女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
なんとなく少し先のことが分かる時がある。その日もそうだった。部屋でぼんやりテレビを見ながら、そろそろ電話がくると思った。別に初めてのことではないから、本当にかかってきても驚かない。それどころか少し落ち着いた感じで、おチビちゃんは受話器を取った。
「ちょっと、朗報よ!」
もしもし、と言うより先に声が聞こえた。小林社長だ。何だかやけにテンションが高い。
「もしもし、ねえ、聞いてる?」
「あ、はい」
「だから、朗報なのよ」
「あの……」
「ん?」
「ローホーって何ですか?」
そんなおチビちゃんの大暴投に「調子狂っちゃうのよね」とボヤきながら、社長はテキパキと教えてくれた。朗報は「嬉しい知らせ」のこと。
「で、何があったんですか?」
「うん、決まったわよ、朝ドラ」
やりましたね、という言葉にうまく感情が乗らず、「自分のことじゃないの」と社長に笑われたが、すぐに実感は湧かなかった。もちろん嬉しかったが、それは事務所に貢献できたという嬉しさで、電話を切ってもまだどこかぼんやりとしていた。
これは面白そうかも、と思えたのは翌朝。実際にその朝ドラを見てからだった。番組のタイトルは『おしん』。後に視聴率六十二パーセントを記録する、NHK連続テレビ小説史上、いや日本のテレビドラマ史上に燦然と輝く人気番組だ。通常朝ドラは半年間の放送だが、『おしん』は九年ぶりの一年間放送。だからまだ撮影に入っていないおチビちゃんも視聴することができた。
『おしん』は戦中・戦後を生きた女の一代記。小林綾子、田中裕子、乙羽信子、と三人の女優が主人公を演じている。おチビちゃんが出演するのは田中裕子さんが演じる青春・成年期。川辺梅子というミシンの縫い子の役。
最初はあまり目立たない役の予定だったが、梅子役の役者がスケジュールの都合で出演を見合わせた為、おチビちゃんが「昇格」することになったのだ。小林社長が更に喜んだのは言うまでもない。劇中、田中裕子さんのすぐ隣でミシンを踏む役だったのでセリフもあるし、毎回ちゃんと顔が映る。足踏みミシンは未経験だったので撮影前に練習が必要だったが、丁寧に役作りが出来るのはむしろありがたかった。
あとやはり「NHK」というブランドは強い。役者としてあまり感じることはないが、出演決定を告げた時の両親や親戚の喜び方が違う。それも含めて、とてもやり甲斐のある仕事に巡り会えたとおチビちゃんは喜んでいた。
本当のことを言うと、他の民放各局に較べてNHKは色々な面で厳しいらしい、とか、かつらの専門職である床山さんに気に入られないと大変、等々まことしやかに囁かれる噂に少なからずドキドキしていた。
無論そこまで激しいことはなく、人気番組の現場という適度な緊張感の中、思い切り自分の力を出し切ったと思う。ちなみに田中裕子さんと、彼女の亭主役の並木史朗さんは文学座の同期。劇団こそ違えど舞台出身同士、楽しくお話をさせていただいた。
その後もフジテレビの連続ドラマや、数年前に実在の事件を題材とし、緒形拳主演で大ヒットした映画『復讐するは我にあり』のテレビ版に出演したおチビちゃんだったが、ふと思いがけない行動に出る。役者業とはまったく関係のない「日本語教師養成講座」に申し込んだのだ。その先の目標となるのは、外国人の方へ日本語を教える教師。
なぜ、と訊かれてもなかなか言葉にはしづらいが、自分のことだから少しは分かる。言葉に対しての想いや、何かを教えるということへの興味、そして役者を今後続けていくことへの迷い――。そんな自分の内側にある、まとまりのつかない粒々が、養成講座のお知らせを見た時にパチンと弾けた、としか言い様がない。
その講座自体、今期から新たにスタートするらしく、受講料もほとんどなく、期間も数ヶ月と予想より短かった。更に英語をはじめとする外国語は、話せなくても大丈夫だという。つまり非常に都合がいい。
隠すことではないからと小林社長にも話を通し、ちゃんと両親にも報告をし、いざ指定された日時に赴いてみると予想外のハプニング。主催者のオジサン曰く、なんと予定よりも参加人数が多いという。
「ええ、誠に申し訳ありませんが、講座を受講していただけるのは十一名様と決まっているものですから……」
ペコペコと頭を下げながら、すまなそうに説明するものの、集まった人数はざっと数えても三十人ほど。凄まじい勢いで動揺が広がる。
「ここはひとつですね、公平を期すために、どうでしょう、皆様でジャンケンをしていただきまして……」
平身低頭のまま、そんなことを言い出すから正に火に油。落ち着くまでに数分かかった。まあ成り行きを考えれば、数分で収まってラッキーだったかもしれない。実はこの騒ぎの中、おチビちゃんはすでに諦めていた。生まれてこの方、ジャンケンで良い思いをしたことがない。ああ、せっかくの決心もこんなことでダメになってしまうんだわ……。
でもそれは、運を浪費していないという証明でもあったようで、不承不承のジャンケン大会の結果、おチビちゃんは危なげなく勝ち進み、見事受講資格を得て、数ヶ月後には御免状までいただくことになった。
その後も事務所を辞めた訳ではないので、ひき続き仕事は入ってくる……はずだったが、次の話はちょっと変わった形で舞い込んできた。
社長の話によれば、演出家のご指名。「まだそちらに所属していますでしょうか?」と、直接電話がかかってきたらしい。なんでも、どうしても頼みたい役があるという。
「しかもその仕事がね、大河なのよ、大河」
またNHK、しかも伝統ある大河ドラマ。今回もきっと「ローホー」だったに違いない。
「で、何の役なんですか?」
役者にとっては放送局よりもそちらの方が気にかかる。しかもご指名となれば居ても立ってもいられない。
「まだ聞いてないんだけどね、そうそう、今度台本取りに行ってくれる?」
待つこと数日、ご指名をしていただいた演出家の松岡孝治さんと会う日が来た。彼は予想外に若かった。
「どうも。初めまして」
もしかしたら、どこかの現場でお会いした方かもと思ったが、そうではないようだ。お互いに挨拶を交わすと、早速台本を手渡された。
番組のタイトルは『山河燃ゆ』。原作は山崎豊子の小説『二つの祖国』を原作とした、日系アメリカ人二世の姿を描いた意欲作だ。驚いたのは、ご指名がかかるほど自分にぴったりの役が「外国人」だったこと。
「外国人……ですか?」
「ええ、そうなんです」
渡された台本に目を通す。たしかにフィリピン人女性の役だった。セリフはもちろん英語。そして普通の女性ではない。日本軍に抵抗するゲリラだ。しかも台本のト書きにはこう書かれている。
――男の子に見えるが、近付き顔を隠していた笠を取ると、息を呑むような美女。
「あの……」
「はい?」
「本当にこの役、私でいいんでしょうか?」
「そりゃそうですよ。だから私はあなたを……」
「息を呑むような美女って……」
不安げにそう訴えるおチビちゃんに、彼は屈託のない笑顔を見せた。
「ああ、それ全部無視しちゃって下さい」
「え?」
「全然構わないんで」
気にした自分が恥ずかしく、おチビちゃんは普段より大きな声で「そうですよねえ」と笑ってみせた。
出演するシーンの舞台は太平洋戦争末期の一九四五年二月、日本に占領されて三年目となるフィリピン・ルソン島。おチビちゃん演じる少女は、家族を殺され一人で生きていかねばならず、銃を隠し持ちながら自衛のために男装している。
ある日、少女はコメディアン出身のポール牧演じる日本軍・吉原伍長に捕らわれてしまう。その傍らには西田敏行演じる、日系二世で通訳も行う心優しい兵士・忠の姿があった。
荒れ果ててしまった自分の家に連行され、食糧を出せと脅される少女。そんなものはない、と言い張るが吉原伍長は天井に隠してあった食糧を発見してしまう。命の危険を感じて家を飛び出す少女。彼女を銃殺せんと後を追う伍長を、これ以上殺生することはないと阻止する忠――。
撮影地こそ国内・関東某所だったが、とにかく緊迫した場面。それだけに撮影は難航した。
室内を飛び出し、崖を下って逃げるところをポールさんと西田さんが追いかけてくるシーン。「崖を下る時に一回転んでから、立ち上がり逃げ去る」というアクションを、おチビちゃんは指示されていた。ところが何度やってもダメ。カットがかかってやり直しになる。自分への注意は一切出ないので、アクションについて変えることもできない。そろそろ身体がきつくなってきたタイミングで監督が怒鳴った。
「おい、いったい何度やらせるんだよ! その子、足から血が出てるぞ!」
言われて初めて出血に気付く。「すみません!」と謝る声は聞こえたが、誰のものかは分からなかった。私は怒られていないけれど、やはり転び方に問題があるのかしら? そうも思った。
その後数度繰り返し、結果八回目のテイクでようやく撮影終了。汗まみれで駆け寄ってきたのは、冷酷で高圧的な伍長を演じたポール牧さんだった。
「ああ、ごめんねえ。僕のせいで怪我までさせちゃって、本当にごめん!」
「いえ、大丈夫です。全然たいしたことないんで」
「いや、無理しないで。とにかくね、バスまでは僕がおぶっていくから」
ロケバスが駐車している場所へは、浅い川を渡らなければならないので、さすがに申し訳ない。なんと言っても相手は芸能界の大先輩だ。
「ほらほら、遠慮しないで。本当に悪かったねえ」
そう言ってその場に屈み込むポールさん。これ以上断るのは逆に失礼にあたると思い、「では、すみません」とお言葉に甘えることにした。バスに到着してからも気を遣ってもらい、彼の代名詞とも言える持ちネタ「指パッチン」まで披露していただいた。
それだけではない。西田敏行さんからは、怪我をしているからと車で家まで送っていただき、逆に申し訳ないような気持ちになってしまった。
ただセットを組んで撮影に臨んだ室内のシーンは相当難しく、本番では一度しかNGを出さなかったが、リハーサルでは何度かトライを重ね、かなりの集中力を要求された。というのもおチビちゃん、英語は不得手。台本を丸暗記し、本職の通訳の方から指導を受けて臨んでいた。もちろん「日本語教師養成講座」のことを思い出す余裕はない。訓練を重ねた結果、発音に関しては問題ないとお墨付きを得ることができた。これで一つ目の難関は突破。
次の難関は演技面。この室内の場面こそ役者の「居方」が重要なポイントとなる。大前提として、演じるフィリピンの少女は敵である日本兵二人と同じ空間で、正に生きるか死ぬかの瀬戸際。極限状態だ。
複雑なのは、日本語を話せない役なので、二人の日本兵の会話を理解するのは不可能ということ。実は西田さん演じる忠には少女をかばう気持ちがあり、実際そのような発言もあるが、日本語で話している間はそれに反応してはいけない。英語で話しかけてくれてから、ようやくリアクションを見せる、という時差、タイムラグが必要になる。
ただ優しい口調ではあるが、内容は結局「食糧を出してほしい」ということなので少女は嘘をつく。もう食糧はない、ここには何もない、と嘘をつき、大切な家族を殺されてしまった、と興奮気味に真実を訴える。加えて心の底には、言葉がちゃんと通じているのか、という不安もある――。
幾つもの真実が絡み合っているシーンだったが、存分に力を出し切れたという実感を持てたのは、周囲の方々の力だなとおチビちゃんは感じた。
その人が持っている能力を完璧に引き出させる「能力」。その存在や魅力を再確認したおチビちゃんは撮影の後、視線を新しい方向に合わせ始めていた。
(第43回 了)
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