女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
おチビちゃんが、日本工学院八王子専門学校・演劇俳優科で教えるようになって三年目。今年入ってくる生徒たちは三期生になる。振り返れば一期生の人数は二十人弱しかおらず、四季の名前を全面的に出しているのに……と、あの頃はどこか悔しいようなジリジリした気持ちだった。
今年はその倍以上、四十名ほどの生徒が入学するという。順調といえば順調だけど、本当ならもっと沢山の人が入りたがってもおかしくない、とおチビちゃんは考えている。
何といっても四季の台本や音響を使って稽古ができるし、ちょっと口幅ったいけれど、教えるのは四季で様々な経験を積んできた女優の私――。
学べる時間は二年間だけれど、一年目の「修了公演」と二年目の「卒業公演」を中心に、年に四本は公演を行う。本当に恵まれた環境だと思う。まるで四季の研究所みたいよね、というおチビちゃんの感覚は正しかった。
ここ最近の四季はずいぶんと忙しい。それが証拠に去年の公演数は二千回以上。こんな状態では、なかなか研究所の方も大変だと思う。浅利先生も学科長も、はっきりと言葉にはしないけれどその辺り、何となく予想はつく。
かといって、若い世代の育成をないがしろには出来ないので、外部の施設、例えば工学院が研究所的な役割を果たせるとバランスが良いのでは? もちろんおチビちゃんに異論はない。当時自分が受けてきた以上のものをお返しできるようにと、日々頭と体を使っている。
あと少し気になることがひとつ。最近何となく浅利先生は元気がない。別に不健康そうには見えないので、ないのは元気というより「覇気」だ。
つい先日、小ぢんまりとした上品な料亭でご馳走になった時も、「あと俺は何本くらいできるかなあ」とおどけた口調で呟き笑っていたけれど、あれはかなり本音の部分が多かったように聞こえてしまった。
まあ先生も、もう六十四歳。懐かしい話をして二人で笑っている時はあまり感じないけれど、色々と気をつけなければいけない年齢なのよね――。
そんなことを考えながら、何の気無しに教室に入ったおチビちゃん。今日は三期生の初授業だ。少しざわついていた教室が、一瞬で静かになり空気が引き締まる。この独特な雰囲気が今だけのものだということは、去年、一昨年の二年間で学んだ。
日を追うごとにこの空気は緩んできて、先生が教室に入ってもなかなか引き締まらなくなる。それは決して悪いことだけではなく、周りに慣れ、友達ができ、リラックスできるようになったということ……ん?
視界の端に違和感を覚えたおチビちゃんは、無防備な微笑みを浮かべながらその理由を探す。時間は要らなかった。一番後ろの席の方だけ確かに空気が緩んでいる。
ボサボサの髪にダボダボの服。座っていても分かる大柄な体躯の男子生徒が、机に肘をつき背中を丸め、挑発的な視線を投げかけている。
苦手だなあ、と思いつつも、こういうことは最初が肝心。軽く歯を食いしばってその視線を受けてみる。結果は無反応、どころか彼はつまらなそうにアクビをしてみせた。
こんな具合におチビちゃんの気を滅入らせた少年の名は、ヨシオ。大学のバスケ推薦に落ち、自暴自棄になって遊んでいたところ、真面目な父親にストーブを投げつけられ、「モテそうだから」「楽そうだから」という不埒な理由で入ってきた、身長百八十六センチの十八歳だ。
実はおチビちゃん、そんなヨシオのことをあまり心配していなかった。ああいう感じの子が本当は意外といい子、という話はよくあるし、そうは言っても自ら望んでこの学校に来たのだから、そんなに大変なことにはならないだろう。そう思っていた。ところがその読みは少し甘かったようだ。このヨシオ少年、予想以上に手強かったのだ。
分かりやすいところから挙げてみよう。まずは呼び名。最初の何日かは「先生」と呼ばれていたが、そのうち「あんた」になった。付け加えるまでもないが、そんな生徒は他にいない。見た目だってそう。むさ苦しいボサボサとダボダボは一向に改善されることはなく、おまけに態度が悪い。時間ギリギリなのに、ゆっくり教室に入ってくる姿はまるでチンピラ。しかもガタイがいいから手に負えない。
続いては内面について。ヨシオは決して無気力なタイプではない。授業にもちゃんと参加するし、意味無く休んだりもしない。ただし思ったことは、授業中でもすぐ口にする。そしてその声がめっぽうデカい。
「どうしてこんなの、やらなきゃいけないんだよ。これって意味ある?」
「ねえねえ、これ何の役に立つの? 本当に必要?」
こんなこともあった。発声の授業中、おチビちゃんは生徒それぞれの特徴を踏まえつつ、ランクごとにグループを作った。もちろんランク分けしていることを気付かれないよう、ポジティブな響きのグループ名も付けてはみたが、ヨシオはその辺り勘が鋭い。授業後、すぐに近寄って来た。
「あんたさ、何で俺が一番下のグループなんだよ」
そう、ヨシオは態度同様、成績もかなり悪かった。結果、おチビちゃんによる査定は「要注意人物」。普通、入学早々に付ける評価ではない。
唯一楽しそうなのは、休憩時間にバスケットボールをやっている時だけ。そんなヨシオを見ながら、近いうち学校をやめるかもしれないなと感じていた。
その日もヨシオは一番後ろの席にいた。見てくれは相変わらずのボサボサとダボダボ。機材のセッティングをしながら、おチビちゃんは予想していた。あの子、イビキをかいて眠っちゃうんじゃないかしら?
何故なら今日の授業は映画鑑賞。これから教室の電気を消して、大きなスクリーンにミュージカル映画『ジーザス・クライスト・スーパースター』を映し出す。四季時代に出演したあの演目の映画版。舞台同様にこの映画も素晴らしい。きっと生徒たちにとって良い刺激になるはずだ。
上映が始まって数分、おチビちゃんは何の気無しにヨシオの様子を窺った。まだ彼は寝ていない。背筋を伸ばし、真剣な表情で画面に見入っている。よかった、と思ったのも束の間、彼は静かに腰を浮かした。どうやら外に出て行くつもりらしい。
あの子には響かなかったか……。そう思った瞬間、彼は意外な行動に出た。椅子ごと少し前に出たのだ。表情は真剣そのもの。決してふざけている訳ではない。その後も映画の上映中、彼は椅子ごと移動を続け、とうとう最前列までやって来た。まるで何かに引き寄せられるみたいに。
今まで一度も見たことのない真剣な表情のまま、彼は映画を見終えた。そして案の定、授業が終わるとおチビちゃんの元へ駆け寄って来た。
「なあ」
「何?」
「今のは何だよ。どういうことなんだよ」
興奮しているのが分かる。彼の内側では今、火花が散っているはずだ。
「どういうことって?」
「だからさ、今のを舞台でやるってこと?」
「そうよ。実は私ね、その舞台に出たことあるのよ」
それが四季の舞台だということを何度か確認した後、ヨシオは「台本、読んでみたいな」と呟いた。間違いない。確かに今、彼の中から火花の散る音が聞こえる。
「いいわよ」
間髪入れずにおチビちゃんは答えた。人が覚醒する瞬間を見たのは初めてかもしれない。
「本当?」
「うん。今度持ってくるね」
「ありがと、先生」
そう言ってヨシオは小走りに教室を出て行った。多分、聞き間違いではない。自分が久々に「先生」と呼んだことを、彼は気付いていないだろう。
数日後、おチビちゃんは約束どおり『ジーザス・クライスト・スーパースター』の台本をヨシオに貸し、また数日後に返してもらった。ボサボサとダボダボはそのままだけれど、授業を受ける彼の態度には僅かな変化があった。簡単に言えば、少しだけおとなしくなった。
でも、まだ「要注意人物」の評価は変わらない。おチビちゃんと話をする機会も増えたが、その内容は他の先生の授業に対する文句などで、気持ちは理解できなくもないが立場上賛同することは難しい。
何となく伝わってくるのは、彼が地道な基礎練習を億劫に感じていること。無理もないな、と思う。入学前に想像していた「演劇の学校」は、もっと実践的でもっと刺激的な授業を行うはずだったのだろう。
「あのねえ、今の実力のままで面白い授業を受けても、何もならない。もったいないだけだよ」
ストレートにそう教えてあげたいが、この状態では逆効果になってしまう。あの日、彼の内側からは確かに火花の音が聞こえたはずなのに……。
ここ最近、夏休みに向けておチビちゃんは、少々忙しくしている。実は数年前、SKDの団員さんへの指導を任された頃から、毎年八月末に千葉県の農家の庭で野外公演を行なってきた。出演者・スタッフの半数は現地・千葉に住んでいる方々だ。
「演出だったら出来ると思うよ」
浅利先生からいただいた、その言葉に少しでも近付き、またいつかは乗り越えられるよう、おチビちゃんも一歩一歩、着実に前進していた。
目下の悩みは今年の公演のキャスティング。工学院の生徒たちから数名選んだが、なかなか決まらない主役級の重要な役がある。何を隠そう、宇宙人の役。
自己本位でエゴの塊、地球や地球人を愚かだと見下しているくせに、文明の進んだ自分の星には無いもの――「情熱」を奪いにやって来た宇宙人。そんな役にぴったりなのは……。今だってそうやって考えていた。
場所は学校内の購買部で、生徒たちと一緒に並んでいるところ。前に並んでいる人、ずいぶん大きいなあ、と思ったら何のことはない、ボサボサでダボダボのヨシオだ。
一瞬、ひらめくものがあった。宇宙人、どうかな?
色々な意味で本人と重なるところも多いし、意外とハマり役かもしれない。ただ躊躇しているのは、数日前の会話を思い出しているから。
「で、どうするの? これから」
何の気なしに尋ねると、彼は夏休みが終わったら、やっぱり学校を辞めるつもりだと言った。
「やっぱりって?」
「え、俺言わなかった? 本当はさ、もうとっくに辞めてるはずだったんだよ」
「?」
キョトンとしているおチビちゃんに対し、もどかしそうにヨシオは話し始めた。
『ジーザス・クライスト・スーパースター』の映画を教室で見たあの日、実は退学届を用意していたとヨシオは打ち明けた。
「本当はあれが最後の授業のつもりだったんだ」
何で辞めなかったの、とは尋ねない。答えは分かっている。あの映画が彼の中に響いたからだ。それなのに「やっぱり」辞めちゃうなんて……。
結局おチビちゃんは、目の前に並んでいるヨシオに声をかけた。どうせ辞めるなら、一度宇宙人やってからでも遅くない。そう思ったから単刀直入に切り込んでみる。
「ねえ、夏休み、何してる?」
「何? 遊ぶの?」
「千葉なんだけど来る?」
「うん、いいね。遊びに行きたい」
「あのね、遊びじゃないの。千葉でお芝居やるんだけど、一緒にやらない?」
断られるかな、と覚悟していた。でも違った。「いいよ、やるやる」とヨシオは笑いながら誘いに乗ってくれた。「本当に?」と再び尋ねたりはしない。今、この子に必要なのは、何度も気持ちを確かめることではなく、実際に何かをやってみることだ。
(第45回 了)
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