ロベール・クートラス『聖母子像』
「キッチンで使う回転用の台はありますか
ターンテーブルのような」
お店のロゴが入ったエプロンの女性はしばらく考え
「聞いてきます」とレジに歩いていった
「なぜそれが必要なんですか」とは言わない
問われても答えはきまっている
大事なことはこの世にひとつもなくて
なにが起ころうとも世界は続いてゆく
歓びは天恵のように空から舞い降りて
淡雪のように溶けて流れて消えてゆく
「ありません」
彼女の声を聞く前からわかっていたような気がする
高層ホテルの プリンスペペの
真っ直ぐなエスカレーターに運ばれてゆく
新横浜には書店がまだ三つある
雑誌と参考書とマンガと実用書の棚
「ありません」
今度は声に出してたずねなかった
窓があればいいのにと思う
箱の中が好きなくせに
箱に入ると窓があればいいと思う
プリンスペペを出て駅前に戻り
入り口に漢字とアルファベットとカタカナの看板が並ぶ
雑居ビルのウエンディーズに入る
ファストフードとしては値段が高めで
少しだけ静かだから
頼んだのはベーコンエッグバーガーとコーヒー
「たいていの人は なにも気づかない
気づいたとしても なにも気にしない」
白衣にカーディガンをはおった二人の女性が
顔を近づけて楽しそうに笑う
環状二号線を歩いてゆく
東京に比べれば実にささやかな
喧噪から離れてゆく
愛鶏園の大きな赤い看板の前を過ぎれば
団地はすぐそこだ
なにが欲しくてここに来た
静けさが欲しいなら
お前はもう海の底のように静かじゃないか
波はいつも高くて鈍色をしていた
複数の時間
夜と昼が
冬と夏が同居する
共生の夢
星を追いかける夢
「いつ帰るの?」
「帰って来ることがあるの?」
黙っているじっと耐える
どこにも戻る必要がない
ここは聖なる土地だ
車を停めると斜向かいに光る109が見える
渋谷のスクランブル交差点を走ると少し緊張する
テレビでよく見る場所だから
夢見ていた方がいい
地に足をつけない限り 夢は壊れない
三軒茶屋を走っていると
コインランドリーの光の中に
若い男女が座っているのが見えた
店の中で離れて座っていた
誰かを本当に不幸にできない人は
本当に幸福にすることもできない
昨日読んだアル中で
ジャンキーだったアメリカの女性作家がそう書いていた
あなたがいなくて寂しい
そうも書いていた
風が強い日だった
消防団の制服を着た伯父が何度もマッチを擦り
やっとのことでロウソクに火を灯した
少年の背中を押して
「あの燈籠の中に立ててこい」
有無を言わせぬ口調で言った
手をかざしてゆっくり運ぶ
諏訪神社の森がザッと鳴り
ひときわ明るく芯が光ると
フッと消えてしまった
伯父は同じ制服を着た仲間と話していた
「消えたか」
またマッチを擦って火をつける
ずっと話し続けている
町で三件葬式を出して
一件結婚式があった
ロウソクに火をつけながら伯父が話すのを聞いた
玉砂利を踏んで歩いてゆく
何度やっても消えてしまう
「ちゃんと運べ」
手の平が熱い
なんのためにこんなことをさせられるのか
わからない
指が焼けるほど熱い上の方を持ち
両手で包み込むようにして運ぶ
消えませんように消えませんようにと祈っている
それだけを祈る祈り続ける
燈籠のガラス扉を開け
そっとロウソク立てに差し込む
急いで扉を閉める
ガラスの向こうでロウソクの火が揺れる
石の箱の中で明るい光が揺れる
祖母が亡くなった
一九七四年の寒い十二月の夜だった
仕事場の窓から武蔵小杉の高層マンション群が
そのずっと向こうに東京スカイツリーが見える
机に座るとちょうど目の高さにある
昼間晴れていると展望台のガラスが光る
夜になると青や赤の光が点滅する
明日はクリスマスイブだから
とてもとても遠くに
豪華なイルミネーションが煌めくだろう
岩瀬浜には白灯台と赤灯台があって
白灯台は十メートル以上だが
赤灯台は信号機ほどの高さだ
桟橋も二人並んで歩くのがやっとで
夜そこに出かけるのは
高校生にはとてつもない冒険だった
いっしょに行った陽気なサッカー部の友だちが
切ない恋心を打ち明けた
相手は他校の生徒だった
その子のことが好きな女友だちに
「見込みなさそうだよ」と言うとうつむいた
タロット占いが好きな女の子だった
「だから運命の輪が出ないのね」
ポツリと言った
東岩瀬駅でライトレールを降りて
母親の実家のお墓がある正源寺に行く
墓石には明治二年 古米屋と刻まれている
母親は十年前に右足を骨折し
二年前に左足を骨折して
亡くなる三カ月前に正源寺に墓参りに行って
転倒して脊椎を圧迫骨折した
亡くなってから父親に
転倒したのは墓参りする前か後かと聞いた
「お墓にはちゃんと参ったよ」
人が亡くなる前に思い浮かべるのは
伴侶でも子どもたちでもなく
父母なのではないかと思う
十八歲から珠算を教え続けた母親は
入院するたびに「もう塾はやめる」と言ったが
亡くなる直前までやめなかった
実家に帰ると「お帰り」と笑って
静かに椅子に腰掛けている
学校を終えた生徒たちが来るのを待っている
生と死を隔てる壁が
なくなってゆく
でもアクリルのような透明な箱がある
箱の中を見ると 母親がポツンと座っている
生徒たちが来るのを待っている
すべて古びてゆく
実家もいずれなくなる
アクリルのような透明な箱だけが残る
その中に 母親がポツンと座っている
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