妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
そのバーの扉は銀色で重かった。少し体重を預けると滑らかに動き、中からくぐもったサックスの音が聞こえてくる。
「あ、ジャズかけてるんだ。よかったね」
マキが微笑む。俺はたいして詳しくないけれどジャズが好きだ。きっかけは特にない。強いて挙げるなら、高校時代にロックやアニソンを聴くよりも格好いいと思ったから、だろうか。親の影響を受けて、という由緒正しい理由ではない。昔も今も実家の喫茶店に流れているのは有線のクラシックだ。
当時、学校の帰りに大きな中古CD店に寄り道すると、一枚五十円や百円でジャズのLPが投げ売りされていた。ジャケットも確かめずによくまとめ買いをして、一人暮らしをするために家を出た兄貴のプレイヤーで聴いていた。
聴き始めると、ロックやポップスよりも疲れなかったので好きになっていった。歌がないインストの曲は区切りがよく分からず、聴いているうちに今どの辺りなのか、もう次の曲なのかがこんがらがってくるけど、それで一向に構わない。こんがらがればこんがらがるほど適当に聴くことが出来る。どんなに長い曲でも、適当に聴いているから全然疲れない。だから好きなのかもしれない。ただジャズってどうしてすぐこんがらがるんだろうと、今でも不思議に思っている。
大学に入ると「名盤」と呼ばれているアルバムをCDで買い揃えるようになり、有名な演奏者の名前と担当楽器が少しずつ一致しはじめた。聴き始めた頃は、有名な演奏者は全員サックスを吹いていると思っていた。
ここ最近はサブスクで聴くことが多い。でも何か違うような気はしている。あれは「聴く」というより「流す」という感じ。俺みたいなタイプは気にならないが、詳しくなりたい人には物足りないと思う。CDでもレコードでも構わないが、やはり手で持てたり、重さがあったりする方がいい。
マキとは音楽の趣味が合わない。気を遣っているのか、俺が家にいる時はテンポが速くてうるさいロックをヘッドフォンで聴いている。俺はスピーカーから音を出しているが文句を言われたりはしない。きっとジャズは疲れないからだろう。
薄暗い店内を見渡しながら「聴いたことのある曲だな」と思っていると背の高い女がカウンターに案内してくれた。長い脚にパンツスタイルがよく似合っている。テーブル席も空いていますが、と言われたがカウンターにした。俺もマキもバーテンの動きを見ているのが好きだ。カウンターは十席ほどで、還暦は過ぎているであろう大柄な男性のバーテンが丹念にグラスを拭いている。テーブル席には客がいるが、カウンターには誰もいない。
マキはジン・トニック、俺はブラック・ルシアンを頼む。かしこまりました、と低い声。照明の具合のせいか偉大なジャズマン、デューク・エリントンに似ている気がする。俺は彼が作った「ソリチュード」という曲が好きだ。
アイスピックが氷を削る音、他の席のざわめきやグラスの音色、そしてマキの話し声が、酔った耳の中で程よく混ざってとても心地がいい。微笑みながらデュークがグラスを目の前に置く。カルーアの匂いと氷の感触にリラックスしてしまい、椅子の上で軽く伸びをした。
酔ってくると俺は無口になり、マキは饒舌になる。いつものように聞き役に回っているうち、マキはジン・トニックを飲み終わりトム・コリンズを頼んだ。デュークはシェーカーをゆっくりと振る。薄暗さの中、反射光が描く流線型に見蕩れてしまう。
そういえばさあ、とマキの声が少し大きくなった。昔と変わらず真っ直ぐに浴びせられる視線。余った商品を廃棄処分する勤め先のパン屋に思うところがあるらしい。昔は近隣の施設に配布したり、閉店間際に安く売ったり、従業員に持ち帰らせたりしていたが、最近はほとんど捨ててしまうという。理由は「食品店としての衛生管理義務」。養豚場や養鶏場と契約して餌にしたらどうか、と提案するとトム・コリンズを飲みながら首を振る。
「他の店舗との兼ね合いがあるからうちだけ勝手には出来ないんだって」
なるほど、と納得する。何かいい方法ないかなあ、と呟いた直後にマキは目の前のデュークに声をかけた。
「ねえ、どう思いますか、そういうのって」
昔からマキは初対面の人にも物怖じしない。その手の客には慣れているのか、彼は微笑みを崩さないまま「うーん、そうですねえ」と低い声でゆっくり話し始めた。きっと本物のデュークも似たような声だったに違いない。俺は彼が作った「キャラヴァン」という曲も好きだ。
「そうですねえ、私は分からないことがあるとその答え自体よりも、何故そのことで悩んでいるのかと考えてしまうんです。今のお客様のお話に置き換えると、具体的な解決策よりも、何故解決策を知りたいのか、と考えてしまうんですよね」
俺もマキも黙って耳を傾けている。落ち着く声だ。
「そうすると自分の意見や、何ていうんですか、立ち位置、スタンスみたいなものがよく見えてくる気がするんですよ。まあ、あまり考えすぎて元々どういう疑問だったか忘れてしまったりもするんですがね」
そう言って軽く笑うと、カウンターの上のボトルを手に取りラベルに視線を落とした。何ひとつ核心に触れていないが見事な回答だった。そっかぁ、とマキが天井を見上げる。「なんで私、廃棄品のこと気になってるんだろう」。
俺はあえて話を続けず、もう一度ブラック・ルシアンを頼む。ひとりで考えた方がいいだろう、と気を利かせただけではない。ポケットのスマホが振動を伝えてきたからだ。流れるジャズのおかげで振動音はマキに届いていない。俺はデュークにトイレの場所を尋ねた。
店内と同じく薄暗いトイレの鏡の前でスマホを確認する。レンタルビデオ屋からのクーポンメールだった。脅かしやがってと腹が立つでもなく、ただ安堵した。鏡に映る自分の顔を眺めながら、そりゃそうだよなと可笑しくなる。何も焦って確認する必要などなかったんだ。コケモモからのメールは昨日届いたじゃないか。あいつがメールをよこすのは毎月二十六日だけだ。
手を洗いながらもう一度コケモモの顔を思い出そうとしたが、やはりあの女優の顔しか浮かばない。あまりにも現実味が薄くなりすぎて、時々あいつはこの世に存在しているのかと疑いたくなる。怪談めいた非科学的な妄想に耽ったことも一度や二度ではない。ただ毎月二十六日に来るメールの正体がどうあれ、過去の出来事はそのままだ。消えてくれるわけではない。数年前、コケモモは俺の子どもを堕ろしている。
席へ戻ると同時に、新しい客が入ってきた。スーツ姿の男が三人、テーブル席に案内されていく。今日は平日だったな、と思った瞬間マキが口を開いた。
「やっぱり単純にさ、食べ物を捨てるっていうのが嫌なんだよね」
デュークはちらりとマキを見て軽く頷いた。
妊娠四ヶ月目(十二週〇日~十五週六日目)
身体に変化は見られなかった。よく乳首が黒ずんでくるなんて言うけどあれはデマなのかな、と思いながらしがみつき舌を這わせた。薄闇の中、百六十センチの華奢な肉体は自分が発する熱で溶け続けている。本当はベッドの柵に手をつかせて後ろからやりたかったけど、正常位以外の体位は不謹慎な気がしてやめた。あと、珍しく最初からコンドームを着けた。理由は自分でも分からないが、マキの中で日々育っている子への配慮かもしれない。
「妊娠中にちゃんとセックスしとかないとな、子どもが産まれた後に女房じゃ勃たなくなっちまうから気をつけろよ」
前の会社の先輩の口癖だ。その時は当然ピンとこなかったが、今こうしてマキとしていると理解できる。脚の指を舐めさせたり、鏡の前でわざと乱暴にしたり、タオルで目隠しをしたり、髪の毛を掴みながら口に突っ込んだり……という類のことをしてはいけない気がする。こわれものというより、預かりものみたいだ。
正常位のまま果てそうになった瞬間、お腹の子の存在を思い出して調子が狂う。タイミングを外してしまった。気付かれないように間を取り直すのは難しい。表情ではなく感触でばれてしまいそうだ。さっきから少し喉が渇いている。二人とも汗をかいてきた。まだ冷蔵庫にハイネケン入ってたよな。
マキがねっとりとした声をあげ、軽く締めつけられる。口の中でマキの舌が動き回り、唾液が奪われていく。導かれるように耳の裏を舐めた。汗の味とシャンプーの匂いが目の裏側近くでぶつかりジリジリと振動を伝えだす。マキの頬の産毛越しに時計が見えるけど針の位置までは分からない。また波が来そうだ。
ねっとりとした甘ったるい声の中から、言葉らしき音が浮かんできている。卑猥なその単語の意味が徐々に形になり、太腿の辺りを軽く震わせる。口の中にやらしい匂いが充満してきて、喉の渇きもそろそろ限界に近付いてきた。汗が顎のラインをつたって落ちていく。突然、細かく刻まれたマキの声が勢いよく舞い上がった。ハイネケンのラベルが一瞬はっきりと浮かび、俺は追い立てられるようにして果てた。
マキの身体同様、生活も劇的に変わるわけではなかった。何か変えなければ、という俺の意気込みは空回りし、外から帰った後にうがいと手洗いをするのみだ。
どう振る舞うべきかを知りたくて大型書店に足を運んだが、「食事の用意を手伝いましょう」とか、「自己中心的な夜の営みは控えましょう」とか、当然のことばかりであまり役には立たなかった。もっと特別な振る舞いをしなければ頼りない亭主だと思われそうで心細い。
マキ自身は定期的なつわりのせいで、段々と「普通の生活」をキープするのが大変になってきたという。吐いたり気持ち悪くなったりするタイプではなく、食欲が増すタイプだから傍から見ても分かりづらいのかな、とも言っていた。つわりに関しては、酸っぱいものを食べたくなるという情報くらいしか俺は持っていない。手洗いとうがいを繰り返す夫の頼りなさは察しているらしく、最近は自分の姉や母に電話でよく相談をしている。
山梨に住んでいるマキの姉は俺より三歳上で、小学校高学年の一人娘がいる。姪っ子のリッちゃんだ。年に何度かは遊びに来て、マキと一緒に出かけたりしている。別に行きたい場所があるわけでもなく、両手に持ちきれないほどの買い物をするわけでもない。
今年の正月明けにも来たので「ディズニーランドにでも連れてってやったらどうだ?」と言うと、「今の子ってそういうの好きじゃないのよ」と諭された。たしかにリッちゃんは口数の少ない大人びた子だが、そういうものなんだろうか。よく分からない。
昨日もテレビを見ていると、マキがスマホではなく家の電話で色々と相談をしていた。
「なんだかさ、俺が頼りないみたいだな」
電話相談を終えたマキに愚痴っぽく呟くと、「どこの家でも一人目の時は同じみたいよ」と笑っていた。つわりと言えば酸っぱいもの、という俺の認識は果たして平均点を取れるだろうか。
就職活動の方は適当に行っていた。適当、というかテキトーだ。失業保険の認定日にはハローワークを訪れ、職業相談をする。再就職について具体的な希望がないから、どうしても実りのない話し合いになってしまう。ただ失業保険を貰うためには、月に二回の求職活動が必要だ。職業相談自体で一回カウントされるので、あともう一回。とりあえず無難そうなセミナーに申し込んでは、どうにかカウントを稼いでいる。
妊娠を知らせた悪友連中からは「父親になるんだから、ちゃんと働けよ」と忠告をされたが、曖昧な返事でごまかしておいた。この際予定を前倒しして、喫茶店を継いでしまおうかな。両親はもう六十代、初老だ。住んでいるのは喫茶店の二階。一番近い駅は両国なので、この家からだと一時間弱かかる。開店が七時半と早いのが気にかかるが、職場として考えれば恵まれた条件だろう。豆にこだわっているとか、ランチメニューが豊富だとか、そういうセールスポイントが全くないのに不思議と客は入っている。
もちろん常連客だっている。いつも一番大きなテーブルを陣取っている年寄りのグループだ。週の半分以上は必ず店に来るらしい。近くにもっと安いチェーン店のコーヒー屋とかファミレスもあるのに、わざわざどうしてと不思議に思う。そういえば近所にある専門学校の生徒たちも結構来ていて、レポートを仕上げたりノートを写したりしている。
「あの学校がある間はこの店安泰だね」
先日父親にそう言ったが、興味なさそうに眉を動かしただけだった。元々商売っ気のある人ではない。喫茶店を始めたのは俺が小学校三、四年の時で、その前は何人かの友人たちと小さな塾を開いていた、らしい。
らしい、というのは父親本人から聞いたわけではなく、全て母親や姉貴から聞いた話だからだ。元々は中学生向けの塾だったが、高校生になった生徒たちの要望に応えて大学受験用の勉強も教えていた、らしい。
遭遇したことは一度もないが、いまだに当時の生徒が父親を慕って店に来てくれる、らしい。
小さい頃の記憶をたどっても、勉強をしろとうるさく言うタイプではなかった。ただ兄貴と姉貴が当然のように大学に進んだので、俺もそれが普通なのかと大学進学を決めただけだ。兄貴も姉貴も国立だったから、私大受験を決めた時は贅沢者とからかわれた。
ここ最近そんな具合に、さして重要とはいえない記憶が蘇ってくる。理由は簡単。テキトーな就職活動のせいで時間を持て余しているからだ。
家の中ならまだしも、昼間から外で酒を飲むのはさすがに気が乗らない。自然と足が向くのは将来の就職先候補・実家の喫茶店になる。事前調査には程遠いが、テキトーな就職活動の名には恥じないだろう。せっついて動くタイプではないと経験上分かっているからか、二度目の失業保険給付中の末っ子に両親は何も言わない。
たまには厨房の中に入り、突っ立ったまま二人の仕事ぶりを眺めている。父親はコーヒーを淹れ続け、母親は皿やカップを洗い続ける。初老の夫婦のペースは一定だ。延々と続くサイクル。俺も近い将来、そのサイクルに巻き込まれるのだろうか。息子の心中を察したらしく、最近母親がよく同じ冗談を言う。
「そろそろ私たちの匠の業をあんたにも教えないとね」
(第02回 了)
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