「津久井やまゆり園」事件はなぜ起こったのか。それは偏執狂的人間の常軌を逸した犯行なのか。そうではあるまい。そこには「全人類が心の隅に隠した想い」、決して表立って語られることのない〝思想〟が隠されている。
金魚屋新人賞選考委員辻原登が、「その真の価値は作家の〝肉体的思想〟が表現されていることにある」と絶賛した現実の事件を超えた思想的事件を巡る衝撃的評論!
by 金魚屋編集部
二〇一六年七月二六日未明のことである。
神奈川県相模原市にある知的障害者のための福祉施設「津久井やまゆり園」で、入所者十九名が殺害され、職員を含む二十六名が重軽傷を負う事件が起きた。犯人は同施設の元職員で二十六歳の男、殺されたひとたちの多くは重い知的障害を抱えていた。その朝、いつものように社宅で出勤の支度をしながらテレビのニュース番組を観ていた私は、画面に釘付けとなり、茫然自失となってその場に立ち尽くした。
植松聖というその男は事件直後、
「意思疎通のできない人たちをナイフで刺した。」*1
「障害者は不幸を作ることしかできません。」*2
「重度の障害者は生きていても仕方がない。安楽死させた方がいい。」*3
「殺害した自分は救世主だ。」*4
などと語った。
その後、接見が可能になった二〇一七年三月以降も、男は取材に訪れた記者のひとりにこう語ったという。
「事件を起こしたことは、いまでも間違っていなかったと思います。意思疎通のできない重度障害者は人の幸せを奪い、不幸をばらまく存在。絶対に安楽死させなければいけない。」*5
時は流れ、平成から令和の世となった。
事件から三年半を経た二〇二〇年一月八日、事件の公判が開始されたが、被告の主張や態度は最後まで変わることはなかった。同年二月五日の公判では、被害者の遺族から「どうして姉を殺したんですか」と問われ、次のように答えた。
「意思疎通が取れない方は社会にとって迷惑になっていると思ったからです。殺した方が社会の役に立つと思ったからです。」*6
三月一六日、死刑判決が下され、しかるのち弁護士による控訴を本人が取り下げ同月三一日午前零時、刑が確定した。
∴
あの朝受けた衝撃を、七年を経た二〇二三年のいまも私は忘れることができない。公判記録をはじめ、数多の情報を得られるようになった今日でも、犯行の真の動機は詳らかではない。本人にとってさえそうかもしれない。犯行の状況や犯人の言動から推し量れることは、それがある種の理念とも妄念ともみなしうる強い確信の下に、周到かつ入念に考えられ準備され、実行された「思想による殺人」ということである。怨恨や衝動からではない。施設を辞めさせられたことを恨んでいたとの報道もあるが、それならば職員がターゲットにされてしかるべきところを、入所者の、それも自分が世話をしたことのない相手を含め、抵抗のおそれのない重度のひとばかり選り抜いて、ひとりずつ検分までしながら一九名も殺害した動機にはなりえまい。犯行前、犯人は当時の衆議院議長・大島理森氏宛に手紙を送っている。その文面にはUFOや大麻への言及など、薬物中毒者を思わせる奇矯な発言も散見されるものの、むしろそのように装い、あらかじめ逃げ道を作っておいたと読めなくもない。
「常軌を逸する発言であることは重々理解しております。しかし、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為と思い、居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。」
「私の目標は重度障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。」
「障害者を殺すことは不幸を最大まで抑えることができます。」
「私は大量殺人という狂気に満ちた発想で、今回の作戦を、提案を上げる訳ではありません。全人類が心の隅に隠した想いを声に出し、実行する決意を持って行動しました。」*2(強調は引用者による)
などという持論の筋道は、この手紙によって措置入院させられた後、犯行後も、公判から判決に至る間も首尾一貫している。判決後に接見した神奈川新聞の記者に対し「(重度障害者の家族は)病んでいる。批判すれば信念や一貫性があると勘違いしている」と主張する植松に、その記者が「幸せだったという遺族も多い」と反論すると、植松は「それは不幸に慣れているだけだ」と「一蹴した」。*7
私が衝撃を受けたのは、このような犯行におよんだ人物の偏執狂的な異常性もさることながら、この男に宿り、前代未聞の凶行を起こさせるに至った、そのおこないの根底にある「思想」らしきものの深い闇である。すなわち、優性思想という闇である。それは私に、いつかどこかで見た風景を思い起こさせずにいない。その意味で植松とは、ひとつの表徴であり、この男の後ろには第二、第三の植松がつらなっている。少なくとも、この事件はその闇の帳を開いたのである。それにしても「全人類が心の隅に隠した想い」とは何か? 植松よ、お前はいったい何を言いたいのだ?
「思想」というものがおそろしいのは、現実になされた凄惨なおこないとその結果にのみ、あるのではない。
――かわいそうに。何というひどいことをするのか。
――助けを求めることもできない弱い人たちの命を奪うなんて、とても許せない。
――同じ人間を差別するなんて。こんな人物を生んだ世の中は間違っている。
などと、心からそう思っている(ここが肝心なのだ。そのひとたちは心にもないことを言っているわけではないのだ!)多くの人びとの中にひそみ、くすぶり続けるもうひとつの「本音」に訴えかけるからである。それは「――とは言ったものの、この子たちは本当は生まれてこなかったほうが幸せだったんじゃないか?」「早く先立った方が親のため、世の中のため、何よりも本人のためではないのか?」という「本音」である。「いや自分は違う!」とやっきになって否定するひとほど、あてはまるかもしれない。寝た子を起こしてしまい、さらには隣の子を、その隣をと、次々に眠りから覚ましてしまう。そうして世の中を自らの色に染め上げるのが、良くも悪くも「思想」というものの性分なのである。
自閉症、脳性まひ、ダウン症、てんかんなどさまざまな要因から生まれつき重い知的障害を抱えることになった子たちに対して、日々その生活を支援することはもちろん、コミュニケーションをとることすら生半可にできるものではない。経験したひとならよくわかるはずだ。初めて接するひとは、その外貌だけで戸惑うかもしれない。話しかけても頭を撫でても手を握っても反応が鈍く、表情の乏しい子。じぃーっとうずくまったまま動こうとしない子。いつもそわそわと落ち着きのない子。突然パニックに陥る子。自傷行為が止まらなくて泣く泣く手足を押さえようとしたら、暴れて手に負えない子。電車やバスの中で奇声をはりあげる子。一人では下の始末ができない子。ちょっと目を離した隙にフラフラと外へ出て行方がわからなくなる子。うまく口をきけず、ふだん何を思っているのか、何をしでかすかわからない子……重い軽い、個性やコミュニケーション能力はさまざまであっても、家族やステークホルダーを除くたいていのひとはまず、見た目やその挙動に抵抗をおぼえ、つき合うにつれ早晩、どう対応していいのか途方にくれることになる。そんな初期の印象は、その子をよくよく知るようになれば、おのずから後景に退いていくものだが、ほんの通りがかりの「一見さん」にとってみれば、たんなる好奇や同情の対象でしかない。「かわいそうに」「大変ですね」などいう気楽で他人事でしかないセリフが、悪意も偽りもないだけになおさら身内の者たちを苛む。けれどかれらには、傷ついているヒマなどありはしない。ひとりで生きていくことができないわが子の将来を憂いながら老い衰え、子に先んじて自らの五体の不自由を嘆かざるをえない親たち。その切なる思いは察するに余りある。自然の順序からすれば、先立たねばならないのは当然親の方なのである。赤の他人に、この子を託せようか。誰にこの子の面倒がみられようか。自然の順序をひっくり返せるならそうしたい。そう真剣に考える者がいて少しもおかしくはない。
わが子の将来を憂えるひとがいるなら、これから生まれてくる子のことを憂えるひとがいるのは当然である。そのようなひとが少なくないことは、知的障害をもって生まれてくる子が確率的に予想される数より少ないという統計的事実に見てとれる。読売新聞オンラインによると、二〇一三年四月から二〇一七年九月にかけ五万一一三九人が新型出生前診断(NIPT)を受けたが、検査で陽性だった人は九三三名いた。しかしながら妊娠を継続した妊婦はこのうち二六名、わずか三%に満たなかったという。*8他の諸要因を除いたとしても、中絶を選んだひとは九割を超えているということになる。良し悪しを論うつもりはもちろんない。多くの当事者にとって、それが苦渋の選択の結果であったことを私は疑わない。さらに妊婦とその家族へのメンタル面を含めたフォローとなると、現状の医療体制下ではとうてい十分なものとは言えず、孤立感を深めるひとはさぞ多かろうと察する。こうした事実は、ダウン症といった知的障害児という存在が、本当は世の中からいかに歓迎されていないかを示す証左である。本来はむしろ世の中を、親となるひとを寿ぐ存在であるはずのこの子たちが、である。
公判を迎えるにあたって、被害者の一人の母親が、本人の実名を手紙と写真を添えて公開した。そこにはこうある。
大好きだった娘に会えなくなって3年が経ちました。時間が経つほどに会いたい思いは強くなるばかりです。会いたくて会いたくて仕方ありません。
本当に笑顔が素敵でかわいくてしかたがない自慢の娘でした。
(中略)
どこにだしても恥ずかしくない自慢の娘でした。*9
この母親のことばが心から発せられたものであることを私は信じて疑わない。私事だが、その昔亡父は、ある晩、食卓を囲んで一心不乱に好物のカレーライスを頬張っている自分の娘をまじまじと見て、「こんな子ほど可愛いもんだ。」と(事実はあからさまな差別用語を用いながら)、相好を崩してそう言った。
これまた「本音」である。下の始末さえ満足にできず、コミュニケーションをとるのも困難な重度の子を抱えることになった自分たちの運命を嘆きながら、それでもわが子とともに数えられないほどの苦楽を、よろこびかなしみの日々を越えていくうちに、全身全霊を挙げて子を受け容れ、ついにはこの子なしでは生きられないほど深く、あまりにも深く愛するに至った者にのみ贈られる格別の、無償のかがやきがどんな知的障害の子にもあるのだ。かれら肉親たちがよく「神さまからの贈りもの」などと口にするのは、そう思いたい一心で美化しているのではさらさらない。日々の小さな数え切れない経験の積み重ねの中から、澎湃とあふれ出てくる内なる声なのである。
∴
二一歳で早世した私の妹は、重度の自閉症だった。彼女をじっと観察したり、いつも何を考えて過ごしているのだろうと、あれこれ想いめぐらす日々だったが、それは家族の側ばかりと思ったら大きな間違いだと、しばしば気づかされた。向こうの方がそんなわたしたちを逆に観察していた。そして、本人なりの感じ方でおどろくほど正確に洞察していた。たとえわたしたちの用いることばでは上手く言い表せなくても、ほんの一言半句に、あるいはちょっとした表情やふるまいの中に、わたしたちをハッとさせ、胸を底まで抉り取るような何かがあった。
乳幼児がわたしたちのようなことばを獲得するに至る手前で、「喃語」と呼ばれる、意味不明の呟きやときに長いお喋りをする一時期がある。子育ての経験があるひとなら、おそらく誰もが目や耳にしたおぼえがあるだろう。よくよく耳を傾けているとそれらの中には、この子はじつは意味のある何ごとかを伝えようとして、かれらの言語で話しかけているとしか思えないことがときにある。わたしたちがそうと思わないのは、それがわたしたちには谺でしかないからだ。
はたして、成人が話す諸言語は、かつてそこから生まれ出た限りなく変化に富んだ喃語のなにがしかを留めているのだろうか。あるとしたら、それは谺でしかないだろう。というのも、言語があるところには、幼児の喃語はとうの昔に消え去ってしまっているからだ。少なくとも、まだ言葉を話せない幼児の唇がかつて発した形ではもう残されていない。それは、他の言葉、あるいは言葉でさえない何ものかの反響なのかもしれない。谺する言語は、自らが消滅することで言語の出現を可能にする言葉にならない記憶の彼方の喃語の痕跡なのだ。
(ダニエル・ヘラー=ローゼン『エコラリアス』一二頁、関口涼子訳、みすず書房、二〇一八)
ひょっとしたら妹は「しょうがい」という名の着ぐるみをまとって、自らに与えられた役柄を粛々と演じているだけではないのか。私はそんなことを思い、傍らでどこから持ち出してきたのか、母親のものらしい茶色い革のベルトを食事も忘れいつまでも弄って遊んでいる彼女に「ゆうちゃん、ほんとはフリをしてるだけなんだろ? じつはみんなわかってるんだよね?」と訊いた。もちろん応答はなかった。がそれは、兄が何やらぶつぶつ話しかけることばが彼女には「喃語」にしか聴こえなかったからにすぎないのではないか? あれから三〇余年を経たいまもなお、その思いは消えることがない。
だが、そんなわが子や兄弟姉妹への思いは、深ければ深いほど、突如として反転する可能性をつねに秘めている。「この子をひとり残して逝くくらいなら、いっそいまのうちに旅立ってくれたほうがかえって幸いじゃないのか」などと。この考えに逢着する可能性はいつでも、いつまでもつきまとう。事実私の父は、たび重なる重篤な気管支ぜんそくの発作から夜通し座り込んで苦しむ娘の姿に、ときには本人を目の前にして、自棄的に捨て台詞でも吐くようにこう言ったものだ。「こんな子はなァ、早く死んでしまったほうが幸せなんだ。」もはや安楽死の考えといかほどの距離があろうか。「……ゆうこ、しなない!」と絶え入らんばかりの息の中から懸命に抗議した妹も、父の思いを彼女なりの仕方で理解していたようにみえた。「そうじゃない。あなたは決定的に間違っているよ」ということばを私はこのひとに対して、ついに一度も返せなかった。そんな父だったが、永きにわたってこのひとに仕えた御仁から後年聞いた話である。妹が若くして急逝し、葬いを済ませ職場へ顔を出した父を当時社長だったOさんが自室へそっと招き入れ、自ら扉を閉めた。平生そんなふるまいを目にしたことがなかったので、その御仁は不審に思ったそうだ。二人きりになると、Oさんは父に向ってひと言、しみじみとこう語りかけたという。「……親孝行な娘さんだったねえ」。苛烈で狷介、獲物を睨むような面構えから社内で〝マムシ〟と陰口を叩かれていた父は、それを聞くなり嗚咽した。
本人とその家族たちが培ってきたこうした積年の思いは、植松という一死刑囚の心の闇に芽生えたおぞましい思念に吸い上げられ、その養分にされた(「全人類が心の隅に隠した想い」)かのように感じ、私は身震いした。
妹は、生きていれば満五三歳である。四年前に相次いで逝った父と母は、健在なら一人は齢九〇を越え、片割れも八〇半ば、ともにヨボヨボ、私は還暦を過ぎたヨレヨレである。奇禍に遭ったこの施設に、同じ県内在住の妹が入所していた可能性は、けっして低くはなかった。
拙論では、この事件がパンドラの箱を開けたいくつかの社会的・思想的課題――障害者差別、優性思想、安楽死、正義といった――を取り上げ、さみだれ式に批判的検討を加える。しかし、真の目的はさらにその先にある。重い知的障害をもったわが子を、愛しているにもかかわらず、いや、愛するがゆえに自らの手で殺めずにはいられない――この、傍目からみれば理不尽でしかない親の隠された思い、これこそが俎上に載せなくてはならないのである。断罪するためではない。逆である。けれど親たちにしてみれば、この思いはたとえ実行におよばなくても、一度は自問自答せずにはいられない切実さをおびているのである。そして親たちは認めないだろうが、この思いをあたかも代行するかのように実行したのが植松という殺人犯なのである。狂気にとらわれた者の妄念にすぎないとも、かかわりのないことと否定するのもたやすい。だが、この思いを自身に対してすら秘めたまま背負ってきた少なからぬ親たちにとって、事件の衝撃は魂の深部まで揺さぶったに違いない。事実、もう半世紀余の間、私の中を去来して止まなかった通奏低音のようなこの思いは、事件よりこのかた、植松という殺人鬼のおぞましいささやき声にとって代わるようになった。反響し増幅していく男の声に私は抗い、応答しなくてはならない。男が親たちの代理人を標ぼうするなら、私もまた親たちに代わって自らに問い、答えなくてはならない。自らも当事者のひとりとして。自分たちが心に秘め、背負ってきたもの、すなわちわが子への思いとは、その正体は、ほんとうは何なのだろう? そもそもひとがひとを殺めるとは、どういうことなのか?
誤解をおそれずに言おう。ここで「殺める」ということばを、「愛する」に置き換えてみよう。なぜか正反対の問い同士が不協和音どころか、むしろ親しげにひびき合う瞬間があることに、私は前から気付いていた。それらのおこないは、ひょっとしたら「愛」の本質に根ざしているのではないか? この背理というほかない、一種の存在論的地平にことばの触手が届き得れば、ひとまずこのささやかな論の役割は果たせたことになる。そのために、一九世紀デンマークの哲学者、セーレン・キルケゴールの書いた「おそれとおののき」という一冊の書物を導き手として取り上げる。これは、旧約聖書に記され人類の祖と崇敬されるアブラハムが、愛するわが子イサクを神への生贄に供したエピソードを論じた、畏怖すべき書物である。私にささやきかける内なる植松とその優性思想を乗り越える鍵が、この中に見出せるように思えてならないのだ。もし批評のことばというものがありうるとしたら、その可能性が今日なおもあるとしたら、この地平に至ってかいま見えるなにかでなくてはなるまい。
*1 日本経済新聞 二〇一六年七月二六日記事
*2 朝日新聞取材班『相模原障害者殺傷事件』四〇~四五頁(朝日文庫、二〇二〇)
*3 朝日新聞 二〇一六年七月二六日記事
*4 朝日新聞 二〇一六年八月一七日記事
*5 神奈川新聞取材班『やまゆり園事件』 九七頁(幻冬舎、二〇二〇)
*6 神奈川新聞取材班『やまゆり園事件』一一七頁(同右)
*7 神奈川新聞「カナコロ」二〇二〇年三月一七日記事
https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-300894.html
*8 読売新聞オンライン「ヨミドクター」松永正訓(二〇一九年一月十日コラム)
*9 朝日新聞取材班『相模原障害者殺傷事件』一二四~一二八頁(朝日文庫、二〇二〇)
(第01回 了)
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