自由詩は現代詩以降の新たな詩のヴィジョンを見出せずに苦しんでいる。その大きな理由の一つは20世紀詩の2大潮流である戦後詩、現代詩の総括が十全に行われなかったことにある。21世紀自由詩の確実な基盤作りのために、池上晴之と鶴山裕司が自由詩という枠にとらわれず、詩表現の大局から一方の極である戦後詩を詩人ごとに詳細に読み解く。
by 金魚屋編集部
池上晴之(いけがみ・はるゆき)
一九六一年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。元編集者。三十五年以上にわたり医学、哲学、文学をはじめ幅広い分野の雑誌および書籍の編集に携わる。共同体としての「荒地派」の再評価を目下のテーマとして評論活動を展開している。音楽批評『いつの日か、ロックはザ・バンドのものとなるだろう』を文学金魚で連載中。
鶴山裕司(つるやま ゆうじ)
一九六一年、富山県生まれ。明治大学文学部仏文科卒。詩人、小説家、批評家。詩集『東方の書』『国書』(力の詩篇連作)、『おこりんぼうの王様』『聖遠耳』、評論集『夏目漱石論―現代文学の創出』『正岡子規論―日本文学の原像』(日本近代文学の言語像シリーズ)、『詩人について―吉岡実論』『洗濯船の個人的研究』など。
■「荒地」から始まる現代詩■
池上 ぼくは初期の「荒地」の詩は意外に個性がないと思っているんですよ。もちろん、きちんと読めば作品に現れているそれぞれの詩人の個性はまったく違うんだけど、深読みせずに文字どおりにテクストだけ読むと、表現自体にはあまり個性が感じられない作品があるんですよね。例えば三好豊一郎の「囚人」を作者名を隠して読むと、『荒地詩集1951』の中の田村隆一の詩なのかなとも思えるけど、誰の詩なのか、ちょっとわからない。
真夜中 眼ざめると誰もゐない──
犬は驚いて吠えはじめる 不意に
すべての耳はベットの中にある
ベットは雲の中にある
孤独におびえて狂奔する歯
とびあがつてはすべり落ちる絶望の声
そのたびに私はベットから少しづつずり落ちる
これが、『荒地詩集1951』に収載されている三好豊一郎の「囚人」の前半ね。この詩は実際には戦時中に書かれたということで「戦後詩」じゃなかったんだけれど、『荒地詩集1951』に入っているといかにも戦後詩に見えます。でもね、前半だけ読むと戦前のモダニズム詩のようにも見えるんですよね。やっぱりモダニズムの詩法が「荒地」の表現の基礎にはあるということなんだろうと思うんです。これは一例ですけれど、普通の読者から見ると、作者は違うのに何となく表現が似ているなぁと感じる作品が結構あると思います。こういうテクストのいわば「無名性」あるいは「共同性」が、戦後初期の「荒地」のひとつの特徴だと思います。
それから、普通だったら戦後の出発時のアンソロジーに、戦時中に書いた詩をわざわざ入れないと思うんですよね。鮎川信夫の『戦中手記』も戦時中に書かれたわけですけれど、内容的にはすでに「戦後」的と言っていい。鮎川信夫としては、自分たち「荒地」派は戦後になってから、というか、戦後になったから「戦後詩」を書き始めたわけじゃないんだ、「戦前」「戦中」「戦後」を貫いた「荒地」の精神があるんだ、と主張しているんだと思います。
鶴山 『荒地詩集』は一九五一年から五八年まで刊行されましたが、そのあたりでその精神性は消滅したと言っていいと思います。『荒地詩集』後期には石原吉郎とかいろんな詩人が入って来ますが、彼らによって荒地的精神が継承されたとは言えない。
池上 鶴山さんは参加していらっしゃったかどうかわかりませんが、一九八二年九月に渋谷の西武劇場で、思潮社二十五周年記念の「詩のカーニバル・詩はこれでいいのか」というイベントがあったんです。ぼくも観客として参加しましたが、四五〇席ほどの会場は満員御礼で、入れない人がいたぐらい観客が集まった熱気あるイベントでした。まず、北村太郎から吉増剛造まで総勢十五人による朗読がありました。
その後、大岡信、谷川俊太郎、吉原幸子による座談会があって、それからみんながお目当ての吉本隆明の講演があった。これは「若い現代詩」というテーマで、吉本隆明のいろいろな本にも収載されていると思います。また改めて吉本隆明編で触れられればと思うのですが、すごくおもしろかったし、会場も盛り上がった。そして最後に「詩はこれでいいのか」というテーマで、鮎川信夫、北村太郎、安藤元雄、寺山修司、鈴木志郎康、天沢退二郎、佐々木幹郎、平出隆、荒川洋治が参加した「討論」があったんです。司会は菅谷規矩雄と清水昶。このシンポジウムの記録が「現代詩手帖」一九八二年十一月号に掲載されているんですが、これがなかなかおもしろくて、「戦後詩は終わったのか」という最初の設問に対して、まず鮎川信夫が「戦後詩とは何か」を定義しています。
「戦後詩っていうのはどういう詩かをはじめにごく簡単に言いますと、戦前、戦中の詩に対して一番大きな特徴は、詩語が権力というものと切れた、少なくとも戦前、戦中の権力とは切れている、ということです。言葉というものは面白いもので、必ずその時代の支配的な価値体系と結びついています。少なくとも戦争中まではやはり日本の近代が戦争に向かっていった秩序の中での言葉だったわけですね。それに対して戦後の詩はそういう権力とは全く違ったところに言葉の価値を見出すことを目的として出発したものだと思うんです。それはある程度は戦争中から準備されていて、ぼくらの場合はその点でいくらか戦後の若い人たちから比べれば先行していた、という面があって「荒地」の運動が可能だったわけですね」と言っています。
この発言自体は、いまは戦前、戦中の権力や権威から切れて新しい自立的な価値をめざすということだけではやって行けなくなったのではないか、という文脈だったんですが、戦後詩は戦前、戦中の権力と切れている、ということを「荒地」の出発時に鮎川信夫が主導して強く打ち出したことがよくわかります。
『荒地詩集 1951』〈新装版〉
昭和五十年七月一日発行
国文社
鶴山 先輩詩人たちが軒並み『辻詩集』とか戦争翼賛詩を書いたからね。高村光太郎に「天皇あやふし」があるでしょう。「天皇あやふし。/ただこの一語が/私の一切を決定した。(中略)/私の耳は祖先の声でみたされ、/陛下が、陛下がと/あへぐ意識は眩いた」って詩なんですが、まあ今読んでも切迫感があります。あの詩を書いた時点では高村さんは本気でそう思っていた。鮎川さんや吉本さんが戦中詩(翼賛詩)にこだわるのは、「みんな本気だっただろ」ということを言っているわけです。少なくとも戦争が勃発した時点で、この戦争が負け戦だと思っていた人はほとんどいなかった。できれば勝って終わって欲しいと思っていた。日本の危機だという意識も強く共有されていた。で、当時本気で書いた詩を戦後になってなぜ隠すんだと彼らは言ってるわけですね。高村光太郎はある程度それをやりましたが、ほとんどの詩人たちが黙ってスルーした。それを鮎川さんや吉本さんは批判するわけです。戦前戦中の詩が権力と結びついていたのは確かなことで、鮎川さんは戦前にそこから切れていたのは自分たちの「LE BAL」と「荒地」だけだったと書いています。それもその通りですね。ただ「荒地」派だって無傷じゃなくて、中桐さんが白神鑛一名義で『海軍の父 山本五十六元帥』を書いているでしょ。中桐さんは間一髪で神戸詩人弾圧事件から逃れたから、そういう経緯が影響しているのかな。
池上 それについては鮎川信夫が書いていますね。戦時中に中桐雅夫は海軍の記者クラブにいて、いわば職業として書いたんだ、って(「戦争責任と日本社会」『疑似現実の神話はがし』)。確かに本のカバーには「海軍省黒潮會會員 白神鑛一」と肩書と本名が書かれています。目次を見ると伝記で、翼賛詩ではないですね。詩の問題というより、むしろ問われるべきなのは、ジャーナリストとして戦時中に果たした役割についてでしょうね。ちなみに山本五十六は戦後になっても人気があって、ぼくが初めて映画館で観た映画は、小学二年生の時に父親に連れられて行った『連合艦隊司令長官 山本五十六』(一九六八年公開)でしたよ。
鶴山 「荒地」派と言ったって、本当に激戦地に行かされたのは鮎川さんだけでしょ。足かけ三年くらい行っている。三好さんと中桐さんは結核で徴兵免除で、田村さんと北村さんは内地勤務でしたね。黒田さんはどうだっけ。
池上 ぼくは高校生の頃、晩年の黒田三郎に何度か会ったことがあるから少し詳しく知っているんですけれど、南洋興発の社員として赴任していたジャワ島で現地招集されて、敗戦まで現地にいたはずですよ。どんな体験をしたのか聞いたことはないですけれど……。
鶴山 鮎川さんの『戦中手記』なんかを読むと、かなり悲惨だものね。ああいう経験は決定的なものになるでしょうね。元々の資質的なものもありますが、戦争体験が鮎川信夫を、非常に特殊な詩人にした面はあると思います。ただ鮎川さんはあまり詩は上手ではないね。それは田村さんと比べればハッキリしている。
池上 さきほど鶴山さんが「荒地」の精神性は数年で消滅したとおっしゃったことに関連して言うと、一九七九年に出た『文学の戦後』という鮎川信夫と吉本隆明の対談集の後半のほうで、吉本隆明が、最近の「荒地」派の詩人の詩を読んでいると、「四季」派の詩に似た感性になってきているんじゃないかという疑問を呈するんです。それについて鮎川信夫は肯定も否定もしていないんだけど、音楽に喩えて、「四季」派の詩はクラッシックだけど、「荒地」派の詩はロックだと言ってるんですよ(笑)。オーケストラはバイオリンとかいろいろな楽器を使っているけれど、自分たちはエレキギター一丁でやったぞという気概があるんだ、って。使っている楽器、つまり「四季」派とは言葉が違うし、表現している内容が違うんだと。
実は、ぼくが文学金魚で連載しているザ・バンド論(「いつの日か、ロックはザ・バンドのものとなるだろう」)は、最後は「荒地」論にもなって行く予定なんですよ(笑)。だから第一回目でわざわざ中桐雅夫訳のオーデンの言葉を引用して伏線を張った。もちろんまだ読者にはわからないんだけど……(苦笑)。この鮎川信夫の発言を、吉本隆明がもっと深掘りして、「荒地派はジミヘンだったんですか!?」とか受けてくれればおもしろかったんですけれどね(笑)。でも鮎川信夫が、「荒地」派の詩をエレキギター一本のロックだと言ったのは、なかなか興味深いと思います。
ぼくは鮎川信夫たち「荒地」派が使おうとした言葉は、四季派だけじゃなく戦後詩以降の現代詩とも本質的に違っていたんじゃないかと思います。ぼくの感覚では、表現された世界が違うというよりも、表現における言葉自体の在り方が違う。音楽に喩えれば、現代詩の言葉はシンセサイザーで、ストリングスの音は表現できるんだけど、すべてはシュミラークルで楽器が出している音じゃない。音自体、つまり言葉自体に意味がなくなっちゃっている。でも「荒地」派の詩は、イメージを表現していたとしても使っている言葉には常に意味が付随しているんです。
鶴山 詩の表現を、修辞として捉えるのか、思想中心に捉えるのか、大別すれば二つの方法があります。修辞として捉えれば、戦後詩風の詩はいくらでも書けるし、現代詩風の詩もいくらでも書ける。でも最初に始めた人たちには思想があるわけです。鮎川さんたちは、やっぱり終戦から決定的なものが始まっている。入沢さんたちは、「荒地」派と敵対したわけじゃないですけど、戦後の思想詩への反発から始まっている。
入沢さんの第一詩集『倖せそれとも不倖せ』は、鮎川さんの最初の詩集『鮎川信夫詩集 1945―1955』と同じ一九五五年に刊行されています。翌年に田村さんの第一詩集『四千の日と夜 1945―1955』が出た。詩集刊行年で言えば、戦後詩と現代詩の発生は同時です。ただ一九五〇年代から六〇年代にかけて、圧倒的影響力を持っていたのは「荒地」派の戦後詩です。入沢さんたちの現代詩が注目されるようになるのは六〇年代末頃からですね。
それは当然のことで、入沢さんの『倖せそれとも不倖せ』は「心中しようと 二人で来れば/ジャジャンカ ワイワイ/山はにっこり相好くずし/硫黄のけむりをまた吹き上げる/ジャジャンカ ワイワイ」の「失題詩篇」から始まりますが、「荒地」派の詩以上にわけがわからない。でも入沢さんは多作だったんだよね。どんどん詩集を出していった。そうすると無視できなくなる。なぜあんなわけのわからない詩を量産できるんだってことですね(笑)。じゃあその理由はなんなんだ、と。
その一応の種明かしになったのが、一九六八年刊の『詩の構造についての覚え書』です。これが出てから詩の世界に、「詩は意味の伝達の道具ではない」という入沢さんの言葉が蔓延します。ほとんど流行言葉のように誰もが口にしました。あれはとても舌っ足らずな言い方ですけどね。
ただ戦後詩がメタレベルでの意味の伝達も含めて、言葉で強い意味、感情を含めた意味を伝達する詩であるとすれば、入沢さんたちの詩は意味の伝達性を排除した詩だという風に、みんなが一応納得した時点がありました。これも正確な理解ではありませんけどね。ただここで初めて戦後詩と現代詩が成立したと思います。
入沢さんたちの現代詩が、戦後詩というよりプロテスト詩への反発から生まれたのは確かです。六〇年安保に向かっていく世相の中で、詩を政治的プロパカンダに利用する人たちが当時大勢いた。鮎川さんは『死の灰詩集』なんかをクソミソに批判しているけど、あのテの詩ですね。入沢さんたちはそういった詩と詩人たちに猛反発した。その強烈な反発が入沢さん、岩成さんを中心とした「あもふる」グループになった。結果として「荒地」派戦後詩とは違う思想に基づく現代詩が生まれたわけです。
ただ言葉は無意味も含めて必ず意味を伝達します。それは現代詩も同じで、入沢さんの代表作は『わが出雲・わが鎮魂』で、故郷をテーマにした詩でしょう。それは岩成さんにも当てはまる。しかし入沢さんが『季節についての試論』や『ランゲルハンス氏の島』などで、ほぼ言語的抽象体に近い作品を作ったのは間違いありません。これは表現として確実に詩史に残ると思う。こういった詩は突然生まれたわけではない。思想的背景と時代的背景があります。新たな表現は核がなければ生まれて来ない。
池上 『荒地詩集1951』に収載された評論「現代詩とはなにか」で、鮎川信夫は「ここで僕はわれわれの詩の過去から現れた一つの固定した概念、ポオやボードレールから、マラルメ、ヴァレリイに至る象徴主義の詩人によつてつくられた詩の概念を、まず現代に生きるわれわれのために否定したいと考えている」(「Ⅰ 詩人の条件」)と書いています。鮎川信夫は象徴主義の詩の概念を否定することで、詩語の使い方を変えようとしたんだと思います。言葉は言葉なので使っている単語は変わらないんだけど、使い方そのものを変えた、つまり意味として言葉を使う、これが「荒地」の詩の特徴だと思います。言葉を意味として使うなんて当たり前じゃないかと思うかもしれませんが、日本語の詩で言葉を意味として意識的に使って、プロレタリア詩ではない、文学として自立した現代的な表現をしたのは、「荒地」派が初めてだと思うんです。
鶴山 「荒地」の詩は徹底して意味ですよ。読み解こうと思えば全部読み解けます。入沢さんたちの現代詩については構造として捉えないと、読み解けない面がありますけどね。もちろん入沢さんの「詩は意味の伝達の道具ではない」という言葉は半端な表現で、言葉である以上、必ず意味を伝達します。しかし意味読解だけでは不十分なので、詩の構造を考えなければ理解しにくい。ただ鮎川さんたちの戦後詩が、鮎川さんらの認識に即せば、象徴主義詩人たちが使った言葉の修辞的表現次元から、もっと思想表現的次元に入ろうとしたのは確かだと思います。その影響は絶大でしたねぇ。それこそ池上さんが参加したシンポジウムの時代まで続いた。
日本の詩が一九八〇年代まで戦後詩的な思想表現を大きな軸にしていたのは確かです。六〇年安保、七〇年安保の挫折は戦争体験のない若者たちにとっての疑似戦争体験であり、敗戦体験だったと思うけど、「凶区」なんかの詩人たちを経て、一九七〇年代後半から、ハッキリ戦後詩と現代詩的修辞をないまぜにした詩人たちが出てくる。荒川洋治さんや平出隆、稲川方人さんらの「書紀」の詩人たちなどですね。荒川さんは早々と離脱したと思いますけど、彼らもやはり正統戦後詩の意味表現を中心に据えていたと思います。平出さんが堀川正美に会った時に、なぜ詩をやめたのかと聞いたら「戦線が信じられなくなった」と答えたと書いていたのを覚えています。そうかー、「戦線が信じられなくなったのかー」と思いましたよ(笑)。含みのある言葉ですが、堀川さんは活動家ではなかったから、いわゆる戦後詩の戦線が見えなくなった、消滅したということでしょうね。
これが一九八〇年代になると、「麒麟」と女性詩の時代ですが、もはや戦後詩とか現代詩とかの区分があまり意味のない詩人たちが出てくる。代表的詩人は朝吹亮二さんと伊藤比呂美さんだと思います。朝吹さんの初期の詩はかなり吉増剛造さんの影響を受けていると思いますが、『opus』から変わってくる。吉岡さんが『opus』に異様に興味を持っていたな。うん、勘がいい(笑)。それはともかく、朝吹さんの一つの到達点が『密室論』で、戦後詩的な意味文脈ではもう読み解けない。じゃあ入沢・岩成的現代詩なのかというと、表層的にはそう見えますが質的に違う。『密室論』で表現されているのは極私的な思想と感覚です。戦後詩、現代詩の区分など問題ではない。
伊藤さんも似た面があって、『テリトリー論』などで表現されているのも極私的思想と感覚です。一九八〇年代から九〇年代にかけて詩の世界で女性詩が流行して、文壇でも『男流文学論』が出たりしますが、文学の新しい表現分野として、もう女性性くらいしか残っていなかったということでもあるでしょうね。戦後詩を含む戦後文学は、徹底して女性をオミットしていた面がありますから。身も蓋もないことを言えば、戦後文学は戦争体験、特に従軍体験をベースにしていたわけですから、当時従軍することがなかった女性たちが隅に追いやられるのは半ば必然だったかもしれません。八〇年代末にようやく戦後文学の気風が薄れて、女性性が重要な文学のテーマとして出て来た。
『密室論』や『テリトリー論』は傑作で詩史に残ると思いますが、これ以降、極私が一つの表現テーマになったのは確かだと思います。歌壇で言えばニューウェーブ短歌がそれに近いかな。つまりそれまではかろうじて存続していた、戦後詩、現代詩的な戦後文学的表現と思想のパラダイムが失われた。詩人たちが、それぞれ大きく違う極私しか表現基盤として持っていない時代に、それが全体として対外的にアピールするわけがない。誰かの極私がたまたま時代のアトモスフィアに合致して、その作品が僥倖のようにもてはやされるということはあるかもしれませんけどね。
池上 いま手元に資料がないので正確ではないですが、高橋源一郎さんが、現代詩が行き詰まったのは新しさを求めたからだ、と言っていますよね。それは本当にそのとおりだと思います。
鶴山 そうですよ。自由詩は、明治維新以降、一貫して日本文学におけるパイロット文学だもの。欧米の新しい思想表現を、グチャグチャであろうととにかく日本語表現に移入し続けました。萩原恭次郎の『死刑宣告』とかね。あれは一応、ダダってことになってますね。でも高橋新吉は『ダダイスト新吉の詩』を出したわけだけど、ご本人が自分はダダイストではないとか言い出すんだから。実はあれは禅の無なんだと。大混乱しているけど、高橋さんの後期の詩を読めば、そーだよなーと思っちゃうところがある。まーいい加減なものだね(笑)。
■『橋上の人』■
池上 ぼく自身は、ザ・バンド論を書いていることからおわかりかと思いますが、意匠としての新しさということには、あまり価値を見出せないんです。だから、常に新しくあろうとした戦後詩以降の現代詩にはずっと違和感があるんです。逆に言うと、いまでも「荒地」の詩を現在の詩として読むことは可能だと思っているんですよね。
そろそろ鮎川信夫の詩を具体的に読みましょうか。まずは、「橋上の人」からですかね。いちばんやっかいそうな詩だけど、これを外して鮎川信夫という詩人は語れない。抒情詩のスタイルで、避けられない人間の運命や、それでも生きて行くほかはない人生について情感深く思索していて、日本語の詩としてはちょっと類例を見ない、すばらしい作品だと思います。現代詩文庫『鮎川信夫詩集』にも収載されていますので、ぜひ多くの人に読んでいただきたいですね。
鶴山 「橋上の人」はいろんなバージョンがあるんだよな。初出は一九四三年かな。
池上 『戦中手記』の中で鮎川信夫は、「僕は僕の留守中に三好の「故園」に発表された僕の詩「橋上の人」を新らしく加筆し、不備を補い再び詩の世界に近づきはじめた。僕は〝荒地〟以降の単に運命に翻弄され、どこへ流されてゆくか解らぬやうだった期間の、さまざまな脈絡を明瞭に理解しはじめ、戦争についても一層深く考へようとするやうになった。その期間中に無意識に蓄積せられた観察が、次第に一つの言葉に表現を集中してゆく契機を与へられ、無償な無秩序な計量することも出来なかった混沌が次第に統一せられていったのである。さうした精神の集中的な働きが熱を帯びてくるに従ひ、一つの中心観念の中に、今までの乱雑な経験が新らしい意味として溢れてくるやうになった。/僕はかつての日の絶望の記念として書いた「橋上の人」として再び過去と未来への橋上に立ったのである。」と述べています。
戦中版「橋上の人」の初出は、戦時中の一九四三年五月に三好豊一郎がやっていた同人誌「故園」に発表されたもので、一般に「旧作」と呼ばれています。『戦中手記』は、まだ戦時中の一九四五年二月末から三月にかけて傷痍軍人療養所の病棟で書かれたものなのですが、かつての「橋上の人」として再び過去と未来への橋上に立ったという、この時こそが「戦後詩」の始まりだとぼくは考えています。この時「星の決まってゐる者はふり向かぬ」という決定的なフレーズを書き足したのですが、これは「自分の運命を信じて生きて行くほかはない」という鮎川信夫の決意なのです。「戦前」「戦中」「戦後」をつなぐ橋の上に立っている「橋上の人」であること、これが鮎川信夫の定点です。
鮎川信夫は戦後になって、一九四八年と一九五一年に「橋上の人」に大きく手を入れましたが、その後も細かい修正をしているので、ここでは『鮎川信夫全集Ⅰ』に収載されているバージョンを「戦後版」ということにして話をしましょうか。
高い欄干に肘をつき
澄みたる空に影をもつ 橋上の人よ
啼泣する樹木や
石で作られた涯しない屋根の町の
はるか足下を潜りぬける黒い水の流れ
あなたはまことに感じてゐるのか
澱んだ鈍い時間をかきわけ
櫂で虚を打ちながら 必死に進む舳の方位を
(戦中版「橋上の人」『鮎川信夫全集Ⅰ』)
Ⅰ
彼方の岸をのぞみながら
澄みきった空の橋上の人よ、
汗と油の溝渠のうえに、
よごれた幻の都市が聳えている。
重たい不安と倦怠と
石でかためた屋根の街の
はるか、地下を潜りぬける運河の流れ、
見よ、澱んだ「時」をかきわけ、
櫂で虚空を打ちながら、
下へ、下へと漕ぎさってゆく舳の方位を。
(戦後版「橋上の人」『鮎川信夫全集Ⅰ』)
戦中版で橋上の人が見ているのは「啼泣する樹木や/石で作られた涯しない屋根の町」で、数寄屋橋辺りの柳とか銀座の街を連想させますが、戦後版では「重たい不安と倦怠と/石でかためた屋根の街」と、街が何となく戦後的なイメージに変わっている。同じシチュエーションで、同じ人なんだけど、見ている風景が違うんです。それから、戦中版では「櫂で虚を打ちながら 必死に進む舳の方位を」と流れに逆らって必死にボートを漕いでいるのに、戦後版では「櫂で虚空を打ちながら、/下へ、下へと漕ぎさってゆく舳の方位を」と下流に向かって漕ぎ去って行っちゃうんですよ。これはおもしろい改作の仕方ですね。
鶴山 なるほどね。
池上 『最後のコラム』の中の文章で、鮎川信夫は「戦前のことだが、新橋の土橋にあったボートを借りて、数寄屋橋から日本橋にかけて掘割を一巡したのである。そのとき受けた衝撃は、それまで街について抱いていたイメージを一変させるものであった。「橋上の人」という詩を書いたのは、その経験が土台になっている」(「都市空間としての東京」)と書いています。「新橋」も「土橋」も「数寄屋橋」も「日本橋」もいまでは土地の名前になっていますが、元々は「橋」の名前なんです。東京の風景が、道路網を中心とした街のイメージから、多くの掘割、つまり水路がめぐらされた街のイメージに一変したことに衝撃を受けたんですね。だから「橋」の原イメージは隅田川に架かる永代橋のような大きな鉄橋じゃなくて、昭和初期の数寄屋橋のような石造りの橋なんですよ。
戦後版の「橋上の人」には「運河」という言葉が出てきますが、昔の東京には人工的に造られた掘割、つまり運河が張りめぐらされていて、あちこちに貸しボート屋さんがあったんです。現在でも紀尾井町に「弁慶橋ボート場」がありますけれど、あんな感じなんですよ。手漕ぎボートに乗って、澱んだ掘割を回ったんでしょうね。有名な「繋船ホテルの朝の歌」の最後の三行は「おれには掘割のそばに立っている人影が/胸をえぐられ/永遠に吠えることのない狼に見えてくる」なんですが、ここでも「掘割」が出てきます。鮎川信夫にとっては、東京という街のイメージとして、「掘割」「運河」は重要なモチーフなんですね。
「橋上の人」という詩は、一読しただけではよくわからないところが多いので、今回、ぼくは先ほど引用した戦後版の冒頭のところを、あえて逐語的に読んでみました。ただし、これはあくまで自分自身が理解するための読みなので、これが正しい読みだということではありません。
この詩は「彼方の岸をのぞみながら/澄みきった空の橋上の人よ、/汗と油の溝渠のうえに、/よごれた幻の都市が聳えている。」と始まります。「彼方の岸をのぞみ」というのは、空間的に遠くにある川か海の向こう岸を見ているというイメージですね。文字どおりに読めば、「遠く離れた岸を眺めながら、澄んだ空の下で橋の上に立っている人よ、」「汗と油の溝渠のうえに、/よごれた幻の都市が聳えている。」と呼び掛けているわけです。「溝渠」というのは、給排水のための溝、水路のことです。溝渠は、暗渠になっているものもありますし、オープンになっているものもあります。「汗と油の溝渠」ですから、工場の排水を流す水路のようなイメージですね。「よごれた幻の都市」という言葉からは、空気の汚い都会、つまり高度成長期の東京のような都市をイメージします。汚い水が流れる暗渠の上にそびえ立つ汚れた幻の都市の存在を、澄んだ空の下で佇む「橋上の人」に伝えようとしていると、ぼくは読みました。
次は「重たい不安と倦怠と/石でかためた屋根の街の/はるか、地下を潜りぬける運河の流れ、」と書かれています。「重たい不安と倦怠と/石でかためた屋根の街」ですから、ビルが建ち並ぶ戦後の街を高いところから見ているイメージでしょうか。街の「はるか、地下を潜りぬける運河の流れ、」ということは、運河は暗渠を流れているわけですね。竹内宏の『路地裏の文明開化─新橋ロマン物語』という本には、「溜池から第一ホテルの地下にかけては、雨水等を流すための巨大な地下水道があり、それは運河と繋がっていた」という話が出てきます。この話をヒントにして、「地下を潜りぬける運河の流れ」というのは、地下水道を通り抜けて地上の運河につながっていく流れとぼくはイメージしました。
そして「見よ、澱んだ「時」をかきわけ、/櫂で虚空を打ちながら、/下へ、下へと漕ぎさってゆく舳の方位を。」です。「橋上の人」はもちろん運河に架かる橋の上に立っている人のイメージでいいのですが、冒頭で描かれているのは、地下の運河の流れです。つまり、「橋上の人よ」と語りかけている人に見えている幻の都市の地下を流れる運河なんです。幻の都市は溝渠の上にそびえている。つまり、この溝渠は「橋上の人」の眼下にある運河でもあり、中空に浮かぶ幻の都市の地下の運河でもあるんです。ぼくは、最初にこの詩を読んだときには、この運河の二重性には気づきませんでした。
橋上の人からは幻の都市の運河で手漕ぎボートを櫂で漕いでいる人の姿は見えていないから、「見よ、澱んだ「時」をかきわけ、/櫂で虚空を打ちながら、/下へ、下へと漕ぎさってゆく舳の方位を。」と「橋上の人」に呼びかけているわけです。もし運河の上でボートを漕いでいる人がいたら、橋の上に立っていれば「見よ、」って言われなくても見えますよね(笑)。「見よ、澱んだ「時」をかきわけ、/櫂で虚空を打ちながら、/下へ、下へと漕ぎさってゆく舳の方位を。」というのは、停滞した時間を抜け出して幻の運河を下流に漕ぎ去って行くボートが進む方向を見よ、という強い指示です。幻の運河だから、櫂は「虚空」を打っているんです。下流に漕ぎ去るボートの舳先の方位にあるのは、海ですよね。「日本」という定点に立ちながら「世界」を見よ、と「橋上の人」に語り掛けていると読んでみました。深読みしすぎですかね(笑)。
テキストを逐語的に読んだら、こういう解釈になっちゃたんですが、鮎川信夫自身は詩の中の「橋」について、髙田三郎作曲の混声合唱組曲「橋上の人」に寄せた序文で「幻の都市に架けられた冷たい石の橋」と書いています。この作者のイメージを前提にして読めば、「澄みきった空の橋上の人」というのは「空中にある橋の上に立っている人」という意味になります。つまり、「橋上の人」は最初から幻の都市にいるんですよ。「橋上の人よ」と語りかけている人は、おそらく運河に架けられた橋の上に立っているのでしょうが、「橋上の人」はその人のイメージの中の幻影なんです。「澄みきった空の」の「の」をどう読むかで、詩全体の解釈がまったく異なってしまうんですね。先ほど示したぼくの読みのように「空の」を「空の下の」と読めば、「橋上の人」は運河の上に架けられた橋の上に立っていることになり、「空の」を「空にいる」と読めば、「橋上の人」は幻の都市に架けられた橋の上に立っていることになります。作者のイメージを尊重すれば、「橋上にいる人」が「幻の都市にいる橋上の人」について思いをめぐらせている詩ということになるでしょうね。
実は、ぼく自身の解釈はちょっと違うんですよ。戦前の東京の街に張りめぐらされていた運河の多くは、戦後、瓦礫処理のために埋め立てられたり、暗渠になったんです。「新橋」も「土橋」も道路になっちゃって、いまは地名ですよね。だから、戦後版の「橋上の人」が立っていたのは、暗渠の上だったんじゃないかと想像しているんです。詩の中で「橋上の人よ」と語りかけている人からは、「橋上の人」がまだ運河に架かる橋の上に留まったままに思えるんです。澱んだ「時」にいる「橋上の人」に、もう地上には運河なんてないんだと「現在」から呼び掛けているんです。この時間の交錯が、「橋上の人」をかつてないすぐれた作品にしているのだと思います。しかも、現実には、一九六四年の東京オリンピックを前に、日本橋川の上に高速道路が建設されました。溝渠に上にそびえ立つ幻の都市が、現実の都市になったんです。まさに戦後版の「橋上の人」は、過去と未来の間の「現在」に立っていたんです。だけど、二〇四〇年までには日本橋川の上を走る首都高は撤去されて地下化されるんですよね。今度は本当に幻の都市になるという(笑)。「橋上の人」はやっぱり未完の作品ですね。
池上晴之
鶴山 鮎川さんが自分の詩は完成していない、未完成だと言っているのは本当のことで、詩集の出し方を見ても、『1945―1965』とか『1937―1970』とか、書いた期間でまとめています。発表順にまとめた詩集もあります。普通、詩人は一冊ごとにテーマを決めて、それがタイトルになるわけですが、鮎川さんにはそれがない。まあある意味、勝手に読んでくれという投げやりな姿勢だよね。でも逆に言うと、一篇の詩だけを正確に読んでもらえれば、それでいいんだということでもあると思います。
ただ「橋上の人」という詩は、「橋上の人よ」というリフレーンで書かれているんだけど、使い方が特殊です。リフレーンの手法は、普通は詩の最初の行にそれを持ってくる。鮎川さんもそのやり方でリフレーンを使っている詩があるんだけど、「橋上の人」はそうなっていない。もちろん読み通せば「橋上の人よ」というリフレーンが強く印象に残るわけですが、その登場の仕方がランダムです。これは、書くのが苦しい時にしか出ない、使わないやり方です。
要するに、何か違うことを書こう、前に書いたことを違う方向に発展させようとするんだけど、どうしてもできない時に、「橋上の人よ」というリフレーンに戻る。定点に戻ってくる。鮎川さんは詰まった時に「橋上の人よ」というリフレーンを使っています。リフレーンの使い方を見れば、この詩はかなり苦しい書き方をしていて、苦しく表現しにくいことを、なんとか表現しようとしているのがわかると思います。
池上 このような詩を、現在のわれわれはどういうふうに読んだらいいんでしょうね。いろんな補助線を引いて読まなきゃいけないのか、それともそんなことは考えずに、素直に読めばいいのか。
鶴山 基本的には素直に読んでいいんだけど、ある程度の補助線を引かなければ、鮎川信夫という詩人の詩は、正確に理解できないと思います。田村隆一の詩のように理解するのは難しいと思う。
田村さんは「おれは垂直的人間」という詩の一行を直観的に感受できれば、彼の詩の全体をおおかまに把握できます。鮎川さんの「橋上の人よ」というリフレーンは呼びかけだから、呼びかけに答える気持ちがなければ理解できない。
鮎川さんは、ハッキリ言えば死にぞこないですから。彼は従軍した時に、死ぬだろうと思っていた、死んでもいいとも思っていた。親友の森川がすでに戦死していたからね。だからいろんなところでしきりに書いているよね、死んだ人間はその死が必然なんだけど、自分が生き残ったのは偶然だと。自分はたまたま生き残っただけだという意識は彼の中で非常に強い。だけど戦死した友だちの死は必然で意味がある。それだけが確かなものだ。その偶然に生き残った人間が、たまたま書いた詩が、かなりの量になりますが、鮎川信夫詩集としてまとめられていった。だから鮎川さんの詩の書き方、まとめ方は、投げやりに見えますけど、一球入魂的でもある。鮎川さんの詩は、「橋上の人」も含めて、俳句評釈的に読もうと思えば、彼の実人生に即して読み解くことができます。それがすべてではないけどね。「橋上の人」という詩の苦しさは、戦後版のⅦ章にハッキリ表現されています。
Ⅶ
父よ、
悲しい父よ、
貴方がいなくなってから、
がらんとした心の部屋で、
空いた椅子がいつまでも帰らぬ人を待っています。
寒さに震えながら、
貴方に叛いたわたしは、
火のない暖炉に向いあっています。
父よ、
寂しい父よ、
わたしはひとりです。
妻も子もなく、この広い都会の片隅で、
固いパンを囓っています。
わたしは貧しい、
わたしは病んでいる、
貴方がわたしに下さったものはこれだけですか。
父よ、
大いなる父よ、
わたしはどこまでも愚かですから、
貴方の深い慈悲と知慧とを理解できません。
あてもなく街をさまよいながら、
わたしは今にも倒れそうになって、
ぼんやり空を眺めます。
貴方がいらっしゃるあたりは、
いつも天使の悪い呼吸で曇っています。
父よ、
大いなる父よ、
十一月の寒空に、わたしはオーバーもなく、
橋の上に佇みながら、
暗くなってゆく運河を見つめています。
教えて下さい、
父よ、大いなる父よ、
わたしにはまだ罪が足りないのですか、
わたしの悲惨は貴方の栄光なのですか。
(戦後版「橋上の人」『鮎川信夫全集Ⅰ』)
このⅦは、「橋上の人」という長詩の中で、一番弱音を吐いている章であり、詩の全体的トーンが崩れている章でもあります。まず唐突に現れる「父」って誰だよ、って読んだ人はみな思いますよね。普通に考えれば、キリストのような全能の存在を措定せざるを得ません。だけど鮎川さんはキリスト教徒ではない。宗教自体、嫌いだった。Ⅶが戦中バージョンと一番違う章で、戦中バージョンの一貫したトーンと内容に即せば削ってしまった方がいいんじゃないかって章なんだけど、残した。逆に言えば、この異質な章を書きたかったから戦後に改作したと受けとれないこともない。
これは俳句評釈的な、鮎川さんの実人生に即した読み方だけど、Ⅶに現れる「父」は鮎川さんの実父だと捉えることは可能です。鮎川さんはお父さんについて、体制側の一種の農本主義者であり、天皇中心社会と農本的な日本を理想としていた人だと書いています。大政翼賛的な農本主義雑誌を細々と出していて、それでも厳しい検閲は受けていたけどね。そんなお父さんに反発して、徹底して違う道を行くのが青年期の自分のあり方だったとも書いている。
そんな実人生を前提とすれば、「わたしは貧しい、/わたしは病んでいる、/貴方がわたしに下さったものはこれだけですか。」といった詩行は簡単に読み解ける。鮎川さんは父親を反面教師として独自の思想を育みまったく違う道を行った。しかしその道は貧しい。一種の病でもある。じゃあお父さんが正しかったのかというと、「貴方がいらっしゃるあたりは、/いつも天使の悪い呼吸で曇っています。」になる。お父さんは、鮎川さんが決して肯うことのできない皇国思想の持ち主だったわけですが、でも理想があったのは幸せなことで、亡くなったら天国にいるのかもしれない。だけどそこは「いつも天使の悪い呼吸で曇って」るじゃないかと。
それは鮎川さんの同時代の仲間や知り合いたちにも言えることなんだ。みな生きる希望を欲している。敗戦時の強烈な絶望と挫折感に浸っていることなんてできない。理想に向かって邁進する美しい自分でありたい。戦前はそれが皇国主義であり、戦後にはそれが日共や革命幻想などになる。だけど鮎川さんはそんな理想は信じない。「父よ、大いなる父よ、/わたしにはまだ罪が足りないのですか、/わたしの悲惨は貴方の栄光なのですか。」と弱音と呪詛の言葉を吐きながら橋の上に留まっている。まあこれは一つの読みですが、遠からずだと思います。だけど詩だけ読んで、こんな解釈は出来ない。で、最終章でまた詩は転調する。
Ⅷ
橋上の人よ、
美の終わりには、
方位はなかった、
花火も夢もなかった、
「時」も「追憶」もなかった、
泉もなければ、流れゆく雲もなかった、
悲惨もなければ、栄光もなかった。
橋上の人よ、
あなたの內にも、
あなたの外にも夜がきた。
生と死の影が重なり、
生ける死者たちが空中を歩きまわる夜がきた。
あなたの內にも、
あなたの外にも灯がともる。
生と死の予感におののく魂のように、
そのひとつひとつが瞬いて、
死者の侵入を防ぐのだ。
橋上の人よ、
彼方の岸に灯がついた、
幻の都市に灯がついた、
運河の上にも灯がついた、
おびただしい灯の窓が、高架線の上を走ってゆく。
おびただしい灯の窓が、高く夜空をのぼってゆく。
そのひとつひとつが瞬いて、
あなたの內にも、あなたの外にも灯がともり、
生と死の予感におののく魂のように、
そのひとつひとつが瞬いて、
そのひとつひとつが消えかかる、
橋上の人よ。
(戦後版「橋上の人」『鮎川信夫全集Ⅰ』)
「父よ」で終われないのは当然だから、また「橋上」に戻ってくるわけだけど、「橋上の人」は鮎川さんの詩の中で一番長い部類で二二九行ある。Ⅶ章までにすでに二百行書いているわけですが、それでもまとまりがつかない。
Ⅷには「橋上の人よ」というリフレーンが頻出します。「橋上の人よ」と繰り返すことでなんとか言葉を絞り出しています。でも何もないんだ。「橋上の人よ、/美の終わりには、/方位はなかった、/花火も夢もなかった、」と「ない」が繰り返される。夜になり、「生ける死者たちが空中を歩きまわる夜がきた。」は鮎川さんの実感でしょうね。「あなたの內にも、/あなたの外にも灯がともる。/生と死の予感におののく魂のように、/そのひとつひとつが瞬いて、/死者の侵入を防ぐのだ。」というのは、だから俺は自殺しないんだと読み解くこともできます。此岸と彼岸の灯は等価だからです。鮎川さんは生きながら彼岸の灯を見つめ、死者たちは彼岸から此岸の灯を見つめている。
最後は「あなたの內にも、あなたの外にも灯がともり、/生と死の予感におののく魂のように、/そのひとつひとつが瞬いて、/そのひとつひとつが消えかかる、/橋上の人よ。」ですが、これはきりがない。此岸の灯も彼岸の灯も瞬き消えかかるけど、見え続けるに決まっている。未完成の詩だというのはそういうことです。
ただ意味的に細かく分析せず漠然と読んだとしても、この詩の「橋上の人よ」というリフレーンだけは読者の印象に残ると思います。要するに鮎川信夫という詩人はずっと絶望的な橋の上に立っている。
池上さんがおっしゃったように『荒地詩集』を読めば、一九五一年から五三年くらいまでは、多くの詩人が「橋上の人」的な詩を書いています。でもその後もずっと「橋上の人」でい続けたのは、鮎川さんだけじゃないかな。
鶴山裕司
池上 この詩を読むたびに思うんですけれど、「橋上の人よ」と呼びかけている人は、どこに立っているんでしょうね。
鶴山 「橋上の人よ」というのは、もちろん鮎川さん自身のペルソナ、影に対する呼びかけなんだけれども、それは、自分と同じく橋の上に立って動けない読者に対しての呼びかけでもあると思います。『荒地詩集 1951』冒頭の「Xへの献辞」と同じです。あれも「親愛なるX・・・・」と、自分たちと同じ思想、心性を持っているはずの読者への呼びかけで始まります。「Xへの献辞」は「荒地」の同人が集まって共同で作ったと言われていますが、どう読んでも鮎川さんの文章ですね。
池上 いろいろな証言があるみたいですが、鮎川信夫が元の文章を書き、それを同人の中心メンバーが読んで、ちょっと単語を直したという感じだったんでしょうね。おもしろいのはね、「Xへの献辞」の主語は最初は「僕達」なんですよ。少しすると「僕等」が出て来て、基本的には「僕達」「僕等」が主語で進んで行きます。だけど、途中ところどころで「我々」が出てくるんですよ。ここは誰かが手を入れたんじゃないかなと(笑)。でね、最後の段落は「親愛なるX・・・・。僕は君に向つて語つているつもりであつたが、いつか自分自身と話し込んでしまつたらしい。しかし僕が手短かに僕達の荒地について語つたことは大体了解してくれたことだろう」と始まるんです。ここで、この文章を書いていたのは「僕等」じゃなくて「僕」だと白状しているわけ(笑)。ということは、自分自身と話している「僕」は、まさに鶴山さんがおっしゃるように「橋上の人」に自分で語りかけている鮎川信夫ですよね。
鶴山 「橋上の人」は詩の内容面でもテクニック面でも、決してスマートな詩ではない。内容面で言うと矛盾したことがいっぱい書かれていますよね。リフレーンの使い方もこなれない。ただ極論を言えば、この詩は「橋上の人よ」としか言っていない。伝えたいことはそれだけなんだということは、読んだ人にもわかると思います。「橋上」に留まるというのはどういうことなのかを、一生懸命伝えようとしている。
池上 いま思い出したんですけれど、昔「無限アカデミー」という現代詩の講座があって、ぼくが大学生の頃に、鮎川信夫と北村太郎のふたりが対話したことがあったんです。で、その時鮎川信夫が、最近日本の現代詩を研究しているという外国人の女性からインタビューされたという話をしたんです。戦中の「橋上の人」と戦後の「橋上の人」のテクストを比べて細かな点まで質問されたんだけど、自分で見ても矛盾するところがあちこちにあったりして、ちょっと参っちゃったんだけどね、と言っていました(笑)。そういう意味では、鮎川信夫は緻密に作品を完成させようと思って改作を重ねたわけではないんでしょうね。
鶴山 特に「橋上の人」と「アメリカ」に関しては、本当に未完だと思います。変えようと思えば、いくらでも変えられたんじゃないかな。
池上 鮎川信夫にとっては、「橋上の人」も「アメリカ」も、ずっと「現在」の問題だったんだと思います。だから、その時々で手を入れたんでしょうし、終わりなき未完のテーマだったのだと思います。
詩篇「アメリカ」については、「「アメリカ」覚書」という解説文が付いていて、この詩の形成過程について鮎川信夫自身が長々と書いています。詩と評論の二部構成でひとつの作品として提示しているわけで、これはちょっと異様な作品ですよ。「アメリカ」は、間テクスト性というか、ほかの詩人の詩句などが相当使われています。本人は「覚書」で「引用」ではなく「剽窃」って言っているんですが、出典が明示されていないから、著作権法的に言えば「剽窃」が正しい言葉の使い方です(笑)。和歌の本歌取りと同じで、元の作品を知らないと表層的にしか読めないわけです。現代詩の中にも間テクスト性を使った作品がありますが、そういうアイデアはぼくは現在の表現としてはさほどおもしろいとは思わないですね。
もともと鮎川信夫は、T・S・エリオットの影響かと思いますが、手法として詩に他者のテキストを出典を明らかにせずに使っています。知ってる人が読めば、これはリルケだなとかわかるんですが、だからどうだってこともない。意図的にほかの人が書いた言葉を使ったり、わかる人が読めばわかるという暗号のような書き方をした本当の理由は、鮎川信夫はまた戦後日本の政治体制が変わって戦前、戦中のような状況になった時のことを想定していたのではないかとぼくは時々思うことがあるんです。
■戦後詩と現代詩■
鶴山 ちょっと個人的な話をさせていただくと、僕は大学に入ってすぐに入沢さんの詩を読んだんだけど、まったく理解できなかった。それはそれとして、そこから戦後詩を読み始めました。田村さんはとてもわかりやすかった。田村さんを糸口に石原吉郎、堀川正美、谷川雁、岩田宏、黒田喜夫あたりまでおさらいしたわけです。大学の先生に飯島さんや渋沢孝輔さんもいらしたので、現代詩も並行して読んでいました。で、当時出していた同人誌で吉岡実特集を組むことになって、吉岡詩を読んだ。それまで吉岡実の詩は読んだことがなかったんですね。当時もう『薬玉』が出ていましたから、そこまで射程に入れて吉岡実論を書こうとした。でも『神秘的な時代の詩』までしか読み解けなかった。『神秘的な時代の詩』の次が『サフラン摘み』、『夏の宴』、『薬玉』なんですが、『神秘的な時代の詩』と『サフラン摘み』の間に、ハッキリ断絶線があると感じました。
なぜかと言うと、吉岡詩は『神秘的な時代の詩』までは戦後詩なんです。『サフラン摘み』以降の詩は戦後詩とは違う審級に入っている。ポスト戦後詩でありポスト現代詩です。そこで吉岡が使った詩法が引用です。鮎川さんの詩は、中心に確固たる自我があります。戦後詩は作家の自我意識を表現の核にしていると言っていい。でも『サフラン摘み』以降の吉岡さんの詩は、自我が空虚化している。空虚化した自我意識を負の中心点にして、引用の手法で世界をパッチワークのように表現している。
僕は吉岡的な詩法の上に、詩の未来はあるだろうと思った。それで引用の手法を使って『東方の書』や『国書』という詩集を書いたんだけど、時代の流れが僕の予想より遙かに速くてね。『東方の書』や『国書』の書き方は現代詩です。もうそれが通用しなくなってることに、『国書』を出してしばらくして気づいた。愚図だよね(笑)。それでガラッと書き方を変えて『おこりんぼうの王様』や『聖遠耳』を書いたんです。
これは現代社会分析も入るけど、今の詩に必要なのはポピュラリティと前衛性です。ただでさえ少なかった詩の読者がいなくなった時代に、理由はあるにせよ、意図的に難解に書かれた現代詩を根気よく読んでくれるほど、現代の読者はヒマでも親切でもない。読者が「なんだこれ」と首をひねるような現代詩的書き方を続けるのは自殺行為です。まあもう詩は死に体かもしれないけどね(笑)。でも先祖返りの単純な抒情詩であってもいけない。また自由詩は日本文学のパイロット文学、新しい表現領域を切り拓く文学という役割を失えば、アイデンティティが崩壊すると思います。ポピュラリティと前衛性という、相反するものが求められている。
で、こういった難しい状況の中で、戦後詩から何を学べばいいのかと言うと、思想のない新たな表現はあり得ないということです。詩は言葉遊び、言葉弄りであり、修辞をいじれば詩になると思っている人がすごく多いわけだけど、そんなんでダメになっていった詩人は、もう腐るほど見ています。苦労してでも中心になる思想を見定めないと、新しい詩はもちろん、詩を書き続けることすらできないと思います。この思想が正確に現代と対応していれば、個々にバラバラの詩人たちを繋ぐパラダイムができるでしょうね。池上さんが『荒地詩集1951』に感じたような精神の共同体ね。詩人たちの共通パラダイムのようなもの、と言った方が正確かな。
池上 ぼくが考える精神の共同体っていうのは、本質的に時代性とは関係がないんですよ。精神の共同体は、いつの時代にあってもそのあり方そのものが重要なんだ、そこに価値があるんじゃないかとぼくは思っているんです。それは、作る側だけでなく、読む側にとっての精神の共同体でもあるんです。鶴山さんがさっき、「橋上の人よ」は読者に呼びかけているんだとおっしゃいましたが、いまぼくが探していてなかなか見つからないのは、読者としての自分に深いところで語りかけてくるような作品です。そういう作品が、いちばん読みたいし、いつの時代でも必要だと思うんです。でもそういう作品が読者に届くためには、確固たる意志を持って「精神の架橋工作」をする人がいなくては届かない。「荒地」だって鮎川信夫がいたから、時代を超えて読者としてのぼくに田村隆一の詩が届いたんです。これこそが、精神の共同体なんです。
ただ、実際に読者に作品が届くまでには、「精神の架橋工作」だけではダメで、リアルな共同体が必要なんです。パブリッシャーがあって、さまざまなチャネルを通じて初めて作品が読者に届くんですよね。
鶴山 作家っていうのは、作品で思想や感情を発信していくしかないんですね。確かに作品を発表するプラットホームはとっても大事です。じゃあたとえば、誰かが総合文学的に間口の広いプラットホームを、いろんな作品を載せる発表の場を作ったとして、そこに作品を発表する作家の九九・九パーセントは、総合文学的プラットホームにどんな意義があるのか気づかない。自分の作品を発表できる場があってよかった、ありがとうってだけ。ただプラットホームのあり方によっては、0・1パーセントの作家がその意義に気づくかもしれない。その0・1パーセントの作家が決定的に優れた仕事を為す可能性はあります。作家が変わらなければ読者は変わらないからね。
それに創作者もどんどん変わっていきます。文学だって俗世の営みから逃れられないからね。ハッキリ言えば、ちょっといい仕事をした作家でも、時間が経てば裏切りと失望の連続でしょ。鮎川さんに「戦友」という詩があります。ええと、初出は一九六三年か。終戦から十八年後ですね。
やあ しばらく
もう忘れたと思っていたよ
二十年か
そんな遠くを見るような眼つきで
おれを見るな さあ握手
で始まる。戦友と二十年ぶりに再会した。まっ先に「もう忘れたと思っていたよ/そんな遠くを見るような眼つきで/おれを見るな」と言っている。つまりどっちかが変わってしまっている。もう他人だ。でも大人だから「さあ握手」と社交辞令を交わす。でもそんなんで済むわけがない。
あさましい利害関係のなかでたたかいながら
口真似のうまいおまえの仲間は
たぶん時代が悪いんだと異口同音に歌う
さびしい酒場の女たちを相手に
水が酒に 欲望がもっとたくさんの浪費にならないとこぼしている
と、どんどん鮎川さんの戦友批判は募ってゆく。最後は、
さらばだ 戦友
おれたちが本当に別れるのはこれがはじめてだが ユダの接吻はいらない
あばよ
です。こういう詩は鮎川さんにしか書けない。鮎川さんは、戦後二十年で変わってしまったのは、俺じゃなく、共に戦ったお前の方だと言っている。この詩を書いた時に、鮎川さんは漠然とであれ、かつての「荒地」の仲間を意識したと思うよ。かつて同じ精神の共同体を育んだ者たちでも、それから二十年も経てば、そんなものです。でも鮎川さんは変わらなかった。鮎川がずっと「荒地」の総帥だったのは、そこに理由がある。二十年、三十年経っても、鮎川さんのかつての「荒地」の仲間に対する批評はビックリするほど的確です。変わってしまった理由も、ほんのわずかな変わらない美点もわかっている。
池上 「ユダの接吻はいらない」というのは、かなりの表現ですよね。自分がイエスということなのか……でも、さすがにそんなことはないでしょうね。最初は自ら戦友に握手を求めていったのに、最後は戦友を裏切り者と断定したわけですよね。兵士であったことなど忘れたように振る舞う戦友の姿を目の当たりにして、自分は戦争で死んでいった友のためにも、こんなところで生ける屍になるわけにはいかない、もうこれからは独りで死者と共に生きていくんだ、という決意表明をしていて、高揚感すら感じさせる詩ですね。
鶴山 鮎川さんは「荒地」にしか責任を取っていない。鮎川さんは『戦中手記』で、「荒地」を同人誌の誌名ではなく、自分たちの精神風土そのものを表象する言葉として使っています。しつこく「われわれ」には共同体意識があるんだと書いている。「〝荒地〟は秘密結社や共済組合が存在してゐるやうに存在してゐたのではない。それは実にわれわれの本質そのもの、もっと自由な文化の享受と人間相互の共感の磁場として依存し合い、快楽を追求して憚らない若さの真摯な活力によってすべての行為が織りなされゆく独自の世界であった」と書いています。
でもさ、僕が『戦中手記』を読んだのは、それが発表されてから二十年も後でね。鮎川さんが『戦中手記』で書いたような〝荒地〟の共同体意識なんて詩の世界のどこにもなかったよ。「荒地」の主要な詩人を見回しても、黒田さんと中桐さんはもう亡くなっていた。大酒飲みだったけど、お二人の奥様が書いた本を読むと、緩慢な自殺だったんじゃないかと思えるようなところがある。田村さんは独自路線を行っていたし、北村さん、三好さんはとっくに自分の個人的興味の方にレイドバックしてしまっていた。まあはっきり言って、北村さんや三好さんに詩人としての緊張感を感じたことはないね。鮎川さんや田村さんは怖かったけど(笑)。
「荒地」という運動体を考えれば、誰が見たって代表的詩人は田村隆一で、突出した思想家は吉本隆明です。だけど同時代を生きた人たちは、口を揃えて「「荒地」は鮎川だよ」って言う。『戦中手記』の頃から鮎川信夫はぜんぜん変わらなかったからです。それは鮎川信夫全集や彼の友人たちの著作を読まなければ、今ではわかりにくいですよね。
(金魚屋スタジオにて収録 下編に続く)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
*『対話 日本の詩の原理』は毎月01か03日にアップされます。
■対話への反響と要望■
「鮎川信夫はじめ、わかりづらい戦後詩の生身の姿が見えてきました。」(K.M.)
「俳句についての話をニヤニヤしながら読みました。取り上げられている詩人の詩も読んでみたいと思います。」(I.Y.)
「今回の対談の先に垣根を越えた詩の統合ポイント、新たな詩のあり方が見えてくるのか、気になります。」(F.M.)
「現代詩と俳句や短歌との比較のくだりを特に面白く読みました。」(F.Y.)
「対談には隙がないほどの情熱を感じました。「プレバト!!」の話が出てきて、やっとひと息つきました。」(M.Y.)
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