宋(ソン)美雨(メイユー)は民主派雑誌を刊行する両親に育てられた。祖国の民主化に貢献するため民主派のサラブレッドとして日本に留学するはずだった。しかし母親は美雨を空港ではなく高い壁に囲まれた学校に連れていった。そこには美雨と同じ顔をしたクローン少女たちがいた。両親は当局のスパイだったのか、クローンスクールを運営する当局の目的は何か。人間の個性と自由を問いかける問題作!
by 金魚屋編集部
プロローグ
あの一帯に風は届かない。高層ビルを覆うガスはあまりに厚く、郊外から眺めると、白濁した液体に浸かっているかのようだ。サミット中はホスト役のメンツを保つために規制を強化し、仮初のスカイブルーを上天に塗ってみせたのだが。
宋美雨は助手席に深く座り直し、運転中の母親を盗み見た。環状線が迫ってくるなり、表情は石のように変わっていた。一粒種の娘が高校卒業を機に日本へ留学する、その心情ばかりではないはずだ。ここから先は両親にとって特別なエリアである。民主派雑誌を出版し、日本かぶれなら当然だろう。
意外だったのは、役所から通行許可が下りたことだ。両親は、何日もまえから窓口に通い詰める覚悟でいたらしい。通常なら、党幹部の「住処」である中南海に接近するような行為が認められるはずもなかった。例外的に許されたのは留学という理由からではないか。
党は恐れている。民主派の明日を担える、そんな逸材の出現を。美雨はサラブレッドであり、候補になり得る存在だ。海外へ出るのは願ってもないことなのだ。今後は、国家転覆云々を理由にして、二度と入国させない措置も発動できるのだから。
これまで多くの民主派知識人が圧力と暴力に屈し、国外脱出を余儀なくされてきた。彼らは活動し続けているが、国内で活動する影響力に比べれば雲泥の差だ。しかも、ある程度の安全が約束されている海外でのアクションは揶揄の対象にさえなる。民主活動の一枚岩を崩せるという意味でも、闘士の卵を海外へ送ることは喜ばしいことなのだった。
だからこそ美雨の心は波立った。ここに活動拠点を置き続ける両親は、明日にも逮捕されるかもしれない。
美雨は慌てて手すりに助けを求めた。左折。ここで? 国際空港は直進した先なのに。
環状線の使用は認められたが、長安街近辺には入りこめないということか。あるいは活動家としての反射神経のせいか。易々と許されたのはじつは罠であって、母娘ともども一網打尽にする算段かもしれない。母は土壇場になってそれを恐れたのだろうか。
尋ねようにも、フロントガラスを砕かんばかりの視線が拒んでいた。どこにどんな仕掛けが張り巡らされているかわからない。神経を研ぐ必要がある。あなたのためなの。そう念を押されている気がした。
迂回するつもりなのだろう。
大丈夫。美雨は唱えた。搭乗時間まで、まだ余裕がある。
公園とゴルフ場が流れる景色の一部となって過ぎていく。往来が減り、田園地帯に囲まれたとき、空の様子が一変していることに気づいた。前途を兆した青だと信じたかったが、母は操られたようにアクセルを吹かしている。右折する気配はなく、ひたすらに北上していく。そればかりではない。いつしか一本道に変わっていたのだ。
空港の場所は事前に調べておいた。留学が決まってから何度も確認してきた。目を閉じれば自宅アパートからの全ルートが瞼に浮かんでくる。いま走っているコースは見事に外れていた。警戒心に冒され、羅針盤を狂わせてしまったとしか考えられない。
口を開きかけたときだった。母の唇が動いた。「テロが心配だから」。年初に起きた事件のことを言っているのだろう。少数民族の一味が逮捕され、アジトから膨大な計画書が発見されたのだ。国際空港襲撃も含まれていたらしい。だとすれば国内便を乗り継ぎ、べつの国際空港から向かうということか。美雨の脳内マップは、しかし、ハザードランプを灯し続けていた。地方空港へ向かうなら北上は考えられないからだ。
もしかしたらという思いはあった。民主派のサラブレッドをどう扱うかという点だ。特別監視がついたヘリか何かで「輸送」することもあり得ない話ではないだろう。一般客との接触を最小限に抑えるならそれが手っ取り早い。
いや、それなら父の言葉に矛盾する。彼は出張中で、急きょ、母が運転手役を任された。なんとかスケジュールを調整し、空港での見送りには間に合わせると言っていたのだ。あれは餞代わりの慰めか。一人旅の不安を察した上での、できない約束だったのか。
日本と日本語を教えてくれたのは父だった。大学で日本語科を専攻したことをきっかけに、留学中の日本人と触れ合う機会に恵まれた。彼らを通じて歴史と文化と人心に触れ、魅せられてしまったのだという。卒業後も影響は続き、座禅を教える道場に通い詰めた。信仰を禁じる国内にあっては隠密サークルだったが、そこで妻となる女性と出会った。彼女の紹介で集まった同志たちとともに、念願だった雑誌社を立ち上げることにもなる。
父は嘘を吐く人ではない。日本人から学んだ実直さと高潔さを誌面に落とし、一党独裁の下敷きになっている市民へ訴えかけた。彼らの心を奮わせることが真の喜びだった。
田園風景を抜け、美雨は前のめりになった。屋根付きの塀が出迎えるように続いている。高さは二メートルほどだが、奥にある建物を完全に遮蔽するには低すぎた。数え切れないほどのビニールハウスと、一定の間隔で設けられている棟が見えた。冠のように照明を装着した屋根が印象的で、塀からはかなりの距離がある。内側の奥行きは相当に広い。
首都郊外には田畑がある。しかし、これほど高く長い塀を張り巡らせた場所は見たことがなかった。しかも、付近の水田から完全に切り離されているのだ。塀の終点に来てわかったのは、その農場が一キロメートル四方の正方形状になっているということだ。
思わず口を押さえた。東に期待した光景が見えたのだ。空港である。脳内マップがパニックに陥っていた。こんな場所に地方空港など記載されてはいなかった。
分厚い体躯をしたヘリが見えた。迷彩柄で統一された戦闘機も並んでいる。枯れ草のような色をした管制塔が奥にあった。軍用施設。一般市民が乗り降りできる空港ではない。
やはり特別監視下で移動させられるということか。だとすれば、両親が入りこめる場所ではないのだ。施設の手前で降ろされ、拘束される。母のすすり泣きを聞かされながらヘリに詰めこまれる。もちろん、父は現れない。
民主派への嫌がらせとしては最適で爽快な方法だ。そんな最悪の想像が、母の口を重くするのだろう。娘が再帰国できない立場に追いやられるなら、これが今生の別れになるかもしれない。父が見送りを避けたのは責任を感じたからではないか。娘が切望する自由世界は、一時間の時差で行ける場所に存在する。そこはユートピアではなく、確かにあると紹介した張本人なのだから。
風の勢いは強まるばかりだ。砂が窓をたたき、空港の風景を煙幕に変えた。母は刻々と変わる景色には無頓着だったが、砂嵐に入るや思い出したようにアクセルを踏みこんだ。
東に向かおうとしていない。顔が冷えていくのを感じた。みすみす娘を手放すくらいなら、全身全霊で説得し、夢を諦めさせる。自分たちのもとで教育し、立派な闘士に大成させると思い直したのだろうか。
車が急停止した。風は止み、巨人の手で払われたように土煙が姿を消した。それなのに、あれほど高かった陽射しが弱い。一本道に暗がりができている。辺りを染める影だった。
美雨は窓を開けた。風を遮ったのは巨人の手ではなかった。紫禁城さえ隠れてしまいそうな壁が聳えていたのだ。
壁の麓にスーツ姿の男女がいる。目を疑った。父が混じっていた。
父は母を一瞥しただけで、助手席から視線を離さなかった。娘が出てくるのを待っている。壁の向こうに空港があるのなら、あの男女が特別監視役か。それにしては妙だ。父が彼らと並んでいる。そんなことを許される立場ではない。
痺れを切らした様子で父が歩み寄ってきた。近づいてくる顔は強張って見えた。思春期の娘をまえにしても凪のような態度で接し、いつしかこちらの無分別な苛立ちを鎮めてしまう。そんな芸当の持ち主が、すぐそこに限界が迫っているような目つきで向かってくる。
美雨はドアを開けた。耐えられなかったからだ。父は窒息寸前に見えた。
手首を掴まれた。こっちへ来いと力の強さで告げている。
「でも、荷物が」
「必要ない」
目眩がした。屈したのか。あの父が。
「今日から、ここで学ぶんだ」
母に縋ったが、目を合わせようとしない。言いくるめられたのか、進んで転ぼうと思ったのか。ここにいたっては重大な差ではなかった。娘を欺いたという意味では同罪だ。
足元が揺れた。目眩ではなかった。壁が縦に割れ、開いていく。奥に校舎らしき建物が見えた。手前には土の校庭があり、生徒と思しき数十名が無言でこちらを振り返った。
*
「程々にしないと、うしろに手が回るぞ」
注意したところで無駄なのだが、上司に与えられた任務なら言い続けるしかない。
「わかっちゃいますけど、何しろ高く売れるんで」
悪びれた様子も見せず、部下はさらりとそう言ってのける。
壁際に集められた段ボールには、傷んでいるものや色づきの悪いものが詰めこまれている。食味には影響しないが、売れる見込みがないことも確かだ。それらを外に流すことは禁じられ、処分が義務づけられていた。
「多かれ少なかれ、みんなやってるじゃないですか」
一蓮托生。だから誰も咎めないし、告発もしない。いわゆる灰色収入を求め、今日も明日も彼らは横流しする。
そもそも、ここの職員たちはみな高給取りだ。ビニールハウスで汗を流す連中も、養殖場で奮闘する者たちも、外で働く者に比べれば破格の給料を手にできる。それでも灰色収入を得ようと懸命なのはほかでもない。できる立場にあるからだ。できない者より勝っていることの証明にもなる。要はメンツの問題なのだった。
「規則は規則。どれもわたしたちが口にできない代物だからな」
どこの上司も同じだ。口では順守を語り、舌の根も乾かぬうちにせっせとルールを破った。一方、彼はルールに沿った仕事を美徳としてきた。自律を重んじなければ使命をまっとうできないと信じてきたからだ。おのずと目立っていた。
「無期刑を下されても文句は言えない。それだけのことをしているということだよ」
「そんな、僕が食べるわけじゃないんですから」
ここは特別供給基地のひとつだ。党指導者や一部の高級幹部へ提供する安全食材をつくっている。かつては、最高指導部を警護する専門部隊が管轄していた。そのため解放軍との関係が保たれ、近くにある軍用施設が事実上の防衛装置を担ってきた。基本は有機農法。旧ソ連のシステムを参考にし、現在は軍に近い国営企業が運営を任されている。
「近頃は度が過ぎるという意味だ」
運搬業務部門のナンバー2に就いて丸一年が経つ。この部屋には、再検査の結果、出荷不能と判断されたあらゆる食材が集められた。廃棄場への運搬も司っているからだ。それを掠め取るのが部下たちの日常なのである。
「わたしがいくら寛容でも、上が引き締めを指示すれば君たちの味方ではいられなくなる」
党の方針は玉虫色で、世情を加味しながら下達するのが常だった。引き締める時期は思い出したかのように突然やってくる。そう仄めかしてみたものの効果は期待薄だろう。運搬業務部門の副部長といえども、筆頭管理者には告げるはずがないと確信しているのだ。しかも、横流しに加わらない上司を潔癖すぎると感じている。この部下が強気なのは、ほかの職員からも同じ評価を耳にしているからではないか。部門を仕切れる立場にありながら、権限を最大限に生かさないならば信頼に値しない。つまりは用心すべきだと。
そう信じこまれるのは危険であり、避けるべき事態に違いなかった。部下の総意が横領に向いているのだ。「伝統」を歓迎する上司の後ろ盾を得ているなら、この部下が分を超えてあれこれと探ろうとする可能性もあった。
「もちろん、いますぐどうこうというわけではないが」
「でしょう? なら、副部長はどうしてやらないんです」と瀬踏みする目が見ている。
「横流しなんぞに興味はないからさ」
「副部長が惹かれるほどの興味っていうのは」
試験紙を舐めさせているつもりか。
「車かな、いまは」
「何に乗ってるんです」
「紅旗だよ」
国産の高級車である。車好きとして拘るなら外国車だろう、とやや拍子抜けした反応が部下の口元に浮かんでいた。その程度の車種に心を擽られるなら、大した感性の持ち主ではないし、育ちさえ想像できるというわけだ。
「無論だが、ナンバーは『京0』さ」
「――それって、公安の」
軍や公安の幹部は国産車を乗用するよう指導されている。が、それも表向きの話だ。みな本心では外国車に乗りたい。そのせいで公安には紅旗が余ってしまう。公安の幹部がポケットマネーを増やすために横流しすることもあるのだ。ただし、相手はそれなりの職位に就き、党運営に貢献していると評価された者だけだった。
この部下は初任でありながら副部長補佐の椅子を手にしている。強いコネがあるということだ。コネに頼る者ほどコネを恐れる。触れたことのないようなコネを仄めかされれば一目置かずにはいられない。その意味で「京0」のインパクトは絶大だった。
「機会があったら乗せてあげるよ。まあ、それなりに爽快だ」
わかりやすい男だ。こちらに擦り寄ろうとする気配が迸っている。
「車といえば、今日はやけに通りますね」
話を合わせてきた。言葉遣いも変わっている。
「これで何台目ですか」
たったいまもセダンが北上したばかりだ。この先は砂嵐の名所で、すぐにでも洗礼を受けることになるだろう。
「向こうへ行ったことは」
「ないです、ないです。きつく言われていますから」
禁を破れば、ただでは済まなくなる。横流しを咎められるのとはわけが違う。
「副部長はあるのですか」
「当然だ。運搬の担当者だったからな」
食材は、毎朝、中南海や幹部専用のスーパーマーケットへ輸送されている。そこはお抱え料理人たちが購入できる特別な店であり、市価の半値で販売されるという待遇付きだ。しかし、そのほかにも届けられる場所があるのだ。小型トラックで、一日に三回と小まめに届けられてきた。ある意味で高級幹部よりも丁重に扱われている。
「運転手から副部長へ? どんな魔法を使ったんです」
コネはなかった。ただ真面目に規律を守り、上司と同僚が繰り返す違反に見て見ぬふりを決めこんできた成果だ。正確に、丁寧に、慎重に生鮮品を送り届けることに集中する日々だった。灰色収入に恵まれなくても、周囲から浮いていても、用心すべき人物として周りから毛嫌いされても、病身の親と生活力のない妻を路頭に迷わせずに済むなら御の字だと言い聞かせ、ひたすらに精勤した。そんなある日、役員室に呼ばれた。こんな自分だからこそ適している任務があると告げられた。
「この先に何が」
「訊くのもご法度だと言われなかったか」
閃きがあった。小出しに情報を与えるのも手だ。こちらの所用に反応するなと釘を刺す意味でも、完全に操縦できる部下として扱うためにも、それなりの餌は必要かもしれない。
「学び舎だよ」
「こんな場所に、ですか」
「こんな場所だからさ」
「ウチの食材を運ぶということは、かなりのエリートですよね」
「エリートかどうかはわからないが、一度会ったら忘れないな」
生徒たちを拝める日が来れば、それは腰を抜かす記念日になる。
中南海の担当から異動になり、学園への付け届けを任されるようになった。その初日に起こった出来事はいまも数秒前のことのように思い出せる。
校舎には裏門があり、ドライバーは専用キーを使って入れた。スチール製の台車に食材を載せ、調理の担当者に渡そうとしたときだった。揃いのスポーツウェアに着替えた子たちが校庭に出てきた。女子生徒ばかりで、みな同じ顔をしていた。
1
真新しい陽射しを汚す言葉が飛び交う。さながら猛禽の取っ組み合いだ。ひとりが髪の毛を引っ掴み、もうひとりは相手の顔に爪を立てた。険悪なのはこのふたりだけではない。廊下では怒鳴り合いが続き、いまにも再燃しそうな気配なら至る所に満ちていた。
髪を染めてくれば、ネイルを飾ってくれば、メイクを変えてくれば、制服を着崩してくれば、彼女たちはすぐに真正面から衝突した。周りとの違いを出そうとした結果だ。しかし、卓抜したセンスの持ち主など滅多にお目にかかれるものではない。何かを変えようとするほどに誰かと似通ってしまう。たったそれだけのことが発火と延焼の原因になった。
ほかの連中とは違う、と言い聞かせ、冷静さを保ってきたはずだった。入校して十日が経ち、その効力も薄れはじめた。すれ違う誰かが、鏡に映る品のない自分自身に見える。
窓際の最後列に座り、美雨は、修羅場から目を逸らした。窓の外を眺めてやり過ごすことしか思いつかなかった。陽春の空は清々しいが、季節を実感させてくれる花々がない。舗装路を垂直に埋めこんだような城壁だけがここから見える景色のすべてだ。あの巨大な正門が開いたとき、自分と瓜二つの顔が敵意を灯して集まっているのが見えた。それは少女たちの自己防衛反応に違いなかった。以来、正門は固く閉じたままだった。
諸君はクローンであって。そう切り出したのは、父のそばにいた女性だ。彼女はここの教師で、美雨たちがクローンとして生きるための術を教えこむと息巻いた。が、それだけだった。どんな理由で産み落とされ、なんのために存在しているのか。国は、政府は、党はどう関わるのか。何も語られないまま学園生活の火蓋が切って落とされた。
「あんた、どうすんの」
腰に両手をあて、凄みの姿勢をとっている少女がこちらを睨んでいた。切り揃えた前髪と血色の悪い唇が印象的だ。確か徐圓圓といった。十日前は知性に富んだ眼差しをしていたが、欠片さえ残っていない。橙色のカラコンを装着し、同じ色に塗られた唇を尖らせている。美雨は引き千切るように視線を移した。答える義理などない。
思えば両親はいつも見張られていた。昼夜を問わず、自宅には公安が入りこみ、怒鳴らされ、脅かされた。いますぐ逮捕できると凄まれても、ふたりは毅然としていたし、娘のまえで弱音を吐いたことさえない。間違ったことをしていないなら俯く必要はないと教えられてきた。しかし、その敬愛する両親が自分をここに連れてきたのだ。嘘で塗り固めた生活だったということになる。娘に夢を与え、期待させ、根こそぎ奪い取ったのだから。
クローン計画という壮大なプロジェクトに党が関わっていないはずはない。ならば両親は毛嫌いする彼らの方針に従っていた。生徒は十八歳。その年齢に達したとき、入校させる約束が交わされていたのだろう。両親は了解済みで自分を育ててきた。あのふたりに限ってと思うほどにわからなくなる。自分が預けられた瞬間から民主派として活動してきた同志を裏切っていたことにもなる。彼らと立ち上げた雑誌『常言』を穢す行為だった。
「おい!」と平手が机に炸裂した。つぎは美雨の顔が真横に飛ぶと威嚇している。城壁の外ではあからさまな差別が蔓延り、慣習と不文律を生活の隅々に浸透させた。都市と地方の住民では与えられた権利に隔絶の差があって、戸籍の種類さえ違う。都市民は蔑めることを権利だと考え、地方民を同じ人間として見ていない。さらに、地方出身者には、農村から都市部へ働きに出た親たちの子供・農民工二世も含まれる。これらの「人種」構成比率は校内でも大差がなかった。しかし、外で当然視されてきた常識は通用しないのだ。
与えられることに慣れ切った都市民は、場所が変わっても優遇されると思いこんでいたのかもしれない。が、入校早々に現実を直視させられた。地方出身者が黙っていなかったからだ。ここでは喧嘩慣れしているか否かが階級を決する。圓圓も下僕のひとりだ。
「決めたのかって訊いてんだよ!」
美雨は都市圏の出身だが、いわゆる都市民とは違う。郊外の古びたアパートに住み、決して裕福とはいえない雑誌編集者の長女として育てられた。小中高と通ったのは、党員の子息たちが学べるようなスクールではない。高くも低くもない教育を受けさせられたが、地方出身者の目から見れば田舎者ではなく、農村の出でもない。あばら家に住んでいたわけでもなければ、地方出身者用の戸籍に入ることを強制されていたわけでもなかった。イコール、都市部出身者なのだ。当然のように厳しい目を向けられた。それでも猛獣たちは容易に手を出そうとしなかった。美雨がひと言も発しないからだ。不気味さに手を焼き、様子を窺っている。ただ、時間の問題だろう。クラスの女王が決まろうとしていた。
圓圓が撃たれたように振り返った。始業のベルだ。充満していた声がぴたりと止んだ。唇から血を流す子も、泣き腫らした子も、髪を梳かすことさえ忘れて席にもどった。誰もが期待している。今日こそ、自分たちの今後を決定づける指針や目標が示されるのではないか。ここに連れられてきた理由があかされるのではないかと待ち侘びていた。
みな着席した。顎を引き、身構えている。入ってきたのは張という男性教諭だ。肌艶のよさから判断すれば三十代半ばだろうが、頭髪が薄く、天頂部の生き残りたちを無理に膨らませている。おはようの挨拶もなければ、出席の確認もない。手にした教科書を開き、誰もいない教室でおこなう予行練習のような口ぶりで授業をはじめてしまった。
生徒たちの大半が天を仰いだ。今朝も重大発表はない。
今日のカリキュラムも昨日と同じだ。昨日は一昨日と同じだった。この十日間、朝から晩まで歴史と思想教育ばかりである。学級崩壊がいとも簡単に起こったのは、教師たちが関わろうとしなかったからだ。生徒に注意する者はおらず、どれほど騒いでも気にしない。
「クソつまんねえなあ。帰れよ、ハゲ」
笑い声が湧き上がる。しかし、深い感情は灯っていない。暇潰しだ。
椅子を引く音が重なった。個性争奪戦の続きだ。つぎの授業開始まで繰り返される。そう、続きだ。圓圓が不自然な前髪の下で眉を逆立てていた。美雨の「担当」なのだろう。転ばせるよう命じられ、まだ達成できていない。仲間の視線に圧され、焦っている。
都市部出身者の脆さは彼女がよくわかっている。ならば同じ手を使うだろう。今度こそ平手が飛んでくる。喧嘩とは無縁だった白い手で賭けに出る。
派手に容姿を変えた生徒が多いなか、美雨は、焦げ茶色のロングヘア―とノーメイクを貫いた。ポケットにリップクリームを忍ばせている程度で、彼女たちの「原型」を維持した。安っぽく個性を主張することには無頓着だった。不毛な競い合いからも距離を置く。圓圓にはそれが面白くないのだ。自分だけは別種、という尊大な態度に見えるからか。
圓圓がいつになく険しい顔をして腰を上げた。これで失敗すれば立つ瀬がない。仲間の信頼を失い、嘲笑われ、女王候補の生徒に顔向けできない。
美雨の正面に立ち、返答を待っている。おまえの一票にかかっているという口元だ。美雨が加われば、圓圓が属するグループは過半数を得られ、「女王戦」の争いにピリオドが打たれる。クイーンが決まる。気がつけば鎮まっていた。みな行方を見詰めている。
美雨は目だけを動かし、天井の隅を見やった。監視カメラが備え付けられている。赤いランプが稼働中を示していた。目の届かない場所はないと断言できるほど、あらゆるアングルが撮影されている。しかし誰がどんな暴言を吐いても問題視されることはなかった。呼び出され、戒められ、罰を与えられることもない。機器はただそこにあり、動き、撮り、教師と同じように沈黙しているのだ。なんのために撮影し続けているのか。クラスメイトが美雨から受けている印象そのものだった。沈黙は薄気味悪く、相手を混乱させる。
火花が散り、痛みは遅れてやってきた。圓圓の平手が宙にある。打った自分でさえ信じられないという顔だ。囃し立てる声。後戻りはできない。先へ進むしかなくなったのだ。
第二波が来る。美雨はふらつく足に力をこめ、立ち上がった。こんな痛みはまやかしだ。民主派の家族が過ごしてきた日々を思えば取るに足らない。
「あなたの気持ちがわからないわけじゃない。ここは監獄のようなものだから」と美雨は教壇を指して言った。「気持ちが宙ぶらりんで、頭がおかしくなりそうよ」
毎日、自分と同じ顔を見ている。入学から数日、とは思えないほど息苦しく、心の磁針が狂ってしまった。誰かの奴隷になったとしても、生きている実感が得られるならいい。死んだように過ごすよりマシだと思う。そう錯覚する。両親は酒が入るたびに口にしたものだ。本当の恐怖とは自分を偽りたい気持ちに負けること。信義を曲げ、言い訳を連れ添って生き、それを誰かに強いることなのだと。年端のいかぬ娘がどれだけ理解していると思っていたのだろう。これほどまでに強く心に刻んできたことを知っていただろうか。
しかし彼らは嘘を吐いていた。もう一度会えるなら訊いてみたい。どうして、と。
「暴力に負けたから従っているように見えるけど、じつは違う。誰かに媚びてでも生きていることを実感したいのよ。心が死にかけていることを認めたくなくて誤魔化している」
そうした彼女たちの心理は勢力拡大の土台になっていったのだ。
「でしょう?」美雨は通路側の最後列に目を向けた。耳が出るほどの短髪をレモン色に染め上げ、眉尻は刃物の切っ先を思わせる。女王を自認する李尚真だ。
「巧くやったわね。あなたが育った農村部では、人の心を操る魔術でも教えているの」
尚真は同じ顔とは思えないほど眦を裂いている。
「――何がわかる。都会育ちのおまえに」
尚真のそばには農村育ちの少女が群れている。彼らは、都会っ子を見つけては襲いかかった。これまで受けてきた理不尽な扱いに対する報復だ。この国で幅を利かせる全差別者の身代わりに土下座させた。抵抗した者は袋叩きにされ、医務室送りだった。
「こいつらにだって、わかりゃしないってのにさ」
小突かれたのは孫唯だ。農民工二世のなかで、唯一、尚真と行動している。彼女たちの親は仕事を求めて都会へ出ていき、田舎に仕送りして子供を育ててきた。その二世は学校に通い、それなりの自由を得て、教育も受けられた。一方で親の苦労を知っているため、田舎の生活を嫌悪し、一秒でも早く抜け出したいと渇望した。自分はこんなところにいるべき人種ではない、有能なのだと信じて疑わない世代だ。しかし、尚真と同じように地方出身者の烙印を消せず、どれほど都市民に憧れても同じ権利は得られない。不遇を嘆くばかりで、親のように努力もせず、身の丈に合わない夢想ばかりを貪る。頭でっかちで口だけが達者な連中だと見下された。都市民は当初、無謀にも尚真たちの横暴に抵抗した。気位の高さが災いし、生理的に受け入れられなかったからだ。それに比べ、農民工二世は意気地がない。気位は、そのエリア限定の自信を持たせてくれるが、彼らには何もなかったのだ。貧しさが与えてくれる唯一の宝物、忍耐力さえなかった。尚真はそうした気質を見抜き、相手にしない。屈服させることは容易いが、骨のない者は信用できないからだ。唯を追い出さなかったのは、自分たちに近づけばこんな扱いを受けるという見せしめだろう。事実、ほかの農民工二世は教室の隅にいて、淡々と一日をやり過ごす。
今日、あらためて唯を目の当たりにして悪寒が走った。美雨と大差のない格好をしていたからだ。ピンクのリップ以外、ほぼ「原型」のままである。尚真の手前、造形し過ぎないようにしているのかもしれない。が、それにしても、という格好だった。
唯と目が合い、彼女はバツの悪い顔で俯いた。まさか、という感覚が貼りついて離れない。記憶の小箱に封じこめてきた思いが鈍い光を放つ。数年前、美雨を真似たクラスメイトがいた。うしろから見れば違いがわからないほどで、言葉遣いさえ変えていたのだ。彼女がどうなったか。ダメだ。止めなければ。
「オレがどんな目にあわされてきたか、おまえに見せてやりたいよ」
面倒臭そうに体を起こし、尚真が向かってくる。唯は、取り巻きの最後尾にいて、美雨から目を逸らしたままだ。
尚真の手が圓圓の肩に置かれた。労うというより、使えない部下への失意に見えた。
圓圓は、打ちこまれた杭のように動けずにいる。これから与えられる罰の苛烈さに怯え、失禁していることにさえ気づいていなかった。
「そんなことはどうでもいいわ。わたしとあなたは違うから」
美雨は唯の様子を確かめながら言った。彼女はまだ顔を上げない。頬にかかる髪の毛が、疚しさの影に見えてくる。
「わたしの真似なんてよして。あなたのためよ」
唯は目を合わそうとしない。これまで経験したことのない圧力を感じているはずだった。尚真の守衛たちが前のめりになっている。
「こいつはただズボラなだけだ」と尚真が唇だけで笑みをつくった。「宋美雨。おまえは違うだろ。敢えて控えめにしてる。そうやって目立つ作戦だよな」
加勢する声が矢のように飛んでくる。
美雨は唯の顔を覗きこんだ。彼女の口から聞きたかった。
唯が蚊の鳴くような声で返した。「……真似なんか、するわけない」
考えすぎだったか。それなら安心だが。
尚真は、だから言っただろ、という顔だった。
「おまえも縋りついてくる。仲間に入れてください、お仕えしますってな」
「誰かに媚びるくらいなら死んだほうがマシ」
なんだと、の大合唱が起こった。尚真は両手で制し、タクトを振る素振りした。
「いまから、こいつと話すことを禁じる」
最後の獲物だ。ほかの連中と同じ手段で転ばせるのは勿体ない。そんな口ぶりだった。
校舎は、地下一階、地上三階のつくりだ。美雨たちは三階の教室で授業を受けている。地階にあるカフェテリアで昼食を済ませると、ほとんどの生徒は一階に駆け上がり、配給部へ吸い寄せられていく。一階には、職員室と校長室、医務室も入っているが、配給部はどの部屋よりも広い。生活用品で手に入らないものはないし、スタッフは便利屋だった。頼めば美容師やタトゥーの彫り師にさえ変身する。もちろんピアスの穴開けも請け負った。しかも無料だ。生徒たちは今日もせっせと「個性」を表現できる何かを探しに出向く。
品物を眺め、欲しいものを決める。なりたい自分を思う。毎朝の取っ組み合いを除けば最も楽しい時間に違いなかった。ただし望みが叶わない品もある。生徒は校舎の真裏に建つ寮に住まわされ、プライベート空間を満喫できる個室が割り当てられていた。エアコンと調度こそ備えつけられているが、携帯電話やパソコン、テレビやラジオの類さえ認められていない。外部からの情報を得る術はなく、送受信する手段も断たれている。
買い物を終えた生徒たちが風のように過ぎていく。目が合った生徒は唯だけ。暫定女王の命により、美雨は存在していないように扱われはじめた。唯も見据えるという感じではない。一定の間を置いて、ちらちらと見るだけだ。何か言いたいことがあるのは間違いないが、こちらから声をかければ惨い扱いを受けるはずだ。美雨は無視を決めこんだ。
「改造」することに興味を持てず、彼女たちと違って欲しいものはない。美雨は階段を上った。唯が距離を保ちながらついてくる。踊り場まで来たとき、思わず声を上げそうになった。唯が立ち入り禁止の一角に近づいたからだ。注意は美雨だけに向けられている。電子音が鳴り、カメラが素早く反応した。脅すように首を曲げ、唯の立ち位置に向けられた。
校舎内には、東西に一ヶ所ずつ接近禁止エリアがある。西側には長い連絡通路が設けられ、城壁の小門に繋がっている。利用できるのは教師と食材を届けに来る業者だけ。連絡通路への入り口は「西口」と呼ばれ、小門までが禁止区域だ。生徒には馴染みがない場所だった。彼らが主に利用するのはカフェテリアや配給部などが置かれた東側である。
その東側には校庭に出られる「東口」が備わり、禁止区域は生徒が頻繁に行き交う階段付近だ。何かに気を取られて歩いていると、唯のように近づいてしまうことが間々あった。
普段はあまり意識しないが、西側と比べてみると東側はかなり窮屈なつくりになっている。城壁とのあいだに連絡通路などを備えるスペースがない。校舎そのものが城壁に密着しているのだ。しかも密着部分はコンクリートではなくシャッターが設けられていた。向こう側にもうひとつ棟が存在し、城壁によって直に仕切られているのではないかという噂が流れたほどだ。しかし、高すぎる城壁のせいで向こう側は確認できない。シャッター付近には、目立つラインのほかにバリケードも置かれるという徹底ぶりだった。シャッターに耳を貼りつけて音を聞こうにも、誰かの気配を確かめようにも、その術がなかった。
不気味なのは、教室以外で監視カメラが設置されているのは、この接近禁止エリアだけだということだ。入りこんだらどうなるのか。教師への罵詈雑言にさえ目を瞑っていたが、今度こそアクションがあるかもしれない。いつも以上にカメラは敏感だった。
美雨を見上げながら、唯がレッドラインに触れかけた。いよいよ爪先が超えようかというとき、生徒が配給部から溢れ出てきた。午後の授業開始まで二分。教師の口から何かが告げられるという期待を捨て切れない。どの足も急いでいた。
(第01回 了)
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