友だちの弘美に誘われて、アンナは弘美の会社主催のパーティに出かけた。平穏で退屈な生活に刺激が欲しかった。アンナは着飾り、自分の家に伝わる大切な日時計をネックレスにして出かけた。そしてパーティ会場で宝物をなくしてしまう。彼女の時間そのものである宝物を・・・。ルーマニア人能楽研究者で翻訳者でもあるラモーナ・ツァラヌによる連作短編小説!
by 金魚屋編集部
「お帰りなさい」
さっきの警備員がスカイツリー前の道路までエスコートしてくれた。道路脇に黒光りする車がとまっていた。見たことのない種類の車だが、そのしなやかな形から見てはスピードが出るような車だとアンナは想像できた。警備員は後部ドアを開け、「いってらっしゃいませ」と言うと静かにドアを閉めた。車は走り出すとすぐに地下道に入った。
運転手は中年の女性だった。チラリと横顔を見せて「西の山の麓にあるロープウェイ駅ですね、すぐですよ」と言った。アンナはハッとした。「弘美、なんでここにいるの!」叫ぶように言った。年は取っているが弘美としか思えなかった。
「弘美? わたし、弘子です。そんなに弘美さんっていう女性に似てますか?」
バックミラー越しに弘子と名乗る女性が笑った。
「そう言えばお客さん、行方不明になった研究者のアンナさんにちょっと似てますね」
「そう」
アンナはすぐにあきらめた。昨日までいた世界とここでは、時間の流れが重なり合いながら微妙に違っていた。自分がアンナだとは言わずに「彼女とお知り合いですか?」と聞いた。
「お仕事のためにスカイツリーをよく出入りしてたから、顔見知りなんです。行方不明になっちゃったと聞いて驚きでした。なにがあったんだろう」
長官の話と同じだった。アンナは本当に自分なのか確かめたくなった。
「そのアンナさんは、日時計を持ってませんでしたか? ちょっと大き目の指輪型のペンダントなんですけど」
「日時計ねぇ。そういえば、お守りだっていう無骨なペンダントは見せてもらったことはあるかな。日時計かどうかはわかりませんけど、お客さん、なんでそんなこと知ってるんですか?」
「いえ」快活に笑う弘子にアンナは言葉少なに答えた。
アンナは車窓から薄暗く照らされた地下道の壁を見た。すべては日時計のせいだと思った。あれをいじると不思議なことが起こるのだ。
「ママ!!」と叫んで腕を伸ばした蓮の姿が目に浮かんだ。そうすると蓮はわたしの子どもなのだろうか。蓮が会わせてくれたおじいさんとおばあさんは、わたしのひいおじいさんとおばあさん? それとももっと前の時代の人? そうかもしれないと感じたが現実味はなかった。結婚はおろか、アンナには付き合っている人すらいなかった。
「ああそれは大変! 息子さん、蓮ちゃん、見つかるといいですね」
弘子の声でアンナはハッと視線を戻した。少し顔を傾け、弘子は助手席に座った見えない誰かと話していた。アンナにだけに見えないのも長官と同じだった。
「あと30秒でスーパー高速トンネルに入ります。お二人ともシートベルトはしてますよね」
弘子がそう言うと車の速度がグンと上がった。アンナの身体がシートにめりこんだ。デジタル表示のスピード計を見ると時速一二〇キロから一瞬で一八〇キロになり二二〇キロになった。
「こんなスピード出して、だいじょうぶ?」アンナは思わず聞いた。
「もちろんよ。速い方の時間を選んだ人の特権なの」
バックミラー越しの弘子の表情は嬉しそうだった。高速運転の刺激を楽しんでいた。
窓の外をちらっと見ると後ろからさらに速いスピードで走っている車に次々と追い越されていくのだった。地下の暗闇を照らすライトの速さに眩暈がしてきた。アンナはそれで長官の言葉を思い出した。ここではゆっくりとした時間、あるいは速い時間が選べるのだと。ゆっくりとした時間を選んだ人は自転車で移動しているのだろう。速い時間を選んだ人は地下道をスポーツカーで猛スピードで移動できるようだ。この世界はいったいどうなっているんだろう。
フッとトンネルの灯りが消えた。車はトンネルを出ると森の中を走ってすぐにとまった。
「着きましたよ」
ロープウェイ駅の真ん前だった。蓮を乗せて三輪車を漕いで半日もかかった距離は、地下の高速トンネルを走る車ではあっという間だった。弘子は運転席から下りて後部座席のドアを開けた。
「お気をつけて。幸運をお祈りします」
後の言葉はアンナには見えない人に言ったようだった。
アンナはロープウェイ駅に入ったがあえて何もしなかった。しばらくしてゴンドラがひとりでゴトン、ガガガガッと音を立てて動きはじめた。ゴンドラに乗り込んでドアを閉めると「上」ボタンが凹んでゴンドラが動き出した。見えない人がゴンドラを操作していた。アンナはゴンドラの中で腕を動かしてその人の身体を確かめようとしたが、空を切るばかりだった。
「あなたは何者ですか?」
「どうしてわたしには見えないんですか?」
「コミュニケーションは取れないんですか?」
「もし取れないなら、なぜわたしについてくるんですか?」
「蓮君がどこに行ったのか、あなたも知らないんですか?」
アンナは見えない人に話しかけた。しかし何も返事は返ってこなかった。夕方で山の木々が赤く染まっていた。ゴトン、ガタンというゴンドラが進む音だけが響いた。
記憶をたどって蓮の家まで戻った。玄関の前に立つとカチャリと小さな音を立てて鍵が開く音がした。「ありがとう」見えない人に言うとアンナは中に入った。電気をつけ部屋を見て回ったが人の気配はなくガランとしていた。蓮はどこにもいなかった。リビングの床の上に蓮が描いていた絵が散らばっていた。
「蓮君、どこにもいない・・・わたし、どうすればいいですか?」
アンナは蓮の画用紙の前に座って、見えない人に向かって言った。しかし何も答えてくれない。アンナは途方に暮れた。
ドキリとした。鏡台が宙に浮いて動いていた。見えない人が別の部屋から運んで来たのだろうと思ったが、不思議な光景だった。
「これ、どうするんですか」
目の前に置かれた鏡台を見ながらアンナは見えない人に言った。答えてくれないので鏡の中の自分を見た。なぜか涙が溢れた。アンナは指で涙を拭うと姿勢を正した。
カサッと音がして床に散らばったままの画用紙の一枚がめくれた。アンナは画用紙を手に取って見つめた。草原のような場所に一本の大きな木が描かれていた。太い枝の上に子供が座っていた。蓮だ!
顔を上げると鏡の中で白い靄のような影が動いた。靄が晴れると子どもと手をつないだ女性が現れた。女性はアンナだった! 大人になり、冷静で落ち着いた雰囲気の自分がいた。子どもはやはり蓮だ。
蓮が手をつないでいる女性の顔を見上げると、女性がうなずいた。手を離して蓮が走り出した。あっさり鏡から抜け出してアンナのいる世界に飛び出した。「パパ!」と叫んでアンナの傍を通りすぎた。蓮の身体が宙に浮いた。見えない人に、パパに抱き上げられ首筋にしがみつく姿勢になった。とても幸せそうだった。
アンナの胸がズキンと疼いた。鏡の中の女性を見ると優しく微笑んでいた。蓮はお母さんを探しに行ったのではないかと思った。ただ彼女はじっと鏡の中に立ったままだった。蓮がしたようには鏡の中から出られないようだった。
「これ」
蓮は空中に抱き上げられたままアンナに日時計を差し出した。
「うん、ありがとう」
日時計が戻ってきた。アンナは日時計を受け取るとすぐに首にかけた。何かがわかったような気がした。異なる時間が重なり合うのを感じた。ここから抜け出さなければならないと強く思った。いつものように逃げるのではなく、自分の時間を選択して強く愛さなければならないと感じた。
鏡を見ると中の女性が、大人になったアンナが近づいてきた。向こう側から鏡面に手を当てた。アンナは蓮を振り返った。見えない人に抱き上げられ、幸せそうな顔で笑ってアンナを見ていた。
「すぐまた会えるから」
そう呟くとアンナは鏡の向こうのアンナと手を合わせた。
その瞬間、周囲の物の輪郭が消えた。二人のアンナの位置が入れ替わった。アンナは眩しい光に包まれ鏡の中に吸い込まれながら、大人になったアンナが鏡を飛び出して蓮を抱きしめるのを見た。アンナは猛スピードで、だがどこかふわふわとした優しさに包まれて鏡の奥へ吸い込まれていった。
ハッと目を開けるとバーの近くの公園のベンチに座っていた。アンナは胸元に手をやった。しっかりとした日時計の重い金属の感触が指から伝わった。顔を上げると最後まで残っていた人たちがバーから出て来るのが見えた。
「じゃあこれで」「楽しかったですよ」という声が静かな夜の街に響いた。閉店は午前三時だから、一時間くらいベンチに座っていたようだ。
夢のようだが夢ではないと思った。アンナはすべてを思い出そうとした。蓮の顔がはっきり頭に浮かんだ。しかしすぐに砂糖菓子のように崩れてしまった。アンナは頭を振った。目を覚ました時は生まれ変わったような気がしていたのに・・・。
クラクションの音で顔を上げた。公園の前に車がとまり、すーっとウインドウが下がると「まだいたんですか、だいじょぶですか? 送りますよ」と驚いた顔で男が言った。日時計を見つけて届けてくれた男の人だった。
アンナはベンチから立ち上がった。車から降りてきた男と向かい合った。男はアンナをしばらく見つめ、「あ、僕は飲んでません。本当はパーティーは苦手なんだけど、最後までお付き合いする義理があって」
さも大事なことを思いついたように言った。
真っ先に素面だと言う男がなんだかおかしかった。
「じゃあお願いします。送ってください」
目の前の人を見つめてそう言うとアンナは微笑んだ。
(第05回 了)
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