー」と何度も声を上げ、「わー」と何度も三輪車にタッチする永子に提案してみた。
「じゃあさ、ご飯食べたら乗ってみようか」
「うん、のりたい!」
サドルに手押し棒が付いているので、危ない目には遭わないだろうけど、それでもやはり心配で外に出る前に一度、店内で試しに乗せてみた。無言で一心不乱にペダルを漕ぐ小さな背中もマキに見せてやりたかったが、手押し棒を持っているので見送り。思ったよりも舵取りは簡単で、サポートがなくても大丈夫そうだったが、念のため装着した状態で店の外へも出てみる。
「パパちゃん……」不安な表情で永子が振り向く。
「どうした?」
「ちょっと、さむいね」
それもそのはず。父娘とも初運転に熱中するあまり、パジャマ姿のままだった。
ただ人生は何が起こるか分からない。昼前に来た両親から直接手渡されたクリスマスプレゼント、赤いおもちゃのピアノを永子はいたく気に入り、「ランチタイムは三輪車で出かけてみよう」というパパちゃんとの約束は延期となってしまった。」
デタラメなピアノの音が微かに聞こえる二階を指差しながら、父親に尋ねてみる。
「あれ、どっちのアイデア?」
「というか、お前覚えてないか? 昔、ああいうのが家にあっただろう?」
言われてみれば薄っすらと記憶がある。あれは小学校に上がる前だろうか、こんな機会でもなければ一生思い出さなかったレベルだ。父親曰く、姉の誕生日にプレゼントしたことがあるという。
「お前もいじってて、そんな写真があったはずだけどな」
「いや、覚えてないな」
どうやら母親は小さい頃にピアノを習いたかったらしく、その強い想いが娘のみならず孫にまで波及しているとのこと。ちなみに姉は二、三週間で飽きたらしい。どうりで記憶が薄いはずだ。さて永子はどうだろうか。
前日同様早めに帰宅したマキに顛末を報告すると「ピアノかあ」と苦笑していた。「一、二ヶ月経っても飽きなかったら、習わせてみなさいよ」という母親の言葉は心に留めておく。この辺りのさじ加減は三輪車の手押し棒より難しい。
「そういえばさ、あれどうしたの?」
永子を寝かしつけた後、マキが尋ねたのは永子サンタからのプレゼント。ピアノショックのこともあり、すっかり忘れていた。入れっぱなしになっていた俺のバッグから取り出したのは、百均ストアでチョイスしたプラ製のじょうご。店内では敢えて何も言わず、「うーんとね、これがいいかなあ」と選んだ永子の直感を尊重した結果だ。
「あの子、芸術的っていうか、ちょっと変なセンスがあるのかしらね」
じょうごを手のひらに乗せて呟くマキの顔は、案外嬉しそうだった。
翌日、昼過ぎにリッちゃんが来ることはもちろん覚えていた。中学の終業式から直接来て、そのまま冬休みが終わるまで泊まる予定になっている。なので、店のドアが開いて制服姿のリッちゃんが入ってきた時には、カウンターの中から軽く手を挙げて応じたが、続けて母親、つまりマキの姉が入ってきたのは予想外で分かりやすく慌ててしまった。父親不在に加えて店は八割の入りで忙しかったので、とりあえず空いている席で待ってもらうことに。十分経ってようやく母親が対応できた。
遠目に見るリッちゃんの表情はどことなくふてくされていて、初めて分かり合える部分を見つけたような気がした。ザッツ反抗期。なんであんたまで一緒に来るのよ、という感じだろうか。この状況では俺もあんな顔になるはず。
お土産らしき手提げ袋を片手に、席から戻った母親が「ほら、あんたも行ってきなさいよ」と声を潜める。確かにリッちゃんをあのままにしておくのも可哀想なので、ナポリタンの調理を代わってもらい早足で親子が待つ席に向かった。
お忙しい時間帯にごめんなさい、と立ち上がる彼女を「いえいえ」と制止しつつ自分も席に着く。微妙な表情のリッちゃんに「悪いけど、ドリンク二つ、自分で作って持ってきてくれる?」と頼んだ。早く終わらせるからな、という思いを込めたけれど、うまく伝わっただろうか。
「この度は本当にすみません。お忙しい時期にあの子がわがままを言いまして」
「いえ、あんな感じで手伝ってもらえるので助かります」
この人と会うのは何年ぶりだろう。マキと似ていないのは再確認した。顔の造りはどことなくあの怖い義父のテイストがあるように思える。
「ええと、細かなことはマキの方に色々とお願いしているので……」
「はい。ちょいちょい聞いてはいます」
こんな時、一般的にはどんなことを話すのだろう。まったく思いつかない。せめて永子がいれば話題になるが、あいにく二階でお昼寝中だ。
「あの、永子ちゃんは……」
向こうから振ってくれたので助かった。リッちゃんによく懐いていることを伝え、本当に来てくれるのは有り難いということを強調する。
今回、こうなったことの要因について話さないところを見ると、俺が事情を把握しているのはお見通しのようだ。そうとなれば、尚更話題はない。俺はリッちゃんが戻ってきたタイミングで「ごゆっくりしてくださいね」と仕事に戻った。
結局彼女が帰ったのは十五分後。向こうも向こうで気まずいとは思うが、経緯を考えると素直に同情はできない。深く頭を下げる彼女に負けないくらい腰を折りながら、本当はパスするはずだった「夜想」の忘年会に顔を出そうと決めていた。
予定は明日の夜。あまり大きな声では言えないが、誰かに愚痴りたい気分だ。
「忘年会」と銘打っているが、別に特別な催し物やメニューがある訳ではなく、実際は年末の忙しい時期に堂々と酒を飲む口実、というのが毎年の「夜想」のパターン。「どの店も同じようなもんだろ」と例年同様開き直ったマスターに、「最近来れなくて悪いな」とビールを一杯奢る。これは堂々と飲んでいる時にありがちな謎のゆとり。ひとつ付け加えるなら、俺のように出席率の悪いヤツが、御無沙汰している他の客と会えるのは忘年会のメリットだと思う。とはいえ、今のところ店内に久々の顔はなく、何なら俺が一番レアな客だ。
「で、喫茶店の調子はどうよ。儲かりまっか?」
ぼちぼちでんな、と答えたものの売り上げ自体は去年より少し悪い。ただマキが色々と調べて支出を抑えているので、結果としては「ぼちぼち」。本音を言えば、毎月決まった月給を貰う方が性に合ってはいる。どうやら根っからのサラリー体質らしい。
「そのうちドンと儲かる時が来るからさ」
「マジかよ。やっぱりそんな時期、あった?」
まだだな、と笑うマスターにビールをもう一杯。そうこうしているうちに、御無沙汰の連中も集まり始めた。挨拶もそこそこに俺は昨日の愚痴、リッちゃんの母親へのモヤモヤを聞いてもらう。はっきり善悪が決まる話ではないので、ああでもないこうでもないの連続。酒の席の話題としては抜群だった。そして徐々に「親とはいっても人間だからねえ」としみじみ。
「お前だって叩けばホコリが出るんだろ?」
最後はいつの間にか現れたトミタさんに、そう指摘されてしまった。
ハイ、とは答えなかったがまさに図星だ。図星だからこそ、イブの夜からずっと目を背けてきた。ヤジマーから放り込まれたコケモモのインスタグラム。俺はまだ見ていない。苔桃、の二文字がちらついても無視。今は興味より恐怖が勝っている。
途切れ途切れの近況報告ならまだしも、リアルタイムの日常、しかも写真付き、下手すれば動画付きなんて重すぎる。俺のチャチなキャパなんて簡単に容量オーバーしてしまうだろう。だから見ていない。
まずは大晦日の前日に行う「余り者」たちの忘年会で、ヤジマーから直接話を聞いてみようと思っている。
毎年年内のラスト営業は二十九日。昼まで営業して、午後は大掃除。次の日は二階の大掃除をして大晦日を迎える。そんな暮れの気忙しさのせいか、日常にリッちゃんが馴染むのも早く、永子のお姉さん兼学生バイトさんとして頑張ってくれている。
時折、ぼんやりとスマホを見つめていることがあるので、マキに「大丈夫かな。まさか変なサイトにはアクセスしていないと思うけど……」と告げ「心配しすぎ」と笑われた。
「大丈夫、あれはマンガ読んでるだけよ。姪っ子にそんなんじゃ、永子の時はもっと大変ね」
反論の余地はない。確実に世の中は便利になっていく。今だって娘の愛くるしい姿を録画してすぐに送れるし、インスタで別れた恋人の日常にもタッチできる。その気になれば指先の操作で直接やり取りをすることも可能だ。面倒だな、と思う。便利だが面倒だ。リッちゃんの母親が、インスタに年下の恋人とのアレコレをアップしていたら、と想像して気分が悪くなった。俺も身に覚えがあるだけ面倒だ。
(第31回 了)
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