宋(ソン)美雨(メイユー)は民主派雑誌を刊行する両親に育てられた。祖国の民主化に貢献するため民主派のサラブレッドとして日本に留学するはずだった。しかし母親は美雨を空港ではなく高い壁に囲まれた学校に連れていった。そこには美雨と同じ顔をしたクローン少女たちがいた。両親は当局のスパイだったのか、クローンスクールを運営する当局の目的は何か。人間の個性と自由を問いかける問題作!
by 金魚屋編集部
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美雨が格闘訓練に加われるようになったのは、基礎体力づくりを三ヶ月間も続けたあとのことだ。それでも農民工二世組に比べれば早かった。一方、初日から組手を習わされたグループは見違えるほどの力をつけている。
今日も、培養組と外組のあいだで団体戦がおこなわれた。二勝二敗で迎えた大将戦には異例のルールが設けられた。試合時間は無制限。相手がノックアウトするか、参ったと意思表示するまで続けられる。
団体戦は二週に一度の割合でおこなわれてきた。当初は一勝もできなかった外組だったが、徐々に「いい試合」が増えてきた。大将戦は、いつも因縁の対決になった。87と4の一戦だ。周が敢えてマッチメイクしたのだろう。今現在、外組が発揮できる力の限界を確認できるカードだ。美雨の目から見ても4の戦闘能力は頭抜けていた。いや、87の底知れない執念が、彼女の能力をさらに引き出したのだ。
試合開始から二分。素早い突きの応酬が繰り広げられたあと、87が狙い澄ましたように懐へ飛びこんだ。彼女だけに見えた隙だったのかもしれない。が、4は誘っていたのではないか。打撃戦に見切りをつけ、熱くなっている87に心理戦を仕掛けたとは言えないか。彼女はまんまと乗ってしまったのか。しかし。
4が脇腹を抱えた。漏らしたことのない悲鳴も聞こえた。リベンジを誓った猛虎が見逃すはずもなかった。87は4の背後に回り、右手で髪の毛を引っ掴むと、左腕を顎の下へ捻じこんだ。同時に両脚を相手の胴に巻きつけ、馬乗りの姿勢になろうとする。あとは半回転して倒れこみ、4を仰向けにすれば王手だ。必殺の方程式を完成させるには、首に挟みこんだ左腕を右手で引きこめばいい。その先に待つのは気絶か死だ。
誰もが「そこまで!」を耳にすると思った。おそらく培養組でさえ。
4が立ち上がった。87を背負ったまま前傾姿勢を保っている。体が伸び切れば詰んでしまうからだ。主導権を握られかけても、完全には渡さないという哲学がそこにある。バランスを崩した87は、右手で引きこめなかった。左腕一本で絞めているに過ぎない。美雨は4の動きに目を疑った。87を背負い、そのまま壁に向かって突進していったのだ。ぶつかる寸前に半転するや、87の背中を下敷きにして衝突してみせた。
87は勝ったことがない。だから外組が団体戦を制したこともなかった。今日も結果は同じ。防御を取れなかった87は、いつもと同じように悶絶し、失神した。しかし、マニュアルを順守する培養組が、なりふり構わない方法を選択したのだ。87がそこまで追いこめたということだ。
格闘訓練が終了しても安堵できない。すぐに張の授業が待っている。彼は、ぶよぶよの体型からは想像できない技能の持ち主だった。射撃である。
格闘訓練での消耗は凄まじく、筋肉はもちろん、骨格も悲鳴を上げた。冷静さを失えば一瞬で失神しかねない。対人格闘技の本質がそこにある。輪をかけて過酷だったのが射撃だった。最重要視しなければならないのは、ターゲットを生け捕りにすることだ。殺してしまっては工場で働かせられない。半殺しもご法度である。射撃にはゴム弾を使う。
訓練では、張が用意した市街地用の障害物や煙幕を用いるほか、ときには校庭に人工的な雨を降らせ、足元にガラスの破片を撒き、より過酷な環境をつくった。最大の特徴はゴム弾を打ち合うことに尽きる。プロテクターを装着できるのは顔面と咽頭部だけだ。
射撃は五人一組のチーム戦だ。格闘訓練と違い、培養・外組の区別なくミックスされる。しかも授業ごとに再構成された。相手チームが全滅するまで戦わなければならない。
一発で仕留めるなら十メートル圏内に近づく必要がある。ダメージを負わせるだけでは撃ち損じと同じだ。自分の居場所を相手に知られ、逆襲の機会を与えてしまう。だからこそ、みな至近距離を確保する術に拘った。張の指導もそこに集約されている。
美雨が浴びた最短距離は四メートル。顔面に撃ちこまれた。防具に守られたが、首から上が消し飛んだと錯覚した。喉元に受けていたらと思うと寝汗が止まらなくなる。すぐそばで足音を耳にしたときの恐怖は、相手が見える格闘訓練の比ではない。
授業内容が違えばヒロインも変わる。射撃でセンスを発揮したのは、美雨のまえで失禁したあの95だった。培養組を押えてトップの成績を収めるほどの腕前なのだ。理論学習でも高いポイントを稼ぎ、総合成績では六位につけた。上位を狙うメンバーの常連であり、筆頭格だ。リスクを回避し、地道にポイントを稼いできたことも奏功していた。五位の87との差は僅かだ。87は、筆記科目こそ苦手だったものの、市街地での実習に積極的だった。本番に向けた予行練習だが、加算される得点は高い。
C班の外組があきらかになったとき、最初に感じたのは、気骨な者が選ばれたということだ。チンピラ風情の生徒、従属することに疑いを持たない生徒、感性や知性がねじくれた生徒、自分の殻に閉じこもるような生徒には資格がなかった。しかし、それだけが選抜理由ではなかったのだ。95のような都市民が数名含まれていた。進んで87の軍門に下ったメンバーである。
培養組と同じ空間で学んでからだ。95たちの存在意義を強く認識したのは。彼女たちには特質があったのだ。端的に言えば、頭のよさであり、勉学の習熟度だ。班分けされれば外組は培養組と争う。が、評価は実技だけではない。理論学習での成績も重要な得点源だ。87と95のようなタイプが影響し合えば、劣る部分を補おうと努力し、やがて文武両道の培養組を焦らせ、ついには追い落とせる力を持つようになるのではないか。そんな狙いが見えてくる。ならば、まともな人選で、まっとうな教育方針に思えてくる。しかし。
「黄や周が何を言ったかわからんが、あいつらは校長の犬だ」
はじまった。張の独演会が。
「A・B班では三十名以上も脱落してる。異常だよ」
美雨たちが市街地に送りこまれるまえにターゲットがいなくなってしまうのではないか。それほどのハイペースだという。
他言無用を命じられた培養組だが、あまりに体制批判が激しかったせいだろう。最近では不快感を隠さない。彼女たちには、学園が親のような存在だ。身内をバッシングされて嬉しい者はいない。一方、成績下位の生徒には人気があった。
「密告制を採用したのは胡校長だ。そのせいで評価が歪められている。学習と無関係なことで足を引っ張られ、意欲が失せてしまう」
黄の理論学習や思想教育、周の格闘訓練、どちらも美雨にとってトラブル続きだった。
筆記用具やファイル、教科書がなくなることは日常茶飯事で、スポーツウェアやインナーウェアを新調しなければならないこともあった。その都度、マイナスポイントがついた。
「特有の環境で育まれた持ち味が消えてしまう生徒もいる。それなのに密告制は珍重されてきた。胡校長は成績優秀者に興味などない。一日でも早く脱落者を出したいだけ」
卒業するためなら手段は選ばない。お構いなしにやる。外の世界で差別や蔑みに苦しめられた経験があるなら、そんな思考様式を否定するはずだ。美雨はそう信じた。だからこそ嫌がらせを続ける犯人の目星がついていても密告しなかった。足の引っ張り合いは予想できたことで、相手も好き好んでやっているはずがない。いずれ収まると思ったのだ。
「生徒が減れば、教師の負担も減るからね。校長派の連中は教育者の風上にも置けない」
当てが外れた。密告しなかったことで、犯人は図に乗ったのだ。情けなかった。世界から三等扱いされる国民性が露骨に出ていた。相手が引くなら押し続ける。相手が押し返す気概を見せなければ、押せるところまで押していく。意訳すればこういうことだ。相手が文句を言わないなら手段は正当化される。法や道徳から外れた行為であっても認められる。潜規則と呼ばれる特有の倫理観だ。できることをやらないのは、自身のメンツを穢すことだと考えられてきた。
密告には嫌悪感を覚える。潜規則には吐き気がする。問題は、そのせいで卒業資格を失うかもしれないということだ。美雨の成績は下がりはじめ、十五位まで落ちていた。下の五人は医務室組である。
足音が聞こえた。七時の方角。やられたと思った。美雨は左利きだ。五時の方角なら、右の脇の下から撃てるため、それなりの精度を保てる。少なくとも反撃のレベルには達する。七時ならそうはいかない。体ごと振り返らないと狙えない。下半身の移動も必要だ。あきらかにサウスポーの死角を狙って近づいてきた。考えごとをしていると見抜かれた。
間に合わない。そう思うより早く、脇腹に食らっていた。
咳きこみ、目が覚めた。
張が見下ろしている。「行くか、医務室」
美雨は、床と壁に助けを借りて立ち上がった。医務室行きはごめんだ。以前はボーダーライン組だったが、いまではワースト組と紙一枚の差である。向こう側に落ちるか落ちないか。特に今回のような場合は、自分の心持ちひとつということになる。激痛には違いないが、これくらいのダメージなら踏み止まれる。心的な損傷は軽いほうだった。
その心的ダメージが深刻なのが医務室組だ。いまやワースト組の常連を指す言葉で、64も含まれていた。
C班では、市街地での仕事に向け、予行練習のプログラムを設けてきた。仕事と同様、参加するか否かは自薦が必要だ。ポイントの増減もある。スパーリング形式で、発信装置を携帯するターゲット役もC班の生徒が担った。
美雨は成績不振者のひとりに転落していたため、自薦することは当然視されていた。一方、64は学業優秀者ではなかったものの、95のように地道に点数を積み上げる方式を選んだ。目立つ行動を嫌っていたせいか、減点される機会が少なかった。密告されるほどのミスも数えるほどしかなかった。彼女は、周りがミスを重ねることでおのずと浮上できると踏んでいた。卒業が迫れば、ポイントを稼ごうと一か八かの賭けに出る。上位を狙える外組さえ減点される機会が増えると確信していたのだ。結果、ボーダー組に加わることができれば、周りはさらに焦るだろう。虎視眈々と敵失を待つことこそ、彼女が選んだ最善の策だった。的確で冷静な計画だ。その彼女が、なぜか予行練習に参加したいと言い出した。美雨は危険だと感じた。動機が問題だった。
どうして予行練習に参加したのか。市街地へ出た生徒から聞かされた「風景」に動かされたのだ。そこは、64の両親が出稼ぎに行った街だった。
街へ出たいという感情が暴走し、よからぬ結果を招くのではないか。美雨はそう直感した。しかし、彼女には警告した経緯がある。自分の真似はするな。関わるなと。いまも彼女への態度は変わっていないし、影響を与えるべきではないと思っていた。街へ出たいと打ち明けられた日も同じだ。美雨は彼女を止めようとしなかった。
悪い予感は当たる。起こる。街へ出た美雨は64と演習させられたのだ。美雨がハンターとして追う役回りだった。スタートから64の様子は変だった。教師の話を聞いているときも上の空で、ぼんやり街並みを眺めていた。減点されることには敏感だったはずなのに、開始の声がかかっても指示された場所に移動しようとしない。彼女は呟いていた。目の当たりにしている景色は、両親からもらった絵葉書に描かれていた場所に違いないという。漂う排ガスの悪臭は、帰郷した両親の衣服から漂うにおいそのものだと項垂れた。会いたい。話したい。電話でもいいから声を聞きたい。両親が書いてくれた手紙を、言葉を、文字を読みたい。目で追いたい。指でなぞりたい。アスファルトに涙を吸わせ、彼女は声を震わせた。演習どころではなくなってしまった。激しいホームシックは、学園へもどるとさらに悪化した。授業に出てくるなり医務室に直行するようになった。
美雨が医務室に行きたくないのは、いまや64の定宿だからだ。合わせる顔がないと思った。あのとき止めていれば。そう思わない日はなかった。美雨と親しくしたいと思っていた生徒だ。止められたのは美雨だけだった。
医務室は配給部の真裏だ。AからCまで三部屋ある。それぞれの班が指定された医務室を利用できた。互いに顔を合わせることなく、カウンセリングや治療を受けられる。
十人分のベッドが置かれ、入院病棟のようにカーテンで仕切られていた。そのうちの半分が常に埋まっている状態だ。常連になって二ヶ月が過ぎた。何が64よ。喉の奥で呟き、唯は天井に溜息を吐き出した。小一時間ほど眠ったが、体が軽くなることはなかった。
森閑としていて、割りこむ音がない。カーテンの向こうには生徒が四人もいるというのに。静かなぶん、ほかの感覚が立った。鼻が異臭をとらえている。吐いたか、漏らしたか。処理したばかりなのかもしれないが、まだたっぷり漂っていた。唯はナースコールのボタンを手に取った。せめて窓を開けてもらいたかった。押せばすぐに隣の控室から看護師が飛んでくる。医師も常駐しているし、カウンセラーも待機していた。
指が躊躇う。医務室組は昼夜逆転している生徒ばかりだ。午前中に睡眠不足を補うことも多く、看護師を呼び出すのは稀だった。臭いという理由だけで押すのは憚られた。
いまは静かだ。しかし、昼休みが近づくと状況が変わる。唯も含めて、ここで休んでいる生徒たちの気持ちがささくれ立つ。みんなはいつもと同じ毎日を過ごし、新しい課題を与えられ、また階段を上がっていく。嫌でもそれを実感してしまうのだ。
十時半。あと一時間もすれば、沈黙していた生徒たちが寝返りを打ち、すすり泣きをはじめる。足を踏み鳴らす者も出てくる。ナースコールの奪い合いになる。
必要なのは落ち着くこと。たかが悪臭だ。襲ってくることもなければ、痛めつけることもない。眠れるときに眠ることだけを考えればいい。回復するにはそれしか方法がない。
まだ一時間もある。言い聞かせながら目を閉じた。
唯は、天と地を繋ぐために建てられたような高層ビルを見上げ、同時に視線を直下させた。垢抜けた景色に不釣り合いなボロボロの住居が居並ぶ。この一帯は、新調した靴の底についた汚泥そのものだ。ビル街とは粗末な板塀で隔絶されている。両親が住んでいた平屋もあった。家主の名前を看板にしたアパートで、送られてきた絵葉書に記された内容を思い出さずにはいられなかった。目の当たりにして実感させられた。住めるのはネズミかそれ以下の動物ではないか。付近には湯を浴びているかのように半裸で寛ぐ住民がうようよしている。唯一のご馳走であるタバコを片時も離さず、そばを流れる水路に残飯と糞尿を放りこむ日常があった。底辺の民として都会に棲むという現実が横たわっている。それを目の当たりにして、唯の体は金型に押しこめられたように動かなくなった。
両親はここで暮らし、娘を学校に通わせたい一心で働いた。彼らの世代は単純労働で稼ぐしか術がない。だからこそ娘には適正な教育を受けさせ、まともな職に就ける道筋をつくってやりたかった。都市民のような特権を得られなくても、農民工二世のなかでは羨ましがられる環境を与えたかったのだ。唯は絵葉書を見るたびに不遇を呪った。恨んだ。あの両親の子供だという悲運を嘆いた。
アスファルトの黒に埋もれてしまいたかった。子供のためとはいえ、自分に同じことができるとは思えない。しかも、彼らは本当の子供のために尽くしていたわけではないのだ。
会って頭を下げたい。ひと言でもいいから伝えたい。感謝の言葉を。
またしても絶望感で揺り起こされた。気がつけばシーツを掴んでいた。荒い息を吐き出し、汗を拭った。十分も眠っていなかった。頭のなかに溜まるガスが濃度を増し、永遠に回復できないのではないかという思いが圧し掛かる。
こんなときは静寂に耳を澄ませるのが一番だ。しかし、今日のガスは手強かった。なかなか消えてくれない。雑音も耳に残っている。
いや。話し声?
確かに聞こえてくる。控室のほうから。
おや、と思った。校内では教師の私語を禁じていた。教育者が校風を損なう姿を見せれば示しがつかないからだろう。その方針が医務室にも適用されてきた。無駄話が聞こえてきたことは一度もなかった。聞き耳を立ててみると、一方通行の話だと気づいた。相手の声が聞こえてこないのだ。演劇の一人稽古のようだった。
唯は思わず立ち上がっていた。あれほど重かった体に羽が生えたかのようだった。
電話があるのだ。控室に入ることができれば両親の声が聴ける。話せる。伝えられる。
バレれば工場行きだというのに、それでも構わないと思った。ひと言だけでいい。逃亡しなければ両親が責任を負わされることもない。思いを告げられたら、あとは工場で死ぬまで働く。自分に似合う末路だ。働く者の気持ちがわからなかった報いに違いない。
破錠できるドアか。カーテンを開けようとして、隣のベッドに異常を感じ取った。視界に入るはずがないものが割りこんできた。結び目だ。カーテンレールに白い布が結わえつけられている。
開けた。悪臭の出所がぶら下がっていた。唯は遺体の足元に屈んだ。吐しゃ物と汚物が混ざり合っている。自分の声とは思えない悲鳴が聞こえた。
控室から看護師が飛び出してきた。奥に医師の姿があった。受話器を置き、こちらへ向かってくる。涙目になりながら、唯は、電話がある位置をしっかりと記憶した。
(第05回 了)
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