さやは女子大に通う大学生。真面目な子だがお化粧やファッションも大好き。もちろんボーイフレンドもいる。ただ彼女の心を占めるのはまわりの女の子たち。否応なく彼女の生活と心に食い込んでくる。女友達とはなにか、女の友情とは。無為で有意義な〝学生だった〟女の子の物語。
by 金魚屋編集部
6 大学院(前編)
クリスマスイヴ。
私は、ほとんど意地だけで学校に行った。
笑っている女子大生が目の前に座った。
「彼氏が、バイザヤードを買ってくれるって言って……」
うるさい。黙れ。今すぐ顔を覆ってしゃがみこんでしまいたかった。なんで外に出たのだろう。ああ、そっか。外に出たかったから出たのでしょう。家族以外のだれかに会いたかった。世の中には女子高校生もいるね。あんたらだって、だまされてるよ。
私は情にほだされただけだけど。手を出されなかったし。いらなかったのかな、私。
棄てられたんじゃない。棄てたんだよ。洪水のように、思考が流れて止まらない。
十二月二十三日。
彼は一日電話に出なかった。「イヴに会おうね」って事前に約束していたにもかかわらず、彼は会う日をクリスマス当日にずらして指定してきた。
一週間前になってさりげなく言われて、絶対におかしいって感じてた。待ち合わせの場所も決めてくれないし。こっちから連絡しないと返事もよこさない。
社会人は忙しいのかな、って納得しようとした。けど、社会人一年目のときは頻繁に電話をくれたのを覚えている。「新しい学校にはなじめたか?」とか。「先輩とはうまくやっていけてるか?」とか。なのに、イヴの前日になっても待ち合わせの詳細のメールは来なかった。まさか……。私が二股をかけられる? しかも、二番手にされるなんて。イヴに会ってももらえない側になるなんて。安いドラマみたいだ。他の子と過ごした後で会う相手。そんなわけがないのだ。つい最近も、愛してると言ってくれた。私が愛してあげたからだ。
――仕事があるから、前日に連絡するよ。新人のめんどうを見ないといけない。
その言葉を信じた。
二十四日は、土曜日だった。深夜になっても、携帯に宮田知彦の名前は表示されなかった。私は既に泣いていた。テレビで、クリスマスイヴに行きたいお店ランキングを放送していた。情けない気持ち。
ベッドの中で、考えてはいけないことが浮かんだ。他の女が彼の隣にいる。今日も。明日も、明後日も。そのずっと前から。いけないとわかりつつ、彼の名前を電話帳から検索する。発話ボタンを押す。音楽が流れる。着うただ。即座に留守電サービスにつながった。死にたくなった。布団をかぶって、まためそめそする。この私が、恥をかかされるなんて。この私という前提が、いまや崩壊しかかっていた。一月十五日に提出の論文が、半分しか仕上がっていなかった。パソコンに向かうべきだ。なのに、力が出ない。
「ほら、あなたは院生じゃない」先輩の声が再生される。違う。女だよ。私のサンタさんはどこに行ったの? 先輩、助けて! 叫びたい。こんなこと、だれにも言えない。自分だけ、特別だと思ってたの? どこにでもいるのに。
違う! 彼と私との関係が特別だと思っていた。家族のこととか、他人には言えないことをしゃべってくれて、でも、彼は男で、私はただの学生だ。弱みをみせたって、彼が男だという事実が変わるわけではない。
私のバカ。自分がなにをなくしたか、気づくがいい。偉そうな私が言う。彼は人をだますことをどうとも思ってないんだよ。だます? 新しい女の人のことが好きすぎて、私のことなんて念頭にないのかもしれないじゃない。枕に頭を伏せる。もうダメだ。疲れているのに、起き上がってベランダに行く。バスタオルを一枚、洗濯バサミから外す。
地獄だった。彼が本当はどうしているのか知りたかった。知っていたのに。
クリスマスの早朝。
――どうしてるの? 会おうよ。
なんてメールしてしまって、後悔した。
人生で一番の失敗。
――違う日にクリスマスをやろうよ。七面鳥をごちそうしてあげる。いつになるか、わからないけど。
返事は案外、早かった。
「違う日に」の文字が霞む。イヴも当日も他の子優先ってこと。侮辱された、と思った。最悪だ。こんな風にひらきなおってしまう彼も、開き直られてしまう私も。心臓に冷水を流し込まれたような気分になった。将来が見えなくなった。
私、彼の通過点でしかなかったってこと? ふつふつした感情がたぎった。
電車が終点に着いた。人が多すぎる。カップルが身を寄せ合っている。真ん中に、割って入りたくなる。
赤いファイルを抱えた。論文の資料が挟まっている。砂漠をさまようように、学校までの道を歩いた。打ち上げられたクラゲよりもみじめだ。だんだんとぱさぱさに乾いていく。一人でいたい。いや、無理だ。校舎を横切って、五号館に入る。エレベーターの行き先階ボタンを押す。だれもいなかったら、どうしよう。ドアが開いた。人の気配がする。四階には、院生室しかない。各部屋に明かりがともっている。
「あら、お元気?」
コピー機の前に、先輩がいた。普段とかわらない格好をしている。ジーパンに、セーター。元気と答えるべきだろう。
「おかげさまで」
「論文、進んでる?」
「思ったようにはできなくて、なんとなく来ました」
「あらそう。みんな、院生室にいるよ」
いたわるような口調。気のせい? 私が感じやすくなっているのだろうか。細い通路をたどっていく。仏文科のプレートが付いた扉を押す。
「あー。中野さん」
男子も女子もいた。お互いにさん付けで呼び合うのは、いつものことだ。それなのに、その距離が今日は悲しい。閲覧用の部屋と、談話室で二部屋に分けられてから、談話室のほうが雑然としてきている。閲覧室に置ききれなかったプリントが、机の端に寄せられている。
「説明会に来た人が、チョコを持ってきてくれたんです。さっきまでいたんですけど、帰ってしまいました。中野さんも一つ食べませんか?」
机の上に、お菓子類が散乱している。サンタさんの形のチョコレート。木につるせるような紐がついている。円い、卵型のもある。包みがカラフルだ。
「このサンタさん、まの抜けた顔してない?」
コピーからもどってきた先輩が言う。髪の毛、額にぱらりとかかる。カラカラと、左右にチョコレートをゆすっている。涙腺がゆるみそうになった。中は空洞だろうか。
「私に似てませんか?」
自分を指さす。笑っている気がしてきた。
「中野サンタさんだ」
「さん、がダブってますよ」
後輩の女の子が言う。透き通りそうな肌。産毛が見える。ギンガムチェックのワンピースに、ピンクのカーディガン。私からみて、後輩は女の子だ。幸せになればいいと思う。
「大きいし、分けよう」
男子の先輩が、サンタさんのアルミを剥ぐ。ナイフを入れている。五等分くらいになった。
「頭から食べちゃおう」
「私は下から」
「じゃあ、俺は胴体」
会ったところに手を伸ばす。やっぱり、中がすかすかしている。口に入れると、過剰に甘かった。ミルクチョコレートだ。輸入品の味。
「独文の院生室の前を通ったら、すきやきやってた」
「仏文も対抗して、なんか食べようよ」
「ワイン飲まない?」
「まだ論文が終わってない人がいるのに?」
こっちを見られる。
「私は、大丈夫です。終わらせます」
宣言することは重要だ。ドアをノックする音がした。
「どうぞー」
「こっちと合同で、すきやきパーティーしない? というよりも、買い出しに協力してほしい。一人でいいから」
一つ上の独文の男子だ。たぶん院生の中で一番目立つ。自覚しているらしく、モノトーンばかり着ている。私はじゃんけんで、負けてしまった。
「チョキ出したのが一人だから、中野さんが行けばいいよ」
ついているのかそうでないのか、わからない。
――クリスマスだっていうのに、院生たちは修論の追い込みです。これから夜食の買い出しに行くから、せめてワインでも差し入れようかな。
何度も何度も読みかえして、さりげなく読める文面のメールを、宮田君に送信した。
独文の男子と一緒に池袋駅近くのスーパーまで行く。赤ワイン。紙皿。紙コップ……。リスト通りにカゴに積んでいったら、かなりの量になった。二人で袋の端と端を持ち、学校へと戻る。袋が斜めになる。
「やだ見て。あの人すごいかっこいい」
「いいな。あれ彼女かな?」
「え。ずるい。たいしたことなくない?」
女子高校生のグループが、すれちがいざまにこちらを二度見して言った。最後のささやきは小声だったけど私には聞きとれた。率直だということは、残酷さとイコールだ。
「だってさ」
彼が、こちらを見る。人目をひくことになれているのだ。憎たらしい。隣に並ばれると、イライラする。同時に、宮田君に対する怒りが再燃してきた。
院生室に袋を置き、携帯を持ってお手洗いに行く。個室に入る。返信がきている。
――へー。院生も大変だね。体調だけはくずさないようにしてよ。
――論文進まないし。隣の研究室の男子と夜食の買い出しに行ったんだけど、歩いてたら通行人に「えー? 女のほうは、たいしたことなくない?」って言われちゃった。腹立つわー。そんな、色気のないクリスマスです。
送信。これでも食らえ。ポケットに携帯を入れ、独文の院生室に集まる。室内が、湯気で充満している。すき焼きの匂い。プラスチックのコップにワインが注いである。
「豚肉、煮えすぎて硬くなってない?」
「ずっと鍋の底でたそがれていらしただけ」
「擬人化するなよ」
会話が通り抜けていく。無意識にメールの返事を気にしているのだ。お皿がまわってきた。各自すきやきをよそって食べる。気もそぞろで味がしない。
携帯が振動した。こっそり受信フォルダを覗く。
――どういうこと? どうしてほかの男といるの? いい男なわけ? そいつ何?
――べつに。私は顔で男の人を選ぶような人間じゃないよ? それは宮田君がいちばんよく知ってるよね? もう、連絡してこないで。
私に選択権はないけど。腹が立つから真実を書いておく。自分だけが一方的に悪意を持てると思わないで。人を傷つけることなんて、だれにでもできるんだから。
さよなら。
「うえをむーいて……」
肉を食べながら独文の男子が歌いだす。『上を向いて歩こう』別名『すきやき』だ。豚肉のすきやき。
「クリぼっちの前でそんな曲、やめろよ」
「なんでクリスマスにすきやきなんだよ。多数決って嫌だな」
自分も同じ立場なのに、鼻で笑ってしまった。
「ほら、笑われてるぞ」
胸が痛い。感情がぐちゃぐちゃだ。お玉の柄を持って、なにかをすくう。茶色くなった豚が引き揚げられた。野菜は、若さを失ってしなしなになっている。苦労しすぎだ。ワインを口に含んだら、悪酔いしそうだった。
(第15回 了)
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*『学生だった』は毎月05日にアップされます。
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