「津久井やまゆり園」事件はなぜ起こったのか。それは偏執狂的人間の常軌を逸した犯行なのか。そうではあるまい。そこには「全人類が心の隅に隠した想い」、決して表立って語られることのない〝思想〟が隠されている。
金魚屋新人賞選考委員辻原登が、「その真の価値は作家の〝肉体的思想〟が表現されていることにある」と絶賛した現実の事件を超えた思想的事件を巡る衝撃的評論!
by 金魚屋編集部
一.「降りる」思想と「感染る」思想
「ヒトラーの思想が降りてきた。」*1
植松という男はそう語ったらしい。
その発言を聞いて眉をひそめるひと、いわゆる「優性思想」を前時代の迷妄と一蹴するひとに、その背後にはあなたのようなひとが蓋を閉じて久しい「本音」を白日の下にさらけ出し、世の中の価値を転倒しようと目したニーチェの思想がひかえているのだ、と言ったらおどろくだろうか。
人間愛のいま一つの命令。――子を産むことが一つの犯罪となりかねない場合がある。強度の慢性疾患や神経衰弱症にかかっている者の場合である。そのときにはどうしたらよいのか?――そうした者たちを、たとえばパルジファル音楽の助けをかりて、純血を守るようはげますことが、たえずこころみられてよかろう。(中略) 社会は、生の大受託者として、生自身に対して生のあらゆる失敗の責任を負うべきであり、またそれを贖うべきである、したがってそれを防止すべきである。社会は数多くの場合生殖を予防すべきである。しかもそのうえ、血統、地位、教育程度を顧慮することなく、最も冷酷な強制処置、自由の剥奪、事情によっては去勢をも、用意しておくことが許されている。「汝殺すことなかれ!」という聖書の禁令は、「汝ら生殖することなかれ!」とのデカダンに対する生の禁令の厳粛さにくらべれば、子供じみている……生自身は、有機体の健康な部分と変質した部分とのいかなる連帯性をも、いかなる「平等権」をも、みとめることはない。変質した部分は切断されなければならないのである。――さもなければ全体が徹底的に死滅する。――デカダンたちへの同情、不出来な者どもにもみとめられた平等権――これは、最も深い非道徳性であり、道徳としての反自然そのものである!
(強調原文。「権力への意志」七三四、原佑訳『ニーチェ全集 第一二巻』二一七頁、理想社)
ニーチェに比べたらヒトラーははるかに低俗で、思想家ではありえないが、思想のありようとしてみれば、珍しいことではない。思想にはすぐれたごくひと握りのタテの思想と、凡百の通俗的なヨコの思想とがある。ニーチェに限らず古来よりタテの思想は、時空を越えひとに垂直に「降り」る。それはしばしば善悪や道徳やその時代の社会通念の「外」へとひとを誘い、わたしたちの「本音」に沁みとおるようにひびく。「本音」とはわたしたちの欲望の粒子である。それらはもとより一様ではなく拡散しているが、ひとつにスイッチが入り、動き出すとオセロのように布置が一転して塗り潰される。「本音」はどんなキレイ事にもまさるがゆえ、それを通俗的に解したヨコの思想は、ウイルスのように変異し感染し、世に蔓延るのである。ちなみに、自らをタテの思想の持ち主と思い込んで実行におよんでしまった者の物語が、ニーチェのほぼ親の時代に生きたフョードル・ドストエフスキーの「罪と罰」である(この小説については後に触れる)。したがって、この意味で植松は完全に間違っている。もとをたどれば、かれは自覚しようとしまいとニーチェ思想のたんなる飛沫感染者にすぎない。だが、この男を断罪して済ませうるような単純な話を問題にしたいのではない。ニーチェとはこの場合、十九世紀末ヨーロッパの一思想家の名ではなく、わたしたちの内なる他者の別名だとしたらどうか、ということなのである。言いかえれば、わたしたち誰もが大なり小なり「自身の内なる植松」を抱えてはいないだろうか、という問題なのだ。
その核心的問題へ分け入るのはまだ早い。まず、そもそもひとがひとを差別するとはどういうことか、を確認しておこう。何をもって「優性/劣性」とみなすか。それはひとそれぞれであって、たいていは多勢に無勢、ナチス・ドイツのごとく国策とまではいかなくても、時の為政者や国家権力が恣にふるまい、世論やマスコミがこれを煽ってきた事実は誰も否定しえまい。
「優性思想」の逆をいくケース、たとえば「差別撤廃」というスローガンを掲げた権力や抑圧だってある。いずれも同じ穴のムジナである。この事件にしても、発生当初、メディアの中にはやまゆり園のことを報じるのに「重度の知的障害者のための施設」とはっきり言わずたんに「障害者施設」と口をにごした報道機関もあった。おずおずと世間の反応をみて、大丈夫とわかれば一転「知的障害者」を擁護しろだのと、まるで最初からそうだったかのように大合唱に加わっている。それを見かねて「障害者を感動ネタにするな」という「感動ポルノ」批判者の気持ちもわからなくはない。だが、これまた「障害者を特別扱いするという差別」への糾弾という、さらなる「差別撤廃ファッショ」にいつだって転じかねない。本当に「特別扱い」しないほうがいいと思うなら、むしろ端から「忖度」なしにあけっぴろげに「差別」するほうが――それぞれがみなひとしく「特別」なのだという意味で――好ましい日常に向けた一歩でありうる。と、こう言ってもなかなか理解は得られないだろう。
かたや「差別」される側だって、一枚岩とは限らない。「内輪」モメもけっこうある。事実、私の亡母がそうだった。同じ「特殊学級」(当時の呼び名)の中で自分の娘がとりわけ不当な扱いを受けていると彼女はかたくなに思い込んでいた。「何よ。あの子に比べたらウチの子のほうがずっとマシじゃないの。一緒にしないで!」などと。なぜそんな無益な争いをするのか? そう疑問に思うひとは、長年にわたって沈殿した鬱勃たる被差別感情と、およそ人間が抱えずにはおれない「嫉妬」という感情の構造的なおそろしさ、ルサンチマンという心的機制のもつおそろしさを、永久に理解できない幸せなひとだ。
これに追い打ちをかけるのが、広く発達障害を持つ者の「自立」を声高に叫ぶ「善意」の圧力である。要らぬお世話だとはもちろん言わない。社会的自立に向けた支援を要するひとが多くを占めることは言うまでもない。上手く背中を押してあげるだけで、おどろくような成長を遂げるひとがいる。数学、音楽、絵画、スポーツ、IT、ものづくりに至るまで、持てる才を存分にふるえる恵まれたひとも少なくない。しかし一口に発達障害と言っても、あくまでそのひとの個性の一部なのであって千差万別、ひとの数だけ内容も程度も異なる。ところがその中でいつまでも「自立」が困難な「重度」のひとは、およそ社会の役に立たない「落ちこぼれ」であると、誰も口にしなくても無言の「差別内差別」となって障害者教育の現場を思わず知らず支配しかねない。これが「自立圧力」である。だから、知的障害者とかれらをとりまく世界を囲い込み、閉ざしてしまってはならない。孤島の住人にしてはならないのである。
何ごとにつけ程度が大事、というつまらぬ話になってしまうが、知的障害者は、その程度によって「特別」なのである。「程度」に明確な線引きもモノサシもない。もっぱら政治的な力学関係の問題でしかない。その意味では知的障害者に限った話ではないのだが、ようは「特別」だから障害者といわれ、障害者だから「特別」と言われる。恣意的なレッテルでしかないにもかかわらず、当のレッテルによって「差別」がどうのと、立場や賛否にかかわらず、みなが過剰なまでに「忖度する」のが日本という国に特有の「空気感」あるいは「同調圧力」である。あくまでもケースバイケースであるにせよ、その「特別」さに過度に慮る必要はない。構えることなく「ふつう」の他者としてそのひとを理解し、率直に接すればいいだけのことである。本当は少しもデリケートな問題ではなく、いたってかんたんな話なのである。だからこそ難しいのだ、と言えなくもないが、知的障害者とその肉親、そして日々かれらにかかわるステークホルダーたちは、このような事件のせいでけっして門戸を閉ざすことがあってはなるまい。いつでもどこでも知的障害者と言われるひとがいて、かれらと接することが、ごくあたりまえの日常であるような世界こそが、目指されなくてはならない。
*1 日本テレビ「NEWS ZERO」二〇一六年七月二八日放送
(第02回 了)
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*『アブラハムの末裔』は10月から20日にアップされます。
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