友だちの弘美に誘われて、アンナは弘美の会社主催のパーティに出かけた。平穏で退屈な生活に刺激が欲しかった。アンナは着飾り、自分の家に伝わる大切な日時計をネックレスにして出かけた。そしてパーティ会場で宝物をなくしてしまう。彼女の時間そのものである宝物を・・・。ルーマニア人能楽研究者で翻訳者でもあるラモーナ・ツァラヌによる連作短編小説!
by 金魚屋編集部
「あともう少しだから、急ごう」
「うん」
蓮を後部座席に乗せるとアンナはペダルを漕いだ。昼下がりの強い日差しに光る巨大なスカイツリーが間近に見えて来た。もう何もかも幼い蓮にまかせるしかなかった。小路を抜けて大通りに出ると、さほど多くないが自転車や三輪車が走っていた。歩道を歩いている人たちもいて子どもの姿も見えた。しかしどこに行っても車も電車も走っていないので見慣れた街の活気はなかった。
ああ、鳥が飛んでるなぁとアンナは空を見ながら思った。青空に三角形を描いて飛んでいる三羽の鳥だったので目立った。視線を戻してペダルを漕ぎ、ふと目を上げると目の前に巨大な鳥がいた。浮かんでいた。いや鳥ではなかった。生き物のようになめらかに動く小型飛行機のようなもので、半透明のプラスチックの翼が日差しで光った。アンナはギョッとした。
「何あれ」
そう言おうとした瞬間、三つの飛行体が先端を下に向けて急降下した。アンナは思わず頭を下げ、急ハンドルを切って飛行体をよけた。ガシャンと大きな音がして三輪車が横倒しになった。アスファルトに投げ出された身体を起こすと飛行体の一つが両脚で蓮の身体をつかんで大きな翼を羽ばたかせ、空に舞い上がろうとするのが見えた。
「何すんのよっ!」
アンナはすぐに起き上がると腕を伸ばした。まだ手が届きそうなところに蓮の足があった。が、後頭部に何かがガツンとぶつかり前のめりに倒れた。別の飛行体がアンナを襲ってきた。顔を上げると蓮の身体が数メートル上空に浮き、飛行体に運ばれてアンナから遠ざかり始めた。もう手が届く距離ではなかった。
「ダメ返して!蓮っ!」
「ママっ!!」
「ママって・・・」と思ったが、考えているひまはなかった。
アンナが起き上がって走り出すと、今度は鳥のような飛行体が翼を拡げ、猛スピードで真正面から襲ってきた。「キャッ!」と叫んで身を屈めるのと同時に頭の上で硝子と金属が砕ける音がして、バラバラと破片が降ってきた。三つ目の飛行体もアンナに激突する直前に粉々に砕け散った。
自爆したのか、あるいは目に見えない何かが、誰かが、アンナを恐ろしい飛行体から守ってくれたのかは分からなかった。またそんなことはどうでもよかった。アンナは蓮が遠ざかっていく方向へ全力で走り出した。「待って止まって返してっ!」大声で叫んだ。蓮の身体はやはり重いのだろう。飛行体はそれほど高く飛ばず、電信柱より少し低い空を飛んでいた。目で追える高さだが蓮の身体はどんどん遠ざかっていった。
息が切れた。何度も転びそうになった。点のようになった蓮の姿を追ってゆくと首が痛くなるほど上向かなければてっぺんが見えない東京スカイツリーの入り口の前にいた。ハアハアと肩で息をしながらアンナは周囲を見回した。賑やかなはずなのに人が一人もいない、と思った瞬間、ガラスの自動ドアが静かに開いて一人の警備員がゆっくりアンナのところに歩いてきた。
アンナは身構えた。生まれてこのかた一度も人を殴ったことはないが、もしかしたら闘わなければならないのかもしれなかった。
「アンナさんですね。長官がお待ちです」
きちんと帽子をかぶり紺色の制服を着た、人のよさそうな初老の警備員が笑顔で言った。アンナは拍子抜けした。「はあ」ちょっと間の抜けた声が出た。アンナは黙って歩いた。もう不思議なことには慣れっこになっていた。がらんとした入口フロアを通り、警備員といっしょに展望デッキ行きのエレベーターに乗った。
「わたしは三半規管が弱いので、こういう高速エレベーターに乗ると耳が詰まりますなぁ」
警備員は呑気そうに鼻をつまんで耳抜きした。
「あの、長官って、なんの長官ですか」
「長官は長官でございますよ」
ここの人たちはいつもこんな答え方をする。苛立ったがアンナは質問を変えた。
「長官は、わたしになんのご用なんでしょうか」
「さあ、それはわたくしには分かりません。でもずいぶんご立腹のご様子ですから、ちょっとお気をつけになった方がよいかもしれませんね」警備員が声をひそめた。
エレベーターを乗り継ぎ展望デッキに着くと、警備員は「行ってらっしゃい」と立ち止まった。アンナは天望回廊を歩いた。エレベーターのところに警備員二人が立っていたが、彼ら以外はだれもいなかった。
フロア450からの眺めは素晴らしかった。ここからだと寂れた街の様子は分からず、いつもの東京の光景だった。
恐ろしく広いフロアの真ん中に一つだけ大きなデスクが置いてあり、白いスーツを着た女性がうつむいて手にペンを持ち仕事をしていた。あの人が長官だなと思いアンナは近づいた。五十代くらいの痩せた女性だった。スーツの肩幅が異様に広く、痩せた身体を大きく見せようとしているのではないかと思った。
「ちょっとそこで待ってなさい!」
デスクまで数歩のところまで近づくと、書類から顔を上げずに鋭い声で長官が言った。アンナはビクンと身体を震わせて立ち止まった。
「なーんなの、あの子は!」
パッと顔柄を上げ、いきなり立ち上がると両手でデスクを叩いて長官が大声で叫んだ。子どもがだだをこねているみたいだった。
「ええっ」アンナはたじろいだ。
「蓮君よ。ドローンは時計を運んでくるけど時計は物なの、そうでしょ、そうに決まってるでしょ! 人間を運んでくるなんて初めてだわ。なんであの子が時計なのよっ!」
「そんなこと、わたしに言われても・・・」
「あなたにもわからないわけ?」長官は眉をひそめた。「じゃあなんで、蓮君はあなたの日時計持って消えたの? わたしがあなたの日時計を渡してあげたら、蓮君、自分が隠してる時計、差し出すって言ったのよ。それなのに、あなたの日時計を手にした途端、何も言わずに消えちゃったじゃないの。どういうことなのか説明してよ!」
「ええっ、蓮君、ここに来て、消えちゃったんですか?」
「どこ行ったかわからないの? まったくしょうがないわね。悪いけど、自分で探してちょうだい。家猫みたいにお家に帰ったかもしれないから、お家まで送ってあげる。見つかったら、蓮が持っている時計について話を聞かせてもらうわ。この世界では時計なんていらないんだから」
「一つ、お聞きしていいですか?」
「なに」つっけんどんに長官が言った。
「長官は、ここで何を管理しておられるんですか」
「時間よ。当たり前じゃないの。ゆっくりと暮らしたい人たちにはゆっくりとした時間を与え、刺激的で速い時間が欲しい人にはそれを与えてここから送り出してあげてるのよ」
わかったようなわからないような説明だった。アンナは「なぜスカイツリーなんですか?」と聞いた。
長官は笑い出した。
「なんでそんなこと聞くの。皮肉のつもり?」
アンナは黙った。時計とスカイツリーって何の関係があるんだろう。窓の外を見るとタワーの巨大な影が目に入った。太陽の巡りに合わせて街をなめるように動くその影は、大きな時計の針のように見えた。スカイツリー自体がもしかすると日時計なのだろうか。高さ634メートルの針なんて…。アンナはハッとした。
「もしかして、ここで流れる時間と地上で流れる時間は速度が違うんですか?」
「そうに決まってるじゃない。地上から離れれば離れるほど重力の強さが減って、時間の流れる速度が速くなる。そんなの常識だけど、わたしたちの技術でそれを自在に操れるようになったの。人間それぞれが自分の好きな時間の流れを選んで生きられるようになったのはわたしたちの技術のおかげよ。時間を統一する必要がなくなったんだから時計もいらないの。だから時計を全部回収してるんでしょ」
アンナは神経を集中して長官の言葉を聞いた。想像を絶する話だが理解できるような気がした。地球のような膨大な物体の質量が時間と空間を歪ませているという話は子どもの頃父親からよく聞かされていたのだった。長官の唇がニヤリと歪んだ。「でね、この素晴らしい技術を可能にしてくれたのはあなたよ」と言い放った。
「あ!」
「といっても未来のあなたね。未来のあなたは時間の研究を行っている組織の一員。重力の影響で、地上から離れれば離れるほど時間の速度が速くなるという理論を立ててこのタワーのてっぺんを使って実験を繰り返したの、あなたたち。その成果が時間を操る技術開発の基盤になった。素晴らしい研究よ!」
「わたしが・・・」
小さいころ、父親がよく口にしていた時間と宇宙の物語に魅了されて大きくなったら研究者になろうと夢を見ていた。しかしいつからか両親とは違う道を歩んでいきたいと思うようになり、理科の世界から距離を置いていった。心理学部を卒業してから大学院に進むかどうかで迷っていたが、時間の研究者なんて人違いだろうとアンナは考えた。
「でもあなたはその理論の活用方法に反対だった。それで夫と小さい息子と一緒に山奥に隠れて暮らし始めたのよね。バッカみたい!」
アンナの心臓の鼓動が高まった。ど忘れした人の名前を思い出そうとして、どうしても思い出せないような焦りにとらわれた。
「それだけじゃなくって、あなた、ある日突然姿を消しちゃったのよ。自分が携わった研究で変わってゆく世界を見たくなくって、息子を置き去りにして姿を消しちゃったのよ」
長官は大声で笑い出した。
「あなた、本当にどうかしてるわ。ほら、早く行って蓮君を見つけ出してちょうだい。蓮君のお母さんも連れてきて。今のあなたは何の役にも立たないけど、未来のあなたには頼みたい仕事があるの。時間を操る技術はまだまだ改善しなくちゃならないんだから、手伝ってほしいわ」
アンナはまじまじと長官を見た。未来の自分はこの人のために働くのだろうか。ありえない。しかしもしそうなったとして、幼い子どもがいるのに自分だけ姿を消したりするだろうか。ましてそれが蓮だとしたら・・・。もっとありえないと思った。目の前の人が完全に狂っていると考えながらも、朝から、いや、昨日の夜から体験していたことに異様な雰囲気があった。
「このようなことを聞いて失礼ですが、何年ですか、今?」アンナの声が震えていた。
「年を数えるのをとっくに止めたのよ。時計もなければ、年月日を数える制度ももうはやない、地上ではね」
「それは不便でしょ」
「全然。時間から解放されてありがたく思う人は大勢いるよ。しかし管理のほうではもちろんまだ記録してるの。2034年だよ、昔の制度でいうと」と長管が満足そうに言ってアンナの顔色を見た。
「えっ?」
2034年? それは自分が昨日まで生きていた世界より15年も先なのではないか? アンナは必死に不安を抑えた。何もかもがあんまりだった。
突然エレベーターの扉が開いた。と同時に長官の笑い声がピタリと止まり、スッと背筋を伸ばした。
「あら博士、ようこそいらっしゃいました。アンナさん、というか若い頃の彼女がいらしてるから、博士もいらっしゃるんじゃないかと思ってましたよ」
長官はエレベーターから下りた誰かに話しかけたが、アンナには何も見えなかった。
「ああドローンのことは申しわけありませんでした。蓮君を時計に間違えるなんてね。博士はどうしてこんなことが起きたのか、おわかりになりますか?」
アンナに話すのとは打って変わって長官の口調が丁寧な猫なで声に変わった。
「ええ、すぐにお送りします。行くところもないですし、蓮君はきっとお家に帰ったんですわ。蓮君が見つかってちょっと落ち着いたら、ぜひまたアンナさんといっしょにご協力ください。お二人の力があればさらに技術を改良して、世の中に役立たせることができるんですからね」
アンナは長官が見えない誰かと話すのを見ていた。いくら耳を澄ましても長官の声以外は何も聞こえなかった。「さあ、アンナさん」長官が振り向いた。
アンナの肩に見えない誰かの手が触れた。身体をビクンと震わせた。ここから出るよう促されているようだった。軽く背中を押されてアンナはエレベーターへ向かった。長官が見送りに来た。
「下で車が待っています。お戻りをお待ちしておりますわ」
長官がそう言うとすーっとエレベーターの扉が閉まった。
(第04回 了)
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*『蓮・十二時』は毎月11日にアップされます。
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