妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
その日はランチタイムになっても客足が伸びず、「まあ、こんな日もあるよ」と父親は二時過ぎに帰り、その二時間後に「たまには映画でも観ようかしら」と母親も早めにあがった。内心「満席になったらワンオペじゃキツいよな」とぼやきつつ、その時はこの子の愛嬌になんとかしてもらおうと永子の頭を撫でる。本日マキはパン屋勤め、これからクローズまで二人きりだ。
「パパちゃん」
「ん?」
「きょうは、ひまねえ」
一番大きなテーブルで親子水入らず。こんな瞬間の充足感は何ものにも代え難い。
「でもさ、いきなり沢山のお客さん、来るかもよ。そしたらどうする?」
「えー、たくさん? たくさんってどれくらい?」
うーん百人くらいかな、と言いかけた瞬間、店のドアが乱暴に開きリッちゃんが入ってきた、というか飛び込んできた。思わず口をついて出たのは「いらっしゃい」ではなく「大丈夫?」。立ち上がった俺の太腿辺りに永子がしがみつく。
「……ごめんなさい」
向こうは向こうで俺の声に驚いたらしく、肩をすくめたまま謝った。ううん、と永子の小さな手に手を重ねながら微笑んでみる。とりあえず二人とも落ち着かせなくては。
「全然大丈夫。ちょっとこっち来て座らない?」
「……はい。でも……」
外の様子を気にしているのが分かったから、「いいから来て」と強めに手招きをする。もしかして誰かに追われているのだろうか。正直なところ腕っぷしに自信はないが、何かあったら人目を気にせず大声を出そう。「大丈夫だからね」と永子の頭を撫で、リッちゃんと場所を入れ替わる。すれ違いざま「大丈夫だから」と声を掛けたが返事は無かった。
せーの、と弾みをつけてドアを開ける。瞬間、俺が目にしたものは「きゃっ」と驚く常連グループのオバサマひとり。本日五人目のお客さまだった。
リッちゃんが落ち着くまでには少し時間が必要で、永子は隣でその様子を不安そうに見つめていた。驚かしてしまったオバサマの連れ客が到着したタイミングで、二人をカウンターの中に呼ぶ。「何があったの?」と訊きたいところだが、永子が怖がるような話だと具合が悪い。アイスコーヒーを渡しながら、視線で「ちょっと待って」とサインを送ったが、うまく伝わっただろうか。
最近、永子がお昼寝をする確率は五分五分。段々と減ってきた。マキ曰く、した方が生活のリズムは整うらしいがよく分からない。いつもと違うリッちゃんの様子に呑まれているのか、珍しく永子は神妙にしている。促すのではなく、助け舟のつもりで「お昼寝しておく?」と尋ねると「うん」と小さく頷いた。ごめんね、と謝るリッちゃんを不思議な顔で見つめる永子を抱いて二階へ。何か言いたそうな顔のまま、程なくスヤスヤと眠り始めた。
店へ戻ると客がひとり増えている。半月に一度は顔を出す、ランニングウェアを着た中年女性。水はリッちゃんが出してくれていた。
「おお、ありがとね」
「……はい」
「落ち着いた?」
もっと的確な言葉があることは分かっているが、浮かばないから仕方ない。彼女は不器用に微笑んだ後、小さな声でゆっくりと何があったのかを話してくれた。
学校帰りにこの店へ寄ろうとしたところ、いつからか男の人が後をつけていたという。なるほど、と納得しつつ「とりあえず警察に知らせておこうか」と提案したが、自分の勘違いかもしれないからとリッちゃんは引き気味だ。もちろん尊重すべきは何かを考え一時撤退。
「今日さ、帰るのは店閉めてからでも大丈夫?」
「え?」
「家まで送っていくからさ、後で家に連絡しといてくれない?」
はい、と答えた表情はまだ暗いままだったが、こういう時はあまり構われたくないだろうとその場を離れた。満席相手のワンオペとは、また違うタイプの疲労が頭の裏側に溜まっている。
その後も客足はまばらだったので、リッちゃんには隅のテーブルで永子の相手をしてもらっていた。おみやげに、と持ってきてくれたマックのハッピーセットに付いているおもちゃで遊んでいる。最初は何だかぎこちなかったが、どうにかリッちゃんがいつものペースに戻ってくれたので永子も大丈夫そうだ。
一応マキにもメールで伝えておく。「変質者」という言葉は刺激が強かったので、「知らない人」につけられた、と打った。やはり明日、近所の交番には伝えておこう。
マキから電話がかかってきたのは、閉店一時間前。そろそろ家に連絡したら、とリッちゃんに声を掛けるタイミングだった。
「今、あの子どうしてる?」
「二階で永子とテレビ見てるよ」
「そっか。あのさ、今日はうちに泊めようと思うんだけど、いいかな?」
「もちろん構わないけど、何かあったのか?」
「うん。さっき、ようやくお姉ちゃんと連絡ついてね」
お姉ちゃん、はリッちゃんの母親だ。電話で事の顛末を聞いた彼女から「悪いけど、今晩は泊まらせてくれない?」と頼まれたという。
「まだリッちゃんがどうしたいかは聞いてないけど」
「うん。一応訊いてくれる?」
「一応?」
「きっと『帰りたくない』って言うと思うって」
思い出すのは先日の永子の誕生日の際、マキの実家で聞こえてきた、リッちゃんの母親に年下の恋人ができたという話。質問がいくつか浮かんだが、口には出さずに電話を切った。カウンターに戻って足下を見ると、書きかけの在庫管理表が落ちている。今日は暇だったけれど、まあ仕方ない。拾い上げるのも面倒くさく、俺は二階のリッちゃんのもとへ向かった。
マキは帰るとすぐにリッちゃんを連れて「お泊まりセット」を買いに出かけた。実はさっき、「今日よかったら泊まっていかない?」という問いかけに、安堵した表情で頷いた後、リッちゃんはこう言った。
「お店の手伝い、毎日頑張りますから、冬休み中ずっと泊めてもらえませんか?」
驚きを顔に出さず「もう何日か考えて、それでも同じ気持ちだったら、その時また伝えて」と返したのは、我ながら上出来だったと思う。個人的には泊まることに何の問題もない。帰りたくない家に帰る必要はないし、こうして泊まれる場所があるなら迷わず使えばいい。あと本音を言えば、少し気が紛れるかもと期待している。これだから大人はずるい。
ここ数日、コケモモ、というか強のこと、具体的には彼が生きていた場合、今の生活にどんな影響があるかを考え、暗い想像に時間を費やすことが多かった。
本当は答えはもう出ている。強が生きていたとして、そのことをコケモモが俺に知らせないのなら、それが現時点での答えで、その真意や強度を知りたいのは俺の勝手、ワガママに過ぎない。
この独り善がりなモヤモヤが、僅かでも紛れるんじゃないかと、リッちゃんの望みを聞いた時に考えてしまった。本当に大人はずるい。
いつもより遅めの夕食を食べた後、普段は物置代わりの客間にリッちゃんを寝せ、次に昼寝をしたせいかなかなか眠くならない永子も寝せ、ようやく落ち着いたのが午前一時前。どちらが言い出すということでもなく、マキと二人、ハイネケンを持って店のテーブルで向かい合った。
乾杯代わりに口を開いたのはマキの方。「今日は大変だったんじゃない?」という言葉に「まあまあね」と返すと、「あのさ」と声を潜めた。
「ん?」
「お姉ちゃんがね、あの子が誰かに追われたっていうの、嘘かもしれないって」
まさかと思ったが、リッちゃんの内側、ではなく外側を考えると理解できなくもない。
「お姉ちゃん、離婚してすぐに付き合い始めた人がいてね。年下なんだけど、向こうもバツイチなんだって」
バツイチなのは初耳だが、彼女の外側に理由があるという予想は正しかったみたいだ。
「そのことを知ってから、リッちゃんが何ていうか、よそよそしいらしいのよ」
マキの姉は俺と同じ歳。恋愛に年齢を持ち込むのはナンセンスだが、恋人がいても不思議ではない。そして、そんな母親に対してリッちゃんが反発するのもまた不思議ではない。言葉を選びながら、そう伝えるとマキはビールをグッと飲んだ。
「だからお姉ちゃんも強く言えないんだって」
このままだとマキの姉を悪く言いそうだったので、リッちゃんが冬休みの間も泊まりたがっていたことを伝える。マキはもう一度ビールをグッと飲み、「まあ仕方ないわよねえ」とゆっくり頬杖をついた。
知らない男につけられた、というリッちゃんの言い分を尊重して、翌朝学校まで一緒に行くことにした。冬の朝は寒い。それは掃除やゴミ出しでいつも体感しているが、こんなに空気が澄んでいることは忘れていた。
「よく眠れた?」
「はい。あの……」
「どうした?」
「色々とありがとうございました」
澄んだ空気の中、リッちゃんが申し訳なさそうに頭を下げる理由はひとつもないので、背中を軽く押して再び歩き出す。寒そうに背中を丸め、スマホをいじりながら駅へ向かう人々とすれ違いながら、彼女は自分の母親に年下の恋人がいることを打ち明けた。
「しかもその人、子どもがいるんだって」
昨日のバツイチに続いて、その情報も初耳だ。そうか、という叔父の頼りない相槌に「なんか変だよね」と言葉を重ねる。
「本当にもしもだけど、お母さんとその人が結婚したら、私、その人の子どもと兄弟になるんでしょ? なんか変っていうか、気持ち悪いよね」
刺々しい本音に「なるほどなあ」と曖昧な言葉を返したのは、別に大人の配慮ではない。ただ強と永子が兄妹であるという事実、その重大さに怯んでいただけだ。
(第29回 了)
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