妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
女房が妊娠した。
その報せは朝の歯磨き中に本人から伝えられた。三月半ばの午前八時、天気は曇り、俺は軽めの二日酔い。今日の味噌汁はしじみよ、みたいな口調だったので歯ブラシをくわえたまま「そうか」と呟き、鏡で充血した目を眺めていた。実感なんて、ない。
食卓に着くとようやく頭が回りだす。鼻が刺激されたからだ。目玉焼きとトーストの匂いを嗅ぎながら、とりあえず何か声をかけた方がいいのかなと落ち着かなくなる。換気扇の音、水道の音、棚から食器を出す音。本当はもう少し雑音が欲しかったが、今このタイミングでテレビを点けるのは変だ。
所在なく台所のピンクのタイルとその目地を凝視する。そのうち遠近感が徐々に狂ってきた。子どもの頃からこの錯覚が好きでついついやってしまう。ただ俺はそろそろ三十歳。さすがに錯覚遊びは不謹慎だろうと、サラダを用意している女房の背中に声をかけてみる。
「おめでとう」
彼女は振り返らずに「バカじゃないの」と笑う。一緒に笑おうとしたけれど、うまくいかなかった。目玉焼きとトーストの匂いにも慣れ、居心地の悪さが広がっていく。欠伸の真似をしながら立ち上がったが特にすることもなく、冷蔵庫からそっとハイネケンを取り出した。缶を開ける音で彼女が振り返る。咎めるような表情はすぐに消えた。そう、もし朝方から酔っ払ったとしても、今日の予定には何の支障もきたさない。
一ヶ月前、勤めていた会社が事実上倒産した。大手文具メーカーの子会社、と言えば聞こえはいいが、最初からどこか頼りなかったのは確かだ。
先を見越した訳ではないが、経理のおばちゃんと仲良くしておいて正解だった。誰にも言っちゃ駄目よ、と「辞めどき」を教えてくれたので倒産直前に逃げ出せたし、退職理由を会社都合にしてくれたので失業保険の支給もすぐに始まった。中には給料を丸々一か月分貰い損なった奴もいる。おばちゃん様々だ。旅行の度に娘の分まで土産を渡していたのが効いたのだろうか。とにかくラッキーだった。そのおかげでこうして、人生二度目の失業者ライフを送っていられる。
両親の喫茶店を継ぐのは末っ子の俺。そんな暗黙の了解が家族間に定着したのは、大学に入った頃だっただろうか。そのため就職に関してのこだわりは薄く、就活もあまり頑張らなかった。腰掛けとしての自覚を持て、と兄貴たちにからかわれているうち、本当にそうなってしまった。
入社後も高い評価を得たいとか、一円でも多く稼ぎたいとか、健康的な欲望は持てなかった。まあ学生時代もそんな感じだったので性格の問題かもしれない。
サラダを作り終えた女房が椅子に座る。しばらくレタスの水滴を眺めてから気が付いた。冷蔵庫からドレッシングを出すのは俺の役割じゃないか。やっぱり調子がおかしい。
いただきます、とトーストにバターを塗り、目玉焼きに黒胡椒をかけ、ハイネケンで流し込む。実はあまり腹は減ってない。それどころか胃とこめかみの辺りに昨日の酒が残っている。ただ妊娠を報告した朝に旦那が朝食を一口も食べない妻の気持ちを想像し、パンの耳を齧ってから必要以上にサラダを多く取り分けた。食べている間は会話をしなくてもいい。煙草を吸おうかと思ったがやっぱり止めた。妊娠を報告した朝に目の前で旦那が煙を吐く妻の気持ちを想像したからだ。
正確には今年の冬で二十九になる。結婚して三年と少し。女房のマキは三歳下でパン屋勤め。子どもに関しては自然に任せていた。周りからは「友達みたい」な夫婦だと言われる。それが事実かどうかは分からないが、結婚前と変わりなく付き合っていけるのはとてもありがたい。
私はこんな人間です、と積極的に説明する自信はないが、消極的になら何とかできる。これまで受けた他人からの批評を寄せ集めればいい。
――計画性ゼロ。危機感ゼロ。反省ゼロ。
面倒なことは兄貴と姉貴にどうにかしてもらい、二人が実家を出た後は両親にどうにかしてもらってきた。特技は他人の顔色を窺うことくらい。その才能だけで生き抜いてきたのね、と笑ったのは付き合いたてのマキで、特に反論はしなかった。今だってする気はない。
彼女は良くも悪くも遠慮がない女だ。自分の意思や要求は相手が誰であれ伝える。足しもせず引きもせず正確に伝える。決して気難しいタイプではないが、初対面だと少し緊張感を強いられるかもしれない。何を隠そう、俺がそうだった。
元々同じバーの常連同士で顔は互いに知っていたが、話をしたのは時間が経ってからだ。その時の会話なんてとっくに忘れてしまったが、並び合ったカウンターで視線を逸らさず話す姿に気圧されたことは覚えている。その頃マキはまだ大学生だった。
知り合ってから結婚までは二年弱。式は挙げず、代わりに身内だけで食事会を開いた。マキは今のパン屋で働いていて、俺は人生初の失業保険を受給中。そう、今と同じだったんだ。
「どうしたの?」
トマトとレタスのサラダに手を伸ばしながらマキが怪訝そうに尋ねる。うっかり動作も視線も完全に停止していた。妊娠を報告した朝に、旦那から直視され続ける妻の気持ちは穏やかではないだろう。俺は口の中でもごもごと言葉にならない言い訳をした後、トーストの残りをよく噛みもせずに食べ終えた。
朝食が脳を活性化させる、というのは本当だ。残りのハイネケンを飲み干した途端、二日酔いに埋もれていた記憶が突然姿を現した。あ、と思わず声が出る。
「どうしたの? 大丈夫?」
いや何でもない、と曖昧に笑ってごまかすが我ながら下手くそだ。俺は昨晩コケモモから届いたメールを思い出していた。
調子はどう? /こっちは相変わらずってとこかな/そういえばまた禁煙失敗しちゃった/じゃあね
毎月二十六日になると、近況報告とも呼べないような薄い内容のメールが届く。普段は一度目を通したらそれっきりだし、もちろん返事だって出さないが、今日は少し事情が違う。さっきから気になって仕方がない。
手元に写真が一枚も残っていないので、頭に浮かんでいるのは当時似ていると言われていた女優の顔だ。本当は目元以外あまり似ていなかったはずなのに、時間の経過と共にコケモモの顔はその女優と同じになった。女優が老ければあいつも老けるし、女優が整形すればあいつも整形する。
昨日病院に行ったのよ、とマキがトーストにバターを塗りながら言う。ドラマでよく見る「女性がうっと唸って洗面所に駆け込むシーン」を浮かべながら、「つわりでもあったのか?」と尋ねる。俺にとって妊娠はその程度の認識だ。塗り終わったバターナイフをバターの容器にうまく寄り掛からせ、「ずっと風邪かと思ってたんだ」とマキは話し始めた。
「何となくだるかったからね。もしかしたらと思って検査薬でちょっと試してみたのよ。そしたら陽性だったから昨日は仕事を休ませてもらって病院に行ったの。知ってる? お店に行く途中にあるのよ、大きな病院が」
男の子か女の子か訊こうとしたが、多分見当違いの質問なんだろうと思い、仕事はどうするんだと訊いてみる。「まだ全然働けるわよ」という驚いたような口調から、どっちみち見当違いなんだと分かった。
「初めてだからよく分からんないんだけどさ、俺は何をしたらいいんだろう、なんか出来ることっていうか……」
オレンジジュースが入ったコップを手に持ちながら、「私も初めてだからよく分かんないんだってば」とマキは言った。それもそうだ。まずは目の前の朝食を全部食べることからスタートしてみよう。そして、コケモモのメールのことはひとまず忘れてしまおう。
マキが仕事に出て、俺は一人になった。明後日が返却期限のDVDでも見ようか、と歯を磨きながら思いついたがあまり気乗りしない。近所の図書館で出産についての本でも読もうか。いや、そうじゃないだろう。じゃあデパートのベビー用品売り場でも偵察に――。分かっている、当然それも間違っている。
頭の中でいくら考えても落ち着かない。結局ハイネケンを飲んでいるうちに眠ってしまい、本格的に目が覚めたのは夕方前、そろそろマキが帰ってくる時間だった。空き缶を水で濯ぎながら今夜は外食をしようと思いつく。さっきはあまり実になる話が出来なかったし、このまま家で飯を食っても気は休まらない。
濡れた手を拭きながらマキの職場に電話をすると運良く本人が出た。受話器の向こうからは「いらっしゃいませぇ」という声が聞こえてくる。パン屋は今頃が一番混むのだろう。手短に用件を告げると、外食なんて珍しいじゃんと笑われた。そういえば御無沙汰だったな。妊娠を報告した日の夜に旦那と外食をする妻は、穏やかな気持ちになってくれるだろうか。
服を着替える前にヒゲを剃った。会社に行かなくなってから一度も剃っていなかったので、鏡の中のすっきりした顔に違和感を覚える。少し太ったかもしれない。コンタクトを付けるのも一ヶ月振り。失業してからは何年も前に作った眼鏡で過ごしている。
一瞬スーツを着ようかと思ったがやめる。そんなに堅苦しい店には行かないはずだ。スーツも一ヶ月は着ていない。次の仕事はネクタイ締めなくていいところがいいな。そしたらネクタイとは一生おさらばかもな。結び方なんかすぐ忘れてしまうんじゃないか。
コーデュロイのパンツを履いて靴を選ぶ。外は少し寒かった。鍵をかけながら考えていたことはひとつだけ。ネクタイを締めるかどうかは別にしても、早く仕事を探さなくちゃな。きっと「人の親になる」ってそういうことだろう。
眼下に西新宿が広がっている。こうして上から見ると綺麗なんだよね、と呟くキャンドルで照らされたマキの横顔は楽しそうだ。予定日は十月のはじめの方だって、と横顔のまま教えてくれた。妊娠三ヶ月、か――。
子どもじみた逆算をして、大晦日に紅白を見ながらしたことを思い出した。あれがそうだったのかな? 中学や高校時代、十月十日が誕生日の奴をからかったもんだ。おまえの両親は元旦からセックスしてんのか、おめでてえなあ――。まさか、自分がそうなるとはな。
都庁近くの高層ビル、地上三十七階のフランス料理屋。本当は知り合いの店にしようかと思ったけれど、落ち着いて話が出来なくなりそうなのでやめた。普段、こういういかにもな雰囲気の店は二人とも馬鹿にして寄り付かないが、今夜くらいはおとなしくこの空気に溶け込もう。ベタに特別を演出するくらいしか、妊娠を祝福する方法が思いつかない。まだ三ヶ月目とはいえ酒を飲んでも大丈夫なのか心配だったが、きっと見当違いだろうと何も言わなかった。
選んだのは一番安い一万円のコース。ワインは、どうせ二本飲むだろうから「安くて重めの赤」とだけ伝えた。もっとちゃんとした格好をしてくればよかった、とジーンズ姿のマキが大袈裟に口をとがらすので、左後ろを見てみろよと小声で教える。マキの左後ろには髪をガチガチに固めて罰ゲームみたいにスーツを着崩したホスト風の男と、真夏から来たみたいな薄着の女が座っている。多分二人とも二十歳そこそこ、もしかしたら学生かもしれない。こういう店はいかにもな雰囲気のくせに客を選ばない。俺はそんなデタラメさが好きだ。
オードブル、スープ、魚料理。タイミングよく運ばれてくる料理に合わせて、今後のことをいくつか話し合った。とはいっても、初心者二人の知恵には限度がある。結局「互いの両親には明日報告しよう」ということ以外は決まらなかった。普通こういう日は何を話すんだろうな、と肩をすくめるとマキが自信有り気に言う。
「たとえば名前はどうしようとか、何を習わせようかとか、中学校受験はさせるべきかとか、あと何人欲しいかとか、そういう話をするのよ」
夜に向け徐々に発光し始めた西新宿を見下ろしていると素直に納得できた。二本目のワインも赤。少しだけ冷やしてもらう。久し振りだったせいか二人とも軽く酔ったらしく、互いに一度ずつナイフを落としてしまった。
俺の分のデザートまで食べながら、「もう一軒寄っていこうよ」とマキが機嫌よさそうに言う。どんなにベロベロでもタクシーで帰ればいい。二千円で足りるだろう。ただ店選びで手間取りたくないので、近くにいい店はないかと店員に尋ねてみると、同じビルの地階にバーがあるという。
「こんな格好でも入れるかな」
酔っ払ったどさくさにわざと深刻な顔で訊いてみる。俺よりも若そうな店員は困った表情を隠しもせず、「多分問題はないかと私どもでは存じておりますが……」と答えた。なんていう言葉遣いだ。でも、俺はそんなデタラメさが好きなんだ。
(第01回 了)
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