友だちの弘美に誘われて、アンナは弘美の会社主催のパーティに出かけた。平穏で退屈な生活に刺激が欲しかった。アンナは着飾り、自分の家に伝わる大切な日時計をネックレスにして出かけた。そしてパーティ会場で宝物をなくしてしまう。彼女の時間そのものである宝物を・・・。ルーマニア人能楽研究者で翻訳者でもあるラモーナ・ツァラヌによる連作短編小説!
by 金魚屋編集部
「日時計はあそこにあるよ」
分厚いコンクリートにはめ込まれた、大きなガラス窓の向こうの東京スカイツリーを指さしながら蓮が言った。アンナはもう驚かなかった。なぜか日時計を取り戻さなければ元の世界に戻れないと分かっていた。蓮はそれを手助けしてくれるのだ。ただ「どうしてスカイツリーなの?」と聞いた。
「時計はぜんぶあそこに集まってるから」
蓮の言葉は相変わらず謎だったが受け入れるしかなかった。
フロアには奥まで続くスチール製ドアが並んでいた。同じ規格で表札などかかっていない。しかし蓮はとことこ歩くと迷わず一つのドアの前で立ち止まった。背伸びしてドアノブを回すと簡単にドアが開いた。ひんやりとした廊下に中から光と温かい空気が溢れた。
アンナは蓮の後ろから部屋の中を見た。ドアを開けるとすぐ板敷きになっている大きなロッジのような部屋だった。フローリングというより年季の入った木目が浮き出ていた。蓮はスニーカーのまま部屋の中に入った。
「おじいちゃん!」
「おお蓮か、よく来たね」
「会いに来てくれるなんて、本当に嬉しいわ」
蓮は八十歳はゆうに越えていそうなおじいさんのズボンにギュッとしがみついた。蓮の肩や背中をやはり高齢のおばあさんが愛おしそうに手で撫で抱きしめた。二人とも涙を流さんばかりに喜んでいた。なぜ蓮がおじいさんとおばあさんの家に連れてきてくれたのかアンナにはわからなかった。が、彼らがきっと今の奇妙な状況を説明してくれるはずだと思った。
「アンナだね、蓮を連れてきてくれてありがとう」
「えっ、わたしは蓮君にここに連れてきてもらっただけですが」
「いやアンナがいなかったら、わしらが蓮に会うことはなかっただろうね」
おじいさんはにこやかに笑うと「どうぞおかけ」と大きなソファを指さした。アンナは混乱したが、辛抱強く話を聞くしかないようだった。蓮はキッチンに向かうおばあさんにまとわりついていた。「お腹すいてるでしょ、アップルパイあげましょうね。なに飲みたい?」「オレンジジュース」蓮がおばあさんと話す声が聞こえた。
アンナはハッとした。「なぜわたしの名前を知ってるんですか?」
「知ってるから、知ってるだけだよ」
同じことを蓮が言ったと思った。どういうことなんだろう・・・。
「説明してもらえませんか。ここはどこなんですか? もしかして、わたしは変な世界に迷い込んでしまったんですか?」
「変な世界じゃないよ。わしとばあさんが、生涯で一番幸せに過ごした場所で時じゃないか」
おじいさんは大きく両腕を広げ、部屋の中を嬉しそうに見回した。アンナもつられて部屋の中を見た。天井が高かった。ビル一階分よりもずっと高いように感じた。それに壁は美しい花柄模様の壁紙で覆われていたが、柄も材質も昔の物のようだった。一番奇妙なのはどこにも照明器具がないことだ。これもビルの中の部屋には似つかわしくない大きな窓から太陽の光が射しこんでいた。ただし窓枠は木製で何枚ものガラスを縦に並べ、一番上は色とりどりのステンドグラスだった。
アンナはさらに注意深く部屋の中を見た。タンスや大きな作業机があったが一目でハンドメイドとわかる重厚な作りだった。その上に映画やドラマでしか見たことのない、簡素なガラス製の火屋のあるランプがいくつか置いてある。壁一面の本棚には無数の巻物が並べてあった。作業机の上にも巻物が開いたままだった。アンナは今度はおじいさんをまじまじと見た。白い口ひげをきれいに刈り揃えていたが、着ているのは木綿の作業着で、今ではめったに見ない肉厚で大きな貝殻製ボタンがついていた。
「この人は古い時代の人だ!」
ぞっとするような直観でそう感じ、口を開こうとすると「こうして会えるなんてほとんど奇跡だね。蓮が連れてきてくれたって言ったけど、蓮はアンナに何か言わなかったかい?」おじいさんが聞いた。
「あ、はい、わたし、日時計をなくしてしまって。蓮君はそれを取り戻さなきゃならないって・・・。それに、日時計はスカイツリーにあるって言いました」
「ここでは時計はいらないから、アンナが日時計を持ってないのは当たり前だけどね。それに、スカイ、ツリー、でいいのかな? わしらにとっては別の場所だけど、それもまあ当たり前のことだから・・・」
おじいさんはアンナを見つめながら考え込んだ。アンナにはさっぱりわからなかった。
「はい、ほかほかのアップルパイですよ。ハーブティーと合うわよ」
おばあさんが頑丈そうな木のトレイにアップルパイとティーカップを乗せて運んで来た。
「食べて、おいしいから」
促されてアンナはお皿を手に取った。フォークはずしりと重く、柄は象牙製で細かな彫りがあった。こんなフォーク、見たことがない。花柄のお皿もアンティークっぽかった。
とりあえず食べた方がいい。「いただきます」とアップルパイを口に運ぶと、甘みのあとに微かな苦みが舌に広がった。竈で焼いたようなおこげだった。おばあさんは洗いざらしの麻のブラウスを着て、足首までの紺のスカートをはいていた。白髪をきれいに結い上げていたが、やはりアンナと同じ時代の女性とは思えなかった。
ふと蓮を見ると、蓮の前にはお皿とカップがなく、ただ嬉しそうに笑っていた。蓮がここまで嬉しそうに笑うのを初めて見た。おばあさんが「蓮ちゃんはもうお台所で食べちゃったのよ」と蓮の頭をなでた。
「あ、ネコ!」
蓮はいきなり立ち上がると作業机の下に走っていった。青い目の黒猫がうずくまっていた。蓮は猫をつかまえるとむちゃくちゃに身体を撫で回した。猫はイヤがってにゃーと鳴いて逃げようとした。「あははっ!」蓮が大きな声で笑った。
アンナは「そんなかわいがり方しちゃダメ、引っかかれるわよ」と言おうとしてやめた。蓮が初めて声をあげて笑った。その嬉しそうな笑い声が胸にぐさりと刺さった。蓮が蓮という子どもになったような気がした。
「おじいさん、アンナちゃんにあんまりむつかしいこと、言っちゃだめよ」
おばあさんの言葉にアンナはどきりとした。おじいさんは半分くらいアップルパイが残った皿をテーブルに戻すと「でもね、やっぱり聞いておかなきゃならないだろ。こんなことが起こったのは、この世界で初めてかもしれないんだから」
困った顔でアンナを見た。
「あの、わたしたち、知り合いなんですか? 遠い親戚かなにかなんですか?」
「そうとも言えるし、そうじゃないかもしれない。そうであって欲しいんだけど・・・」
「そうに決まってるわよ。でなきゃ蓮ちゃんとアンナちゃんが訪ねて来てくれるはず、ないじゃありませんか」
「それもそうだな」
「蓮君がここに来るのは初めてじゃないですよね」
「いや初めてだよ、蓮もアンナも。だけど会えば蓮は蓮だし、アンナはアンナだよ」
アンナは驚いた。おじいさんは「わしらにもわからないことだらけなんだけど、アンナはもっとわからないだろうね」と言葉を途切らせ、「蓮はほかに何か言ってなかったかい、秘密とか」
「秘密・・・。そう言えば、昨日寝る前に、今十二時だよって教えてくれました」
「えっ!」
おじいさんとおばあさんはビクンと身体を震わせ目を大きく見開いた。背筋が伸びた。心底驚いた顔だった。
「蓮の時間が始まってるんだ」
おじいさんとおばあさんは顔を見合わせた。
「お願いです、どうかわたしにわかるように説明してください!」
アンナはすがるようにたずねた。
「蓮の時間が始まっているとすれば、蓮は時間を自由に行き来するようになり、わしらの世界からいなくなるかもしれない。しかしアンナが元の世界に戻るとすれば、蓮は蓮という存在の可能性の一つになってしまう・・・」
「ぜんぜんわからないです!」
アンナはほとんど悲鳴のような声をあげた。おじいさんと話せば何かがわかると思っていたのに、謎は深まるばかりだった。ほとんど泣きそうだった。
「わたしたちが、こうして会ったことが大事なんですよ。ねぇそうでしょ、蓮ちゃん」
蓮はもう抵抗するのをあきらめて不機嫌な顔をした黒猫を抱きしめながら、うんうんとおばあさんにうなずいた。
「じゃあ蓮、もう行っちゃうのかい」
「うん」
蓮は今度は声に出しておじいさんに答えた。
蓮が立ち上がると猫が腕の中から飛び出して机の隅にうずくまった。
「本当に嬉しかったよ」
「蓮ちゃん、元気でね」
おじいさんとおばあさんはかわるがわる蓮を抱きしめた。アンナは三人の輪の中に入ってゆけなかった。少し涙が溜まった目でおばあさんが「アンナさん、気をつけてね」と言った。おじいさんはしばらく黙っていて「さよなら」と絞り出すように言った。
ドアはあっけなくパタンと閉まった。廊下はしんと冷えていて、部屋の中とは明らかに空気が違った。
アンナはふと部屋を出る時に、作業机の上の木箱の中にギッシリ歯車が詰まっていたのを思い出した。「ねぇ、おじいさんって、もしかして昔、時計職人だったの?」と聞いたが、蓮はそれには答えず勢いよく階段を下りていった。
(第03回 了)
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*『蓮・十二時』は毎月11日にアップされます。
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