恋愛は小説の一大ジャンルでございます。もちろん登場人物の年齢によって描き方が大きく異なります。ティーンが主人公の場合は恋愛幻想を描くことが多ございますわね。永遠の愛といったものかしら。それはもちろん深い意味を持っていて、誰もが永遠の愛があればいいと思っています。簡単に言えば男女(同性でもいいですけど)の完全相互理解の可能性です。だけどそれは決して得られない。人間同士は絶対に完全理解という理想を得られない生き物です。ティーン小説ではそれが恋人の死や爽やかな出会いと別れといった形で描かれます。実生活上でのしがらみがないから永遠の愛が途切れただけという印象になります。
これが中年にさしかかるとセックスが恋愛の大きな要素になってきます。経済を含めた社会的しがらみも無視できなくなる。もちろんセックスをスキャンダラスに描く方法もありますが、今どきポルノ小説じゃ訴求力がありませんわね。セックスを大きな要素にしてもそれは男女の結びつきと離反、あるいは相互理解の不可能性を描いていることが多ございます。
年を取っても人間は相変わらずどこかで人間同士の相互理解の可能性を求めています。しかしすでにそれが不可能だとわかっている。中年以上の主人公になると小説主題はティーン小説よりハイレベルになっているとも言えますね。肉体的、社会的しがらみを重々意識していても、それでも、という主題が見えてこないとなかなか面白い小説になりません。
そこまで考えて、私はべつに晴彦に我慢してほしいわけでもないな、と思い直す。
ただ私の喜びや楽しさが、けっして彼自身の喜びにはならないということが、時々、虚しいのだ。
寝室に行こうとしている背中に、私は呼びかけた。
「ねえ、責めてるわけじゃなくて、素朴な疑問なんだけど」(中略)
「晴彦は、私が楽しければ自分も嬉しいって思うことはないの?」
「もちろん、それはあるよ」
と彼は即答した。腕組みをしたまま。
「俺だって永遠子が好きなことや、わがままを聞きたいし、言ってほしいと思ってる」(中略)
「分かった。ありがとう」
私は笑って返した。晴彦がふっと不安げな顔を作った。
「俺はこういう時に感情的にならずに冷静に話ができて、頑張って弁護士なんて立派な仕事をしている永遠子のことを尊敬してるし、素晴らしい女性だとも思ってるけど、永遠子は俺で良かったのかな」
今度は私が、もちろん、と即答した。
島本理生「骨までばらばら」
島本理生先生の「骨までばらばら」の主人公は弁護士の永遠子です。結婚三年目で晴彦という夫がいます。「安定した収入があって家事も得意でセックスも上手な晴彦は一見、現代的で理想的なパートナーで、ただ、やけに嫌いなものが多いことは結婚前から分かっていた」とあります。メリットとデメリットを言えば、まあメリットの方が遙かに多い夫です。普通に言えば理想の夫に近いでしょうね。
ただ夫婦の間には隙間風というか、埋めがたい溝が生じ始めています。永遠子は「私の喜びや楽しさが、けっして彼自身の喜びにはならない」ことに苛立っています。しかしその苛立ちを感情的に爆発させることがありません。晴彦の方も永遠子は「感情的にならずに冷静に話ができ」る素晴らしい女性だと言います。しかし一方で「永遠子は俺で良かったのかな」と言う。夫婦とは何か、愛とは何かが問われているのです。
ではもっと感情剥き出しにして言い争えば夫婦の相互理解が深まるのかと言えば、そんなに簡単ではありあません。永遠子も晴彦も、お互いが経済的に自立していて感情のコントロールができ、セックスの相性も悪くないから結婚した。それが二人の愛の前提でした。二人ともそれが愛だと考えていた。しかしじょじょに生じたすれ違いの溝は大きい。結婚して初めて当初の愛に疑問が湧いたと言ってもいいでしょうね。この夫婦には感情的諍いによる問題解決方法が最初から奪われています。相互理解を得る方法が見当たらないのです。
狭いベッドの中で、遼一さんの太い腕が背後から私の裸の体をすっぽり抱いてしまうと、泣きそうになった。抱かれているようでも、しがみつかれているようでもあった。重さなど感じなかった。
いっそ執着されて私の生活ごと壊されてしまえばいい。でも、そういうことができずに帰ってしまえばメールも電話も一切なくて、それでも私が会いたいとか行きたいとか言えばいつだって受け入れ言葉少なに受け入れて慈しむことしかできない人だと分かっていた。そのことに自分が傲慢な救いを見出していることも。
同
永遠子は労災の弁護を頼まれた叔父の遼一と浮気しています。二十歳年上の男で物静かで口数の少ない人です。子供の頃、横暴だった父親に殴られた永遠子を救ってくれたのが遼一でした。その時からほのかな恋心を抱いていたのですが弁護士として再会して肉体関係が生じた。永遠子の方から強引に誘って生じた関係です。
通常の意味では浮気なのでしょうが罪悪感はほとんどありません。永遠子は遼一とセックスしながら夫の晴彦ともセックスしている。セックスは重要な要素ではないということです。永遠子は自分の殻を壊したい。ただ遼一は永遠子を〝壊して〟くれる人ではない。遼一との関係は修復しがたいすれ違いが生じてしまった夫との関係からの逃避であり、自分を変え、そして夫との関係を変えるためのステップだということです。
「俺とのことで、永遠子が泣いたところを見たことがなったよ。だから、永遠子はじつは俺なんかよりもハイスペックな男がいて、体面だけで結婚してるんじゃないかとは、たしかに疑ってた。まさか、あの人が相手だったなんて」
私は遼一さんだけに恋をした。でも、結婚するならこの人だと思った。なぜなら晴彦となら、たとえ愛じゃなくても、理性と役割で上手く協力していくことができると思ったのだ。(中略)
あれほどあたたかいと思っていた遼一さんの体を思い出そうとしたら、夜明けの部屋の中で一瞬、真っ暗に見えたシルエットしか浮かんでこなかった。そこに重なった死体のような私の裸の背も。分かっている。私は間違えることができない。あの部屋の私は今、死んだのだ。
だから来世では抱き合っているときに殺してほしい。玄関にFerragamoの靴を残したまま。
この期に及んでもそんな戯言を胸のうちで唱えながら、私はあらためてダイニングテーブル越しに晴彦と向かい合った。そして離婚後の財産分与についてどうするかを話し合い始めた。
同
永遠子は夫の晴彦が浮気していることを薄々気づいていましたが、晴彦が「(愛人に)子供ができたんだ」と切り出します。離婚を言い出したのは夫の方だということですね。永遠子は不妊という設定なので、フェミニズムの文脈では「これだから男は」になってしまうでしょうが小説ではそれはあまり意味がない。この夫婦はいずれ別れることになる。どちらかがそれを言い出すわけですが、夫の方だったというだけのことです。
夫に愛人がいることを知った永遠子は自分も遼一と浮気していたと告白します。晴彦は驚きますが怒りはしません。自分が浮気していた負い目からではありません。自分と同じように永遠子もまた夫婦関係に満たされないものを感じていたとわかったからです。晴彦は「永遠子はじつは俺なんかよりもハイスペックな男がいて、体面だけで結婚してるんじゃないか」と疑っていたと言います。お互い体面で結婚しているんじゃないかと疑いながら、そうではない、本当に愛し合っているという域まで達することができなかった夫婦です。
この冷静でお互いに対して思いやり深い夫婦の関係は最後まで続きます。「私はあらためてダイニングテーブル越しに晴彦と向かい合った。そして離婚後の財産分与についてどうするかを話し合い始めた」という叙述は切ないですね。また切ない分、とってもお上手は小説の終わり方だと思います。
なお永遠子には学生時代にビッチととあだ名され、男と遊びまくっいていた萌という親友がいます。今は元ヤンの男と結婚して二人の子供を育てている主婦です。この萌が重要な役割を果たします。永遠子と夫はいわゆるW不倫という泥沼の関係にありますが、少なくとも永遠子の愛の希求は天上に向かっている。そして萌は天上ではなく地上の愛を得た女として描かれています。
永遠子は萌という地上の愛の女の存在を知りながらそれを求めることはありません。夫と別れれば遼一とも別れることになると予感しています。二人とも彼女の愛の希求を満たしてくれる男ではない。永遠子の願望は「来世では抱き合っているときに殺してほしい。玄関にFerragamoの靴を残したまま」ということです。そうするには現世のしがらみを振り捨てて愛に突進するほかない。だけど「私は間違えることができない」。つまり「骨までばらばら」。秀作ですわ。
佐藤知恵子
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