宋(ソン)美雨(メイユー)は民主派雑誌を刊行する両親に育てられた。祖国の民主化に貢献するため民主派のサラブレッドとして日本に留学するはずだった。しかし母親は美雨を空港ではなく高い壁に囲まれた学校に連れていった。そこには美雨と同じ顔をしたクローン少女たちがいた。両親は当局のスパイだったのか、クローンスクールを運営する当局の目的は何か。人間の個性と自由を問いかける問題作!
by 金魚屋編集部
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翌日も同じ色の朝を迎えた。またしても教師は語ってくれなかった。期待が膨らむほど失望は強まる。授業開始から五分後には猿山のように騒がしくなっていた。尚真を喜ばせようと歌ったりおどけたりする者がいるなか、圓圓が名誉挽回とばかりに踊りを披露した。つくり笑顔はサイズの合わない仮面のようだ。健気だったが農村出身者には通じない。彼女たちが拘ったのは新しい支配層としての務めを果たすことだけだ。道化のうしろで鞭を打ち、容赦なく責め立てた。一方、都市民は心を奮い立たせるように手拍子を繰り返す。唯も含まれていた。しかし。
「おまえは向こうだろ」と輪の外に蹴り出されてしまった。扱いに変動はない。
バカだよね、ほんと。囁きに近い声が聞こえてきた。美雨の席からロッカーまでは二メートルほどだ。農民工二世はそこを棲家にしてきた。数の上では三分の一を占めるが、石の下で暮らす虫のようだった。それでも一団に加わっていれば平和を得られたはずだ。尚真は彼らの存在を否定し、見向きもしない。にもかかわらず、唯は暫定女王チームに固執している。拘るほどに虐げられ、農民工二世グループからも爪弾きにされるというのに。
あいつとは口をきくなよ。こっちまでヤバくなる。円陣を組み、農民工二世が頷き合う。
「そっちのグループに居づらくなったってことでしょう?」
彼らは、恐る恐る、という顔で美雨を見やった。
「同じ境遇なら唯に優しくしてあげたらどうなの」
真似ているわけではないと言っていたが本当なのか。尚真の目を気にして否定するしかなかったのではないか。階下で見詰める目が脳裏に刻みこまれていた。特別な眼差しだ。
美雨を真似たとすれば、やがて災難に見舞われる。推論ではない。過去にそうしたことが起こったからだ。取り返しのつかない事態に悪化した経緯があった。被差別の一団であっても、唯はここに収まるべきだ。頭を下げてでも帰るべきなのだ。
「都会っ子のあなたは理解できないわ」と円陣から見上げている顔が言った。鼻にピアスをしているが、目立っているわけではない。ピアスで飾る者はあまりに多かった。
「尚真と同じことを言うのね」美雨は円陣を見回した。「だいたい、こんな場所で都会も田舎もないわ。協力し合って、なんとかする。そっちに頭を使いなさいよ」
「なんとかするって、何をどうするのよ」
「わからない。でも、いまのあなたたちはそれを考える以前の問題じゃない? 差別だの軽蔑だのって、壁の外だけで充分。ここでいがみ合っても無意味」
「ここは、刑期が告げられていないぶん、監獄よりひどい。出られるかどうかさえわからない。そんなところに詰めこまれて何が協力よ。で、肝心ことはわからない? これだから都会育ちは困るのよね。知識人ぶって、結論は他人任せ。ある意味、暴力よりあくどい」
疑似ディベートをしても不毛だ。彼女たちの腹は決まっていて、唯を許す見込みはなかった。それでも言葉に出したのは、唯に聞かせるためだ。彼女が尚真のもとを去り、出自を同じくする者たちに詫びればなんとかなる。それで集団のメンツが立つなら、メンバーは受け入れざるを得なくなるのだから。似た者同士で寄せ集まることができれば、傷を舐め合ううちに変わっていく。脇見をする機会は減り、こちらに関わる気持ちも弱まる。そう信じて強弁したのだが、とうの唯が反応しなかった。
徹底的に壁をつくる以外にない。美雨に対する尚真たちと同じように。
美雨はロッカーを開けた。入校が決まったとき、自宅から持ってきた荷物は車に置いていくように言われた。が、日本への道中でトラブルに見舞われたときのことを考え、大事なものは上着のポケットに忍ばせた。両親からの教えをメモした、手のひらサイズのノート。この世にひとつしかない宝物。夜、目を閉じるまえに必ず読み返した。猿山で自分を見失わずに済むのもノートのおかげだった。ロッカーに仕舞ってあるのは、折を見て盗み読みするためだ。堂々と読まないのは、縋りついている何かがあると知られたくなかったからだ。一分の弱みも見せたくはない。こんな得体の知れない学校に入れられてしまったのだ。羅針盤もなく、帆も張れない船に乗せられて大海原に出たようなものだ。船頭は見当たらず、クルーも信用できない。いま、風やオールより必要なのは救命胴衣だろう。自分が何者であるかを見せることは、頼みの綱である胴衣を脱ぐようなものだ。
ノートの保管場所は着替えを入れた袋の奥だ。手を入れようとして、一瞬、躊躇った。ますますノートの存在感は増し、同時に空しさも強まっていた。金言を疑ったことはないが、記した両親への思いが複雑さを深めている。彼らは「一人娘」に嘘を吐いていた。その同じ口で真理を語ってきたのである。袋の奥を手探りした。渇いた心が栄養補給をするかのように指が動いていた。やや遅れて後悔が絡みつく。またしても頼ってしまうのかと。両親への気持ちが解決できないうちは、二律背反した思いにずっと苦しめられるのだろう。
渇望と後悔が混じり合い、しかし、一度に消え去った。代わりに鮮やかすぎるほどのパニックに襲われた。ノートがない。
袋を取り出した。シャツとカーディガンを入れてある。ひとつずつ掴み出し、ロッカーの棚に置いていく。ノートを入れた包みごと消えている。
何気なさを装い、自分に向けられる視線がなくなったことを確かめたうえで盗み読みしてきた。そう確信していた。こちらが感じる以上に観察されていたということか。
尚真王朝の完成が間近に迫り、美雨の存在が重みを増していたことは事実だ。盗み読みがバレていなくても、美雨の弱みを探していた可能性はあった。偶然にノートを発見したということも考えられた。が、尚真の指令は行き届いていたはずだ。美雨の存在を否定せよ、という厳命が徹底されてきた。
いや、ひとりだけいる。美雨を観察していた唯だ。尚真から特命を受けたのだろう。グループに貢献する役を与えられ、飛びついたのではないか。結果、ノートの存在に気づき、尚真に伝えた。あれがなければアウトです。一攫千金の仕事をやってのけたことになる。
美雨は尚真の鼻先に手を突き出した。「返して」
野獣の声で立ち上がったのは、守衛のふたりだ。農村部の生まれで、尚真とは親和性が高い。しかし、無視しろという絶対命令を破ったことになる。慌てて声を引っこめていた。
唯は項垂れたままだ。大仕事をやってのけたというのに、仲間から認められていないのか。盗んだ実働部隊は尚真の側近たちで、手柄がすり替わってしまったということか。
「ロッカーに入れておいた包みのことよ。わたしにはどうしても必要なの」
「何が入ってる」と尚真の眉根が寄った。
「わかってるでしょう?」
「知らねえよ」
そんなはずはない。なくなることの意味を理解しているからこそ盗る意義があるのだ。
尚真のカリスマ性は認めざるを得なかった。腕っぷしが強くても、それなりの魅力を備えていなければリーダーとして不適格だ。従いたいと思える何かがあることは確かだ。そのポジションに立つ自覚のような強さが感じられた。彼女の背景がそう思わせるのだろう。しかし、こちらのやり方が通用する相手なのかどうかは別問題だ。
「もう少し、まともかと思ったわ」
容易く交渉できると思っていたわけではないが、あまりにストレートすぎた。
コピーをとっていなかった自分にも責任がある。そんなことをすれば言葉から神通力が失われると思っていた。なくなってしまえば元も子もない話ではないか。
内容は記憶している。急いで書き留めなければ。美雨は机にもどろうとした。黙っていなかったのは侮辱された尚真だ。側近たちを押しのけ、美雨の胸倉を掴んだ。血走った目がすぐそこにあった。ベルが割って入り、教師が黙って出ていく。
「出しなさいって」意外な場所から声が届いた。「返してあげなさいって言ってるの」
唯だった。輪の末端にいて、中堅の少女たちを見詰めている。
睨まれた数名が声を重ねた。怒声には違いなかったが、守衛たちのように芯が入っていない。買い言葉として役に立たないほど響きも軽い。
「見たんだからね。美雨のロッカーから盗むとこ」
唯が三名を指している。都市民からの転向者ばかりだ。
「そこまで言うなら、覚悟はできてるんだろ」尚真が大欠伸で言った。「とっとと調べろ」
守衛が血相を変えた。三名のボディチェックをした上で、ロッカーをチェックしはじめた。そうした事態は予想していなかったのだろう。ノートはすぐに見つかった。
美雨は手に取って確かめた。破られた箇所はない。
「彼女たちは責められないわ。忖度して盗んだんでしょうから」
率先して手柄をあげ、より高い立場を認めてもらおうとした。美雨は続けざまに言った。
「あなたがやれと命じたようなものよ」
尚真の額に筋が走った。初めて動揺したように見えた。
「オレは、おまえに関わるなと指示した。自分から破ることなどしない」
言うなり、実行犯たちを殴りつけた。この国では、言動が伴わない人間、信条を変える人間、自分を貫けない人間は見下される。彼女は暴君だが、リーダーとしてのメンツを美徳にしてきた。嘘とも思えなかった。
「こんな毎日はクソだ。終わりにする。革命を起こす!」
尚真の言葉にどよめきが起こった。戸惑いと興奮と恐れが同じ配分で混じり合っている。
「ここには腑抜けの教師しかいないからな。簡単に制圧できる」
「逃げ出せても、追われる身になるのよ」
「気が狂うのを待つよりマシだろ」
このひと言に打たれた者は多かったようだ。興奮が一歩リードしている。
「広い国だ。簡単には見つからない」
美雨の両親がどんな監視を受けてきたか、彼らのまえで説明したかった。この昂ぶりがいかに危険で稚拙なものか思い知るはずだ。
「あなたがどれだけ――」
美雨は言葉を切った。監視カメラが反応していた。尚真の後方にある。
「いまの話、きっと聞かれたわ」
「だからなんだよ」
二時限目のベルが鳴った。ついに教師は動くのか。みな席に着いた。興奮しているのは尚真だけだ。彼女が仄めかしたのは教師への個人攻撃ではない、襲撃だ。今度こそは罰則があると警戒しても不思議ではなかった。
初めての事態だった。これまで時間厳守を貫いてきた教師が入ってこない。さっきまでの昂ぶりがウソのようだ。生徒たちの顔から血の気が失せている。教師に吐いた唾の数を思えば、罪の重さに打ちひしがれるのも当然かもしれない。何かが変わろうとしている。
「さあ、どうした!」
尚真が机をたたきはじめた。挑発したからには責任を負う。望むところだと目を輝かせている。が、同調する者は皆無だった。農村出身者は差別のなんたるかを思い知らされてきた。都市民に牙を剥いたのは、それだけつらい経験したという裏返しだ。イコール、権力の強靭さと執拗さをよく知っている。その記憶が猛然と息を吹き返していた。
校内テロなど成立しない。誰も尚真に協力しないからだ。むしろ自分たちの心を擽り、煽り、利用してきたという批判がいま、ガスのように溜まりはじめている。
あまりに長い遅刻だった。何かが起ころうとしているのではなく、すでに起こっているのではないか。自分たちが気づいていないだけで、ここを取り巻く環境は劇的に変化しているのかもしれない。二十分が過ぎようかというとき、内履きのソールに震動が伝わってきた。美雨は母親に連れられてきたときのことを思い出した。足元が震えたかと思うと、高い壁が真っ二つにわれ、校舎と校庭と少女たちが現れた。
思わず窓の外を見やった。城壁に「亀裂」は、ない。
生徒は机の下に避難しはじめた。なんらかの方法で地震を予知した教師たちが、先んじて校舎から脱出したのだろう。ならば壊滅的な揺れが襲いかかるに違いない。誰かがそう叫んだことをきっかけに、天井が崩れ落ちるという恐怖が感染しはじめた。が、ブラインドカーテンの紐は静止したままだ。初期微動がこれほど長いはずもない。主要動への変化がなかったのだ。
地震ではないし、教師が逃げてしまったわけでもない。床に耳を押し当てていた圓圓が叫んだ。「下の階!」
圓圓のあとを追い、クラスメイトたちが廊下を駆けていく。階下へ向かっているというのに、配給部に出入りするときのような高揚感は見られなかった。教師は来ず、「地響き」が続いている。不安で凍りつきそうだとしても、その原因を確かめずにいられない。
悠然と階段を下っていくのは尚真だけだった。格の違いを見せつけるためだろう。配下の者たちはとっくに行ってしまったというのに。
美雨の隣には唯がいた。彼女は美雨を真似ていたと認めた。
「どうして、わたしなの」
訊くと、唯が廊下の先を指した。農民工二世がぞろぞろと連なっていく。
「あの子たちでさえわたしを差別した。なのに、あなたはどんな階層の子も見下さない」
そうすべきではないと教えられてきた。生まれや性別や肌の色で優劣を下すような慣習は、一刻も早く正すべきだというのが両親の教育方針だった。経済大国の座を射止めながら、それをかなりの程度まで達成できているのは日本だけだという。課題は残っているが、克服してきた課題はそれ以上にあると話していた。父が嘘を吐いてきたとすれば、そんな話も疑ってかかるべきなのか。日本は優れた国ではないのだろうか。
「だったら、どうして尚真のグループにいるのよ」
「決まってる。あなたと仲良くしたかったから」
農民工二世は都市民のような権利を与えられず、そうかといって極貧生活も経験していない。そのせいか一定水準以上の知力を生かす機会に恵まれず、一定水準以下の者を蔑むことで留飲を下げてきた。だからといって境遇が一ミクロンも改善することはない。やがて同じ生い立ちの者を密かにランク付けするようになる。ガス抜きだ。教室内で起きていた現実そのものだった。
「尚真のグループに入っても屈辱的な扱いを受けることはわかってた。でも、価値があった。あなたのためにできることがあると思ったからよ」
尚真が一階に着いた。それを確かめてから彼女は続けた。
「彼女は、あなたのことをよく思っていなかった。家来もそう。いつかあなたを力づくで従わせようとする。酷いやり方でね。その気配を察知したら伝えるつもりでいたの」
「気持ちはありがたいけど、味方は要らない」
「あなたが言うとおり、ここには何もない。未来も希望も。味方も仲間もいない。だから、そうしたくなくても何かに縋ろうとするのよね。尚真みたいな子を担ぎ上げてしまうのも当たり前かもしれない。じゃあ、あなたには何かあるの。自分をしっかり保てるような目的みたいなものが?」
「両親に会いたいわ。訊きたいことがあるから」
十八歳になれば手放さなければならない。それなのに、どうして育てようと思ったのか。夢さえ与え、欺き続けたワケを問い質したかった。
「わたしも会いたい。たくさん仕送りしてくれたのに、わたしはなんの感謝も言えずにいた。それどころか、バカにしてたのよ」
階下に異状が広がっていた。みな立ち入り禁止区域に入っているではないか。尚真の顔もいつになく険しかった。永遠の敵でも見つけたかのように腕組みし、脇に寄せられたバリケードに凭れかかっている。
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