世界は変わった! 紙に印刷された文字の小説を読む時代から、VRでリアルに小説世界を体験できるようになったのだ。恋愛も冒険も、純文学的苦悩も目の前にリアルな動画として再現され、読者(視聴者)はそれを我がことのように体験できる! しかしいつの世の中でも悪いヤツが、秩序を乱す輩がいるもので・・・。
希代のストーリーテラーであり〝物語思想家〟でもある遠藤徹による、極めてリアルな近未来小説!
by 遠藤徹
十四、『三四郎』第四章 広田先生の引っ越し(後編)
d:里見美彌子―ヴォラプチュアス!―
ようやく広田先生の転居先が見つかる。与次郎に言われて三四郎は引っ越しの手伝いに行くことになる。天長節の日と書かれているが、つまりは現在の天皇誕生日のことだ。明治時代の場合は十一月三日だということになる。
広田の新居は、縁側のある座敷、茶の間、勝手、下女部屋のある純和風の家に、西洋間が玄関の代わりにつきだしている家で、二階もある。
「和洋折衷ってことね」
「こんなところにも、西洋化の影響が出ていたわけだね。西洋間が突き出していると書かれていることから、世の洋風へのあこがれを受けて増築されたとも考えられるね」
「和洋折衷が一般的になるのは、大正時代の文化住宅からだと思ってたけど」
「もう、明治時代にその萌芽はあったってことだろうね」
「高等学校で天長節の式が始まるベルが聞こえたとあるから、この家は広田の学校からすぐ近くだってことがわかるね」
職住接近というわけだ。
一人でその家に先についた三四郎は、掃除をするでもなく、ただ庭を眺めている。
「そこへ、池の女が不意に現れる。このいきなり感、不意打ち感がいかにも彼女らしいよね。そして、生け垣で仕切られた、十坪に足りない小さな庭に現れた彼女を見て、三四郎は『花は必ず剪って、瓶裏にながむべきものである』と悟る」
つまり、生け花。
「ここでも、池の女は絵の女として表れるんだよね。つまり静止像として。根っこを裁たれ、絵のフレームと同様に、瓶のなかへと閉じこめられた動かぬ姿としてイメージされているわけね」
「そうだね。よし子が、自然な感じで存在している女なのに対して、池の女は常に一幅の絵として自らを演出するってことだ。生きている本体から切り離された、人為的に構築された美として」
「彼女の身体でもっとも強調されるのは目よね。三四郎の観察に従うならば、『女の咽喉が正面から見ると長く延びた。同時にその目が三四郎の眸に映った』。三四郎はその目を美学の教師から習った、フランスの画家グルーズに重ねて、ヴォラプチュアス!と表現する」
「三四郎がいうヴォラプチュアスな目っていうのは、『何か訴えている。艶なるあるものを訴えている。そうしてまさしく官能に訴えている。けれども官能の骨を通して随に徹する訴え方である。甘いといわんよりは苦痛である。卑しくこびるのとはむろん違う。見られるもののほうがぜひこびたくなるほどに残酷な目つきである』という意味だ」
「妙に饒舌よね、こういうところだけ」
「強烈な、見ている方を屈服させるような官能を放つ目ってことかな。漱石は、当時流行していた田山花袋の『蒲団』に代表されるような自然主義的なリアリズムの肉感的な官能描写を嫌っていたんだよね。だから、池の女の官能を表現するのに、肉体そのものではなく、目だけを使った。もちろん、三四郎の目線が、女の体を細かく観察していることは、すでに見たとおりだけれど、池の女に関しては、印象的に描かれるのはいつも目だけになっている。目だけで表現しようとするから、勢い饒舌にならざるを得なかったということかもしれないね」
「実際にグルーズの絵を見てみると、けっこう肉感的な目の大きな女性が少し眉を下げた媚びるような視線でこちらを見ているというのが多い。でも、三四郎は、池の女には『グルーズの絵と似たところは一つもない。目はグルーズのより半分も小さい』と言ってる。だから、まったく違うタイプの、媚びない目線の官能があったということよね」
「だから、グルーズの絵に、田山花袋的な自然主義的官能を代表させて、同じヴォラプチュアスでも、もっと象徴主義的なものとして描き出すことができると漱石は言いたかったのかもしれないね」
「蘊蓄」ボタンを押すことで、読者=体験者は、グルーズの絵画を実際に幾つでも見ることができる。そしてその印象を元に、それぞれの想像力で池の女のイメージを画像として楽しむことができる。中川信夫の映画では八千草薫が美彌子、つまり池の女を演じている。でも、VRの読者は、自分の好みの女優でも、歌手でも、身の回りの人物でも、あるいは架空の人間でも好きに、美彌子像を構築することができる。さあ、ご自由にご想像=ご創造ください、ってわけだ。
池の女は、着物姿に大きな洋風の籃を下げている。
これもまた和洋折衷である。しかも、バスケットの中身は後でわかるように、いかにもハイカラな西洋風の食べ物であるサンドイッチなのである。さらには、帯の間から、名刺を出して三四郎に渡す。これもまた、文明開化とともに広まった洋風の風習であり、しかも主として男性の文化であった。池の女は、西洋化していく日本の時流の最先端を、男性に負けることなく走っている自分というものをここで演出しようとしているかのようである。
ここで初めて三四郎は、池の女の名前が、里見美禰子であることを知る。本郷真砂町に住んでいることもわかる。つまり、その名刺には肩書きはなく、名前と住所だけが書かれていたことになる。
「対話の中で、三四郎は女もちゃんと病院と池の端での出会いを覚えていることを確認するわよね。つまり、女の方も、東京帝国大学学生である三四郎に意図的にアプローチしていたことがここで明らかになるわけ」
「でも、だからといってへりくだってるわけじゃないよね。掃除を始めようということになると、女は隣の家で箒やはたきを借りてくるように三四郎にいうわけだから。ここには決して男に従属しない、自立した女性のイメージがあるよね。そして、『掃除をするにはもったいないほどきれいな色』の前垂れをつけて掃除を始める。こちらには、常に絵としての見栄えを意識している彼女の自意識が現れている」
「けっこうややこしい女ね。一方で主導権を要求し、他方では視線の対象としての受け身の自分も意識している感じだもの」
「まあ、それは女性がおかれていた地位ゆえに仕方のないことかもしれないよね。それに、視線を意識した振る舞いっていうのは、男性を従属させて、より自らの主導権を確かなものにするための手段だって考えることもできるよね」
美禰子が箒で掃いたあとを、三四郎が雑巾がけしながら追いかける。二階の雨戸を開けるよう言われた三四郎は、暗がりで美禰子に呼ばれて近づく。『三四郎は黙って、美禰子の方に近寄った。もう少しで美禰子の手に自分の手が触れるところで、バケツに蹴つまづいた。大きな音がする』とある。
「二人の接触はみごとに阻まれたわけだ」
「そうね。近づきはするけど、それ以上にはならない二人の距離がここで示されたっていうことになるのかもしれないわね」
ようやく雨戸が開き二人は外を眺める。美禰子は雲を見ている。
「雲をめぐる対話も興味深いわよね」
「そう、後で野々宮と美禰子が戦わせる飛行器械をめぐるやりとりともつながる、二つの世界観がせめぎあうかたちの対話だよね」
雲を指さして『「駝鳥の襟巻に似ているでしょう」』という美禰子に、三四郎は『あの白い雲はみんな雪の粉』だと、野々宮から借りてきた科学的視点で応じる。それに対し、美禰子はへりくだることなく、『「雪じゃつまらないわね」』と答える。その理由を三四郎が問うと、『「雲は雲でなくっちゃいけないわ」』と答える。これはまさに、詩と科学、あるいは文学と科学の対決なわけで、自分のたち位置が定まらない三四郎を介して、ここでも美禰子と野々宮が、世界の見方を巡って対峙していることになる。
「美禰子は文学の側にいるわけね」
「雲は水滴に過ぎないっていうのは、寺田虎彦のエッセイに書いてあることだよね」
「えっ、これ?」
「そう、これ」
俺はVRで引っ張ってきた『茶わんの湯』というエッセイを、高満寺に見せた。
「最初の書き出しを読んでみてよ。ほら、『ここに茶わんが一つあります。中には熱い湯がいっぱいはいっております。ただそれだけではなんのおもしろみもなく不思議もないようですが、よく気をつけて見ていると、だんだんにいろいろの微細なことが目につき、さまざまの疑問が起こって来るはずです。ただ一ぱいのこの湯でも、自然の現象を観察し研究することの好きな人には、なかなかおもしろい見物です。
第一に、湯の面からは白い湯げが立っています。これはいうまでもなく、熱い水蒸気が冷えて、小さな滴になったのが無数に群がっているので、ちょうど雲や霧と同じようなものです。』ってあるだろ」
「ほんとね。野々宮のモデルが寺田虎彦だってのは、ほんとなわけね」
「まず間違いないところだろうね」
d:人魚
そこへ、荷車とともに、ようやく与次郎が到着する。書物を洋間にある書棚に入れる作業が描かれるが、どうやら洋間にふさわしく、書物の大半は洋書であるようである。美禰子は英語のタイトルをすらすらと読んでみせる。英語に堪能なことがここでさりげなく明かされるわけで、名実ともに彼女が、本郷文化圏の男性たちと互しうる知性の持ち主であることが示される場面だといえる。考えてみれば、学問の世界ではそもそも男女というジェンダーは無関係なのである。
「ここで美禰子はさらにやらかすのよね」
「そう。『「ちょっとご覧なさい」』と三四郎を呼ぶ。開かれた画集を見ようと三四郎が顔を出すと『美禰子の髪で香水のにおいがする』。わたしは、フローラル系の匂いとして体験したけどね。これもさりげない官能攻撃だけど、そこじゃ終わらないのよね。だって、画集のそのページには、なんと裸体の女が描かれているんだもの」
「そう、でも下半身は魚のマーメイドだけどね」
「池の女らしく、半人半魚なわけね」
「しかも、絵だからね。池の女であり、絵の女である彼女そのものともいえるよね。自らの裸体を示すことなく、ものすごく遠回しなかたちで自分の正体を明かしているともいえる。二人が同時に『「人魚」』と唱和する場面は、なかなかにエロチックだよね。でも、そこにきっちり『「なんだ、何を見ているんだ」』と与次郎が割って入る」
「二階で二人が近づいたときに三四郎が蹴ってしまったバケツの役割を今度は与次郎が果たすわけよね」
「そう、二人がそれ以上近しくなることは、きちんと阻まれるわけだ」
「人魚といえば、やっぱり谷崎よね」
「そうだね。『人魚の嘆き』は、いまでもマニアックな読者=体験者が多い作品だよね。なんせ、あの小説に入れば、リアル人魚が、谷崎の耽美的な文体とあいまって、いかにも官能的に立ち現れるわけだからね」
「ビアズリー調の挿絵も素敵だしね」
『うつくしい玻璃制の水甕の裡に幽閉せられて、鱗を生やした下半部を、蛇体のようにうねうねとガラスの壁へ吸い着かせながら、今しも突然、人間の住む明るみへ曝されたのを恥ずるが如く、項を乳房の上に伏せて、腕を背後の腰の辺りに組んだまま、さもせつなげにすわっている』人魚。西洋の異人からこの人魚を買い求めた中国の貴公子の、人魚に寄せる無条件の賛美、憧憬を中心とした物語である。そう、これは、美にひれ伏す者の物語なのだ。
「入り浸るだけだったらいいんだけどね」
「うん、見るだけでは飽き足らなくなって、水甕に飛び込むやつとか、水甕割っちゃうやつとか、貴公子の元から人魚を連れ去ろうとするやつとか、いろいろいたよね」
「そして、きっとこれからもいるわよ。VRが続く限り」
「まあいいさ。俺たちは食いっぱぐれないってことだもの」
そう、耽美主義は不滅なのだ。どの時代にも、ある一定数のコアなファンが確実にいるものだからだ。
e:アフラ・ベーンー黒んぼうとしての三四郎―
そこへようやく学校に行っていた広田が到着し、書物談義が始まる。
「また、アフラ・ベーンが出てくるのよね」
「そう、三四郎が『どんな本を借りても、必ず誰かが目を通している』という話をして、試しにアフラ・ベーンという人の小説を借りてみたが、やっぱりだれか読んだあとがあると言ったところ、広田が、『「アフラ・ベーンならぼくも読んだ」』と答えて三四郎を驚かせる。与次郎も驚いて、『あれだから、偉大な暗闇だ。なんでも読んでいる。けれどもちっとも光らない』と答える」
「でまあ、美禰子がもってきたサンドイッチを食しながら、アフラ・ベーンについて広田が少し講釈を垂れるのよね。洋風のサンドイッチを、大きな重い籃に入れて平気で持ってくる美禰子の西洋かぶれと、男勝りが際だつ部分でもあり、男性たちに食事を用意してきて振る舞う細やかな女性的心遣いが示される場面でもあるわね」
「まあ、ここも、洋風の食事を用意して振る舞う自分というイメージを演出しようって意図が多分に感じられる部分でもあるけどね」
「まあそれはそれとして、広田がアフラ・ベーンについて語ったことを整理してみましょう」
「ああ、そうしよう」
「まず、一七世紀の女性としては最初の職業作家だということを告げ、オルノーコという作品があっただろうと三四郎に問うのよね」
「でも、三四郎はきれいに忘れている。たぶん、三四郎は借りて眺める程度に本を見た程度で、ちゃんとは読んでなかったんじゃないかなと俺は思うけどね」
「そこで、ちゃんと読んでる広田が内容を教えるわけよね」
「『オルノーコという黒ん坊の王族が英国の船長にだまされて、奴隷に売られて、非常に難儀をする』話であり、しかもそれが作家の実見譚として後生には知られていると広田はいう」
「ここからがおもしろいわよね」
「そう、与次郎が美禰子に、そういう小説を書いてみたらと問いかけると、美禰子は『「書いてもよござんすけれども、私にはそんな実見譚がないんですもの」』と答える。つまり、彼女には小説を書こうという気持ちがないわけではないことがわかる。筆で身をたてると言うあこがれは持っている人物なわけだ」
「そこへ、与次郎が『「黒んぼうの主人公が必要なら、その小川君でもいいじゃありませんか。九州の男で色が黒いから」』という。つまり、黒人のオルノーコと、九州からやってきた黒い肌の三四郎を同一視してみせたわけだ」
「ということは、作者アフラ・ベーンに見たてられた美禰子は白人ってことになるわけよね」
「与次郎のこの言葉は、一見『口の悪い』冗談にすぎないように見えるけれど、実際には簡単に読み=体験し流すべきじゃない部分なわけだ。単なる黒人と白人の対比じゃないからね。そこには、アフリカとイギリスを九州と東京に置き換える意図が含まれているし、それは植民地と宗主国の関係に擬することもできる。また人種や国家の違いを背景として考えれば、二人の住む世界は違いすぎており、決して結ばれることはないという予言を、ここで与次郎がしているのだとも考えられるわよね」
「与次郎のコンプレックスも潜んでるように思うわ」
「そうだね。正式な学生つまり本科生である三四郎と、ある程度の金額を払うことで幾つかの科目を受講できるだけの撰科生である与次郎との間には実際には大きな格差がある。後になって、与次郎は、医学生のふりをして女性とつきあったりしていることが明らかになるわけだけど、要は与次郎は東京帝国大学の名前を都合よく利用するために撰科生となっているわけで、極端に言えば似非帝大生なわけだ。そこから生じてくるコンプレックスは、想像するにあまりあるよね。黒い肌のろくに物も知らず、自分なりの思想ももっていない田舎者が、自分より遙かに恵まれた地位にあり、おそらくは自分より輝かしい未来を約束されていることは明白なわけだからな。無意識のどこかにこき下ろしてやりたいという気持ちが潜んでいる可能性は否定できないよね」
「そう考えると、三四郎っていうのは、ある意味とっても複雑な存在の仕方をしていることになるんじゃない? 一方では、黒人に比せられる被支配層であり、他方では支配者層の予備軍たる帝国大学学生であるわけだからね」
「うん、俺には、そのねじれっていうか、引き裂かれたありようが、三四郎というネーミングに潜んでいるようにも思われるんだけどね」
「ネーミングっていえば、さっきは、この話が二三歳から二四歳までを描いたから三四郎だっていう話をしたと思うけど」
「それもあるだろうけど、むしろ三郎でもなく、四郎でもないというところに眼目があるようにも思えてくるな。つまり、引き裂かれているということ。どちらにも収まりきれないということ。三郎と四郎の間を揺れ動く不安定な存在だということなんじゃないかな」
「でも、なんで三男と四男なのかしら」
「一つの仮説だけど、野々宮は長男だよね。そして、後で出てくる美禰子の兄恭助は次男ということになっている。野々宮は明らかに学問の世界を体現しており、恭助は政治や実業の世界、すなわち現実界を体現している人物だ。そして、三四郎は、そのいずれにも惹かれながら、いずれに帰するかも決めかねている存在だろう。そういうつながりを考えてみることもできるんじゃないかな」
「あと、気になると言えば、あれもあるわ。三四郎が手にしたアフラ・ベーンにもすでに書き込みがあったことよ。つまり、鉛筆っていうとがったものですでに傷が付けられていたっていうエピソード」
「ああ、そうだね。珍しい、誰も知らない女性を、自分の物にできると思ったら、すでに他の男性の手跡がついていたってイメージだね。これも、後の二人の関係の予兆だともとれるね」
「ってわけで、予想以上に、このアフラ・ベーンの逸話は重要だってことがわかるね」
f:嫉妬のごときもの
その後、広田がサザーンという作家がこの小説を脚色した物があるといい、そこからの有名な台詞として『Pity’s Akin to Love』というのがあることを紹介する。与次郎が、『かあいそうだたほれたってことよ』と俗謡風に翻訳してみせる。「かわいそうだって言うのは、惚れたって言う意味だ」という感じだろうか。広田はそれを『「下劣の極みだ」』と評し、遅れてやってきた野々宮は『「なるほどうまい訳だ」』とほめる。
「これは美禰子の境遇を表しているのかもしれないわね」
「うん、気づかないままに、野々宮も三四郎も、美禰子の抱えているある苦悩を感じ取り、それに対するあわれみを愛と錯覚している可能性はあるよね」
「広田先生は、無頓着よね」
「そうだね、彼がそんな風に独身を通している理由も後で明らかになるけどね」
ここで、野々宮が広田に『「妹が学校へ行き帰りに、戸山の原を通るのがいやだと言い出しましてね。それにぼくが夜実験をやるものですから、おそくまで待っているのがさむしくっていけない』というので、また引っ越すかもしれないと言う。
「戸山の原を通るのがいやだというのは、ここに当時陸軍実弾射撃場があって、その流れ弾で傷ついた通行人が出たことを受けているのかもしれない。とすれば、ここにも帝国主義化する国家の陰が見え隠れしている。帝国主義とは、言い換えれば軍事力主義なわけだからね。さらにいえば、連載の半年ほど前に新聞をにぎわした「出歯亀事件」のことを言っている可能性もあるよね」
「池田亀太郎ね」
「そう。いま「蘊蓄」ボタンで調べたけど、酔っぱらうと女湯を覗く性癖があった植木職人の亀太郎が、大久保で起きた婦女暴行事件の犯人とされた事件だね。池田は自白したものの、後に冤罪を主張、今では冤罪説もかなり有力になっている。実際のところはわからないままだけどね」
「そんなこんなで、よし子は、大久保をいやがったわけよね」
「それで、野々宮が美禰子に、『「どうです里見さん、あなたのところへでも食客においてくれませんか」』と尋ねると、即座に美禰子は『「いつでも置いてあげますわ」』と答える。そこへ例によってお調子者の与次郎がそれは宗八のことか、よし子のことかと問う」
「それに、美禰子が『「どちらでも」』と答える」
「つまり、下宿生活にもどる野々宮が面倒を見れなくなるよし子を預かってもよいし、給料の低い野々宮を経済的に支えるかたちでいっしょになってもよいという意味だよね」
「もちろん、はっきりそうとはとれないように答えてるけど、意味としてはそうなるわよね」
「だから、無意識でそういう意味を感じ取った三四郎は黙ってしまうわけだね。もちろんまだ意識で了解しているわけではない。野々宮と美禰子の間に何かあるとは感じているけれど、そこまでのつながりがあるのかどうかにはまだ確信が持てていない。相変わらずどっちつかずの三郎と四郎の間で揺れているわけだ」
よし子が菊人形を見たがっているという話を野々宮がすると、美禰子が連れて行ってあげればいいという。そこで野々宮はさりげなく『「じゃあいっしょに行きましょうか」』と美禰子を誘う。美禰子は『「ええぜひ」』と答えながらも、二人の関係性が際だつのを隠蔽するためでもあるかのように、三四郎や与次郎にも誘いの言葉をかける。帰ろうとする野々宮を追いかけて美禰子が家の外まで追いかけていって何かを話す。
「三四郎は黙っているわけよね」
「複雑だよね。けっこう見せつけられてるわけだから。気づき掛けるのを気づきたくない無意識が押さえつけてるって感じかな」
「そう、読むだけじゃなくて、体験してみると、三四郎のもどかしい感じがすごくよく伝わってくるわよね」
「三角関係じゃないね、これは」
「そうね、三角関係に入りたい三四郎が、二人の関係を注視している感じだね。でも自己演出をやめられない美禰子が、二人の関係を隠蔽する行動をとるものだから、うぶな三四郎には実態がつかめないままなんだよね」
「もどかしいね」
「うん、もどかしいよ、この小説は。全然さわやかな青春小説なんかじゃない」
第四章をまとめておくと、美彌子と出会って三四郎が浮つきだしたということになる。広田の引っ越しを一緒に手伝うことで、三四郎は美彌子は近づいたと感じる。けれども、美彌子と野々宮との親しげな関係に、嫉妬めいたものを感じるという展開。
「嫉妬は、十分犯罪の動機になるけどねえ」
「うん、でも、三四郎が犯人だとしたら、美彌子の兄を殺す理由はまったく見えてこない」
「そうね。あんまりにも関係なさすぎよね」
「与次郎の階級問題はどうかな」
「うん、学歴格差ってのは大きいけど、与次郎と美彌子の兄じゃあ、あんまりにも接点がなさすぎよね」
「そうだね。まだまだ、犯人像の影すらも見えてこないって感じだよね」
もどかしい。
遅々として進まない犯罪捜査の苦しさがよくわかる。
「おまけとしては、三四郎=黒んぼう説かしらね」
「肌の色ではそういう位相に置かれてるわけだよね。でも、与次郎との関係では、本科生という、優越者でもあるわけで」
「当時の日本のイメージとダブルわね、だって、アジア人だけど西欧列強に伍していたわけでしょ」
「やっぱり落ち着かないんだよね。三にも四にも」
(第20回 了)
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* 『虚構探偵―『三四郎』殺人事件―』は毎月15日に更新されます。
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