『アウトレイジ ビヨンド』2012年(日)監督:北野武
監督・脚本・編集:北野武
キャスト:
ビートたけし
西田敏行
三浦友和
小日向文世
加瀬亮
上映時間:112分
世界の名匠北野武監督はバイオレンス時代劇の『座頭市』(03)以来、『TAKESHIS’』(05)『監督・ばんざい!』(07)『アキレスと亀』(08)など、ある種迷走的とも言える自己反省的な作品を作り続けてきた。しかし北野監督は『アウトレイジ』(10)で「北野タッチ」とも言える静寂的で禁欲的なカメラ・フレームの中に潜むヤクザのグロテスクで重厚感のあるバイオレンスを盛り込み、北野映画の再興を見せたと言われている。
その『アウトレイジ』の続編にあたる本作『アウトレイジ ビヨンド』は、前作をはるかに凌ぐ秀作であり、北野映画における一つの到達点と言っても過言ではない。では、本作を秀作に至らしめている要素とは何だろうか。まずは映像演出と音響の側面から見ていくとしよう。
■静的なフレームの中に響く躍動■
ビートたけし演じる大友と彼に顔面をカッターナイフで切られたヤクザが、敵である山王会に復讐するために、二人で山王会を良く思っていない花菱会に杯をもらいに行くシーン。てっきり花菱会に杯をもらえるとばかり思っていた二人は、西田敏行演じる幹部たちから「花菱と山王会、喧嘩させる気かい」「戦争にでもなったら誰が責任とるんじゃボケ!!」と罵声をあびせられ、大友も立ち上がって「ガタガタうるせんだよ、この野郎」「撃ってみやがれ。とっとと撃ちやがれ、チンピラ!おもちゃか、それ」と応戦し、怒号と罵声の波が怒涛のように溢れ出す。
しかし、こうしたヤクザ同士のにらみ合いや口喧嘩は、快感とも言えるほどの台詞の乱舞によってのみ魅力を発揮するわけではなく、バックで静かに流れる低音のサウンドの役割も大きかったように思える。心臓の鼓動の如く重苦しく流れるサウンドは、その場の空気に緊迫感を醸し出し、観客をスクリーンの内部に引き込んでいたように思う。
実際にそうした台詞と音響効果が絡み合う演出は、本作において数多く見られた。山王会のチンピラたちを一掃していくシーンでも次々に銃殺されていく光景のバック音で流れるのは、静かだが重苦しい重低音。決して過激でハイテンションなバイオレンスを快楽にするわけではなく、あくまでバイオレンスを静的なリズムの中で展開させていく表現性は北野映画の再興を予感させる。さらにそうした聴覚演出だけでなく、視覚表現もまた「静」と「動」のバランスの中でダイナミズムを生み出していたように思える。
例えば前述した杯をもらうシーンでは、カメラはパンする程度で、ほとんど動かず、どっしりと構えている。そしてフレームの中にそびえ立つ俳優たちのパフォーマンスが前面に飛び出しており、そこに我々は「静的なフレーム」と「動的なバイオレンス」との関連性を見ることができるだろう。
単にバイオレンスを躍動のカメラ・ワークで見せることはせず、暴力描写も極力抑え、俳優たちから滲み出る雰囲気や覇気、怒号や罵声によってダイナミズムを生み出す真摯な暴力表現が一貫しているところに本作の深みがあるように思えてならない。
静寂と過激。禁欲と爆発。『アウトレイジ ビヨンド』は、映画のフレームの中でこの二つの動きを衝突させ、CGや躍動のカメラ・ワークを一切使わずに強大なダイナミズムを形成していたのではないだろうか。この「静」と「動」の衝突によるダイナミズムは、北野が尊敬の念を抱く黒澤明の美学にもよく似ている。しかし黒澤にはない側面を本作は巧妙に取り入れていたように思う。それがバイオレンスとユーモアの混合である。
■ユーモアとバイオレンスの狭間で■
前作『アウトレイジ』で脇腹を刺され、本作『アウトレイジ ビヨンド』でも脇腹を撃たれたビートたけし演じる大友はソファにもたれこみながら、かつて自分の脇腹を刺した兄弟ヤクザの前で「なにかというと脇腹なんだよなぁ。あぁ、そういう意味じゃないよ」とぼやく。ビートたけしの幼児的で可愛らしい呟きは、本作がバイオレンス映画であることを忘れさせ、暴力とユーモアが隣り合わせに存在しているビートたけし自身のバイオグラフィを彷彿とさせてくれる。そうした自らの境遇と自らのコメディアンとしての存在をわざと主人公の大友に喋らせるあたりは、自己反省的で奔放的な彼なりのパフォーマンスとでも言うべきか。
また大友組を裏切った加瀬亮演じる若頭が土下座をして「なんでもします!」と命乞いをしている時に、ビートたけし演じる大友が「野球やろうか?」と薄ら笑いを浮かべながら提案するシーンも滑稽である。なぜなら「えっ?」とポカンとしている若頭のクロース・アップが入るとバッティング・センターのピッチング・マシーンが稼働しているシーンが挿入されるからである。彼の言った「野球」とは、「顔面ミットの死刑台」に他ならない。
そうした滑稽なユーモアは本作のラスト・シーンにも確認できる。しかし本作のラスト・ショットはただのユーモアで終わることなく、これまでの北野映画における魅力的要素の全てを包括させており、まさしく観客の度肝を抜く意味深なものへと仕上がっていた。次項では大友が、ある者を打ち殺すラスト・シーンについて述べていこう。
■一番悪い奴は誰だ?■
本作のキャッチ・コピーで「全員悪人、完結。 一番悪い奴は誰だ?」と記されているように、『アウトレイジ ビヨンド』は主人公の大友が、ある男(一番の悪人または真の仇)に復讐するまでの話である。序盤から終盤にかけて大友の仇は一貫して、自らを裏切り山王会の元会長を殺して会長に就任した三浦友和演じる加藤であったが、ラスト・ショットで大友は一番の悪人であり、真の仇である男を見つけ、射殺する。
ここで殺された「その男」は、大友が仮出所できるように促し、顔面を切られたかつての敵と大友を結び付け、花菱会と山王会を破滅へと追いやった張本人であり、そして大友の兄弟分を殺させた策略家である。そのため彼は大友にとっての全ての元凶であり、兄弟分を殺した仇となる。だから大友は彼を容赦なく打ち殺すわけだが、「その男」こそ、真の悪人であることに我々が気付くのは、エンドロールが流れ始めた後だろう。
それほどまでに唐突なこのラスト・ショットは、唐突さ故の驚き、観客が思わず「えっ?」と大口を開けるほど呆気なく展開し、一瞬にして幕を閉める。この唐突さは、前作『アウトレイジ』とは逆の演出をしていると言えるだろう。前作『アウトレイジ』は、三浦友和演じる加藤が会長を殺すシーンで観客に驚きを与えており、そのシーンクエンスはスローモーションで演出され、時間的な間が引き伸ばされていた。しかし本作『アウトレイジ ビヨンド』のラスト・シーンは、前述したようにスローモーションを一切使用せず、観客が半ば置いてきぼりをくらったまま幕を閉じる。
この差異、あるいはラスト・ショットの唐突さは、このラスト・ショットが傑作シーンである所以を創出する。なぜなら、このシーンの「唐突さ」は本作の様々な北野映画的魅力を一つのシーンに絡めるのに効果的であるからだ。まず唐突なラスト・ショットは、本作の魅力の一つでもある滑稽なユーモアを滲ませる。
拳銃を向けられて撃たれる瞬間。撃たれる男は「えっ!?」とささやかにつぶやいていることに注目してほしい。この「えっ!?」は、その男のキャラクター性とも結びつき、ある種の「滑稽さ」を生み出していたように思える。さらに滑稽なユーモアは、一方で過激に鳴り響く銃声(バイオレンス)とすぐ隣り合わせにあり、前述したユーモアとバイオレンスが共存する北野流自虐的バイオレンス描写としても象徴的であった。
また火を噴く拳銃と激しい銃声に見るリアリスティックなバイオレンスは、ビートたけしのバイオグラフィを彷彿とさせる自虐的で滑稽なユーモアだけでなく、一切動かずに黙って人物を淡々と映し出す「静寂的なフレーム」とも衝突していたように見える。すなわち「静」と「動」の衝突。黒澤的とも言えるワンフレームの中に渦巻く静寂と躍動の戯れ。そうした北野映画の魅力的要素がこのワンショットに込められている。
さらに「激怒(アウトレイジ)に満ちた大友の表情」は『アウトレイジ』シリーズの本質的魅力でもある俳優の風貌ないしはパフォーマンス的な雰囲気の魅力を放っているし、先に述べた真の仇であり、(世間には善良と見なされている)一番の悪人を射殺する行為は、日頃北野武が歯に衣着せぬ物言いで権力者に対しシニカルな批判を展開するのと同様に、北野流の「権力者への制裁」と読み解くことができるだろう。
このように本作のあまりに唐突なラスト・ショットには、「静」と「動」の衝突によるダイナミズム、ユーモアとバイオレンス、ビートたけしの激怒に満ちた表情、そして一番の悪人であり大友の仇でもある彼を射殺する行為に溢れる権力者への制裁といった全ての北野映画的魅力が詰まっている。まさしく『アウトレイジ ビヨンド』の110分は、このワンショットのためにあったと言っても過言ではない。この聊か唐突なワンショットに、北野映画の集大成を絡めてしまう表現性は、ただのバイオレンス映画の唐突なラストとして論じるには忍びない価値を持っているように思える。そういう意味で『アウトレイジ ビヨンド』は、北野映画における一つ到達点であり、集大成的作品と言えるだろう。今後の北野映画の活躍に期待したい。
後藤弘毅
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■